はなの乙女の断罪譚
隅々まで曇り一つ無く磨き上げられた、美しい斑紋が浮かぶ大理石の床。
月が中天に坐する刻限だという事を忘れそうなほど、室内を煌々と照らす豪奢なシャンデリア。
贅を凝らした料理に美酒。典雅な調べを奏でる楽団。老いも若きも華やかに着飾る紳士淑女達。
――今宵は、レイファ国王城にて開かれた舞踏会である。
さて、豪華絢爛にして荘厳華麗たる会場の片隅に、周囲から一際注目を浴びている一角があった。
休憩用にと配置されているソファーに座る、ピンクブロンドの可愛らしい少女。そして、彼女と語り合う複数の青年達。
それだけであれば、まぁそこまで珍しいという光景でも無く、多少は好奇や下世話な目を向けられたかもしれないが、周りの関心を然程集める事も無かっただろう。
だが、少女の側に居るのが、宰相子息、騎士団長子息、魔術師団長子息、それに何より――王太子殿下まで陣取っているとなれば、話は大いに変わってくる。王族と、高位貴族かつ要職に就いている家の嫡男ばかり揃っていては、嫌でも人目を引くというものだ。
とりわけ同世代の者達には到底見過ごせる訳が無く、その最たる集団の輪が少し離れた場所で形成されていた。
「まぁ、皆様ご覧になって?」
「嫌だわ、またですのね」
「恥ずかし気も無く、よくあのような振る舞いを……」
ヒソヒソと、ソファーで談笑している面々を遠巻きに眺めながら令嬢達が囁き合う。特に剣呑な空気を発しているのは、少女の周りを囲んでいる青年達の婚約者だ。その目には侮蔑や嫌悪の色がありありと浮かんでいる。
「また」と口にした令嬢の言葉通り、このような光景は今日が初めてではない。むしろ何度となく繰り広げられているからこそ、その中心にいつもいる少女――シュリーゼ・ファブル子爵令嬢は、今や社交界で知らぬ者など居ないのではと思われるほど、すっかり有名人となっていた。
事の起こりは、春の社交シーズンの始まりである、王城での夜会。
そこでお披露目されたデビュタント達の中に、シュリーゼも居た。十五歳の成人として社交界に出たばかりという事もあって、やや幼い顔立ちと、夜会にまだ物慣れぬ様子がどこか小動物めいた印象を与え、庇護欲をそそられる者も多かっただろう。
社交への正式な仲間入りを祝してデビュタント達と一曲踊る習わしとなっていた王族の内の一人、アミール王太子殿下もまた、緊張しているのか少々蒼褪めていた年下の少女を気にかけ、震える手を優しく取ると、踊りの輪の中へと誘った。
……しかし、ダンスをするにつれて、その様子が徐々に変わってゆく。気付けば瞳は喜びを隠しきれぬように煌めき、頬は興奮で僅かに赤らみ、何やら熱心に話しかけていた。
それだけでも、目ざとく注視していた周囲は十分すぎるほどにざわついていたのだが、踊りを終えた殿下が彼女の手を離さないまま、己の側近候補でもある友人達の元へと連れて行って引き合わせた事で、ざわめきは一気に加速した。
そして驚く事に、夜会以降も彼女と彼らの交流は続いたのである。
ある時は魔術師塔の側で、魔術師団長子息と。
ある時は騎士団の練習場で、騎士団長子息と。
ある時は王城の一般公開をされていない区域で、宰相子息や殿下と。
基本的に関係者以外は立ち入り禁止の場ばかりだというのに、シュリーゼは平然とした様子で彼らの傍にいた。まるで、憤懣や嫉妬を募らせた女性達から茶会等の社交に一切呼ばれず事実上の締め出しを食らっている現在の状況など、全く痛くも痒くも無いとでもいうように。
更には、逆に爪弾きするよりも手っ取り早いとばかりに、呼び出して身の程を弁えるよう話を付けてやろうとした者達もいたのだが、彼女は彼ら自身か、もしくは彼らの手の者が常に守るよう傍を離れなかったため、思惑を阻害された令嬢達を一層歯噛みさせた。
今日の舞踏会も、本来であれば子爵家程度の身分では足を踏み入れる事すら叶わない。ただし――それを許せるだけの地位を持った者から、招待ないし同伴者としてエスコートをされれば別だ。間違いなく、彼らの内の誰かが誘ったのだろう。
「……流石に、些か目に余りますわね」
一言、決して荒げられる事も無く静かに紡がれた声が、けれど有無を言わさぬ迫力を持って、密やかに囁いていた令嬢達の口を一瞬にしてピタリと噤ませた。
自然と、皆の目が吸い寄せられるように、その声の主へと向けられる。数多の視線を浴び、だが欠片も動じる事無く昂然と受け止めたのは――アミール殿下の婚約者でもある、ロザンナ・バトラールド公爵令嬢だ。
あちら側の中心がシュリーゼであるならば、こちら側で令嬢達の輪の中心となっているのは彼女であると、誰もが認めるだろう。
繊細なレース細工が施された扇を、微かな音も立てず優雅に開いて口元に添えれば、身に纏っているのと同じ薔薇の香りがふわりと艶やかに広がる。扇の影で、その唇は嘲るように弧を描いているのか、はたまた憎らしげに噛み締められているのか、一切を周囲に微塵も悟らせる事なく、ロザンナは己の婚約者がゆったりと寛いだ笑みを浮かべている姿をじっと見つめた。
(……夜会で、わたくしもアミール様から、あのように心を許したような顔を向けられた事があったかしら)
いや、かつては確かに、ああして自分にも微笑みかけてくれていたのだ。陛下にも承認され、殿下の婚約者だと公式に発表されてからは、ダンスだって数え切れないほど何度も踊ってきた。
……それがいつしか、浮かべる表情がどこか強張り、ダンスの時も他人行儀な距離を取られ、会話も碌に弾まなくなった。
今日だって、エスコートもダンスもして貰えたけれど、一曲踊り終わればすぐにそそくさと離れられ、挙句の果てにこうして不快そのものと言いたくもなるような光景を見せつけられている。
喉元まで出かかった溜息をぐっと飲み込み、ロザンナは心の内で己に、もしくは彼に向けた問いかけを小さく呟いた。
(わたくしの何がいけなかったの――彼女の、何が良かったの)
ツキン、と走る胸の痛みを堪えるように、目を僅かに眇める。傍から見れば、さぞや不機嫌そうに映るだろう。まぁ、実際に機嫌は全くもって宜しくないので、あながち間違いでも無い。
だが、ロザンナは決して顔を俯けたりなどせず、視線を逸らす事もしなかった。
殿下からの愛を失った哀れな女、いずれ婚約も解消されるのではと、口さがない宮廷雀達が噂を囀り始めた事はとうに掴んでいるけれど、だからといって惨めな敗北者のような様を晒すつもりは無い。そんな事は己の矜持が許さない。
王家に次ぐ地位である筆頭公爵家という家柄。大輪の花と称される母譲りの美貌。一流のものばかりを揃えた教育。若くして作り上げた社交界での広い人脈。
彼女には、田舎領地を治めるしがない子爵の娘には、到底持ち得ないものを自分は生まれ持ち、さらに自ら他の追随を許さぬほど研鑽し続けてきた。
(……全ては、あの方の隣に立つ存在として、相応しくあれるように)
ただひたすらに、脇目も振らずそれだけを目指して努力を重ねてきた自分に、何ら恥じる所など無い。恥を知るべきなのは相手の方である。
――その事を、いい加減あの不届きな小娘に分からせてやらなければならないだろう。
ロザンナが一歩足を踏み出せば、輪となっていた令嬢達は気圧されたようにスッと下がり、自然と彼らへ向かう一本道を形作る。コツ、コツ、と大理石の床を小さく響かせるヒールの音は、そう時間を掛けずして止まった。
「ごきげんよう、皆様。お話をなさっているところ失礼致しますわ。……少し、わたくしにお付き合い頂けるかしら?」
歓談を止めて、眼前に現れた己に向けられる幾つもの視線。その中のたった一対のみを、ひたりと見据えながら、ロザンナが促すように首を僅かに傾ければ、寸分の隙も無くキッチリと縦ロールに巻いた真紅の髪も、動きに合わせるように小さく揺れた。
無言の名指しを受けたシュリーゼは、ほんの一瞬だけ顔を顰める。けれどすぐにソファーから立ち上がると、少々ぎこちないながらもカーテシーをして家名を含めた名乗りと挨拶をした上で、ニコッと微笑んだ。
「喜んで! 私も、ずっとロザンナ様とお話したかったんです!」
そう言いながら、隣に座っていたアミール殿下にチラリと目配せをする様子をしっかり見逃さなかったロザンナは、完璧な笑顔の仮面を纏っていた頬を軽く引き攣らせる。
(――良い度胸だこと)
カーン! と、試合開始を告げる鐘の音が、どこかで響いたような気がした。
話合いの場に使うと良い、と殿下から指示された、具合が悪くなった者のために何ヶ所か用意されている小部屋の中で、ロザンナとシュリーゼは椅子にも座らず対峙する。
ここまで案内をしてきた使用人も既に下がらせており、室内にいるのは二人だけだ。そうして扉を閉めてしまえば、微かに聞こえていた楽団の演奏も人々のざわめきも、全く耳に届かなくなる。
シンと静まり返った部屋の中、その沈黙を今まさに破ろうとロザンナが口を開いた――が、声を発するより僅かに早く、シュリーゼが待ったを掛けるように片手を顔先に突き出した。
「大体、仰りたい事は想像がついてます……私が、殿下や側近候補の方々と一緒にいるのはおかしいって話ですよね?」
詰問しようと思っていた事を率直に言われ、しかも悪びれも無い様子にロザンナは少なからず鼻白む。此方の反応を察しているのなら、つまりあの振る舞いは全て確信犯だったのかと苛立ちは更に増した。
しかし「ですが、疑問には思われませんでしたか? 殿下方は何故、私の傍にばかりいるんだろう、と」などと意味ありげな発言を重ねられてしまえば、言葉を遮るのをつい躊躇ってしまう。
とはいえ相手の言葉通りだと認めるのは癪に障るため、どのような世迷言で弁明してみせるのかと視線がますます鋭くなってしまったが、その射るような眼差しにもシュリーゼは怯まなかった。
「ここは敢えて! 不躾ではありますが、端的に、直球で、申し上げさせて頂きます」
両の拳をグッと握り締め、かけ離れた身分の差に臆する事無く、真っ直ぐな瞳でロザンナを見据える。
そして、ただ一言を口にした。
「ロザンナ様達は…………くっっっさいんです」
――いっそ耳に痛いほどの静寂が、室内を満たした。
あまりにも予想外の台詞に、何を言われたのか一瞬理解できず、思わず淑女としての振る舞いも忘れて、ロザンナはポカンと目を丸くする。が、耳を通った言葉が漸く脳へと到達して、言われた意味を認識した瞬間、先程までの比では無い怒りで顔を赤く染めた。
「なっ……あ、貴女、このわたくしに対して、何という不遜な……っ!」
生まれてこの方、ここまでの屈辱を味わった事があっただろうかと、ロザンナは手にしていた扇がミシミシと軋みそうな程の力を込めつつ震える。しかし、その扇をこの失礼極まりない小娘に叩きつけてやろうと振り上げかけた寸前、それを察知したかのようにシュリーゼは更に言葉を続けた。
「香水を付けすぎなんですよ! ちょっとにしておけばウットリするほど良い香りなのに、何でそんな大盤振る舞いに付けてらっしゃるんですか! 香水瓶丸ごと頭からじゃぶじゃぶ浴びてるとしか思えません! 鼻がおかしくなります! もげます! むしろもぎたい!! もいで丸洗いしたい!!!」
「は?」
何だか更に想定外の言葉を怒涛の勢いで浴びせられ、逆に気勢をそがれてしまったロザンナは、今度は目だけでは無く口まで呆けたように開けてしまう。
そんな間抜けな表情を晒すなど、普段ならば絶対に有り得ないが、度重なる衝撃の方が上回り、淑女らしく取り繕う余裕も無かった。他に目撃者が居ない事だけが救いである。
一方、叫び続けたせいでゼエハアと肩で息をしていたシュリーゼは、やがて呼吸が整うと、打って変わって静かな口調で、改めて話を切り出した。
「――私、鼻が良いんです。いえ、今までそんな特技を持っているとは自分でも知らなかったんですが、王都へ来てから嫌でも知る羽目になってしまいました」
シュリーゼは、デビュタントのために王城へ参じるまで、ずっと領地で暮らしていた。
王都に辿り着くのに馬車で五日間も掛かってしまうほど遠く離れた、豊かな自然に囲まれた風光明美な地……と言えば聞こえは良いが、要はド田舎である。ちなみに酪農を主産業としており、特産品は王都でもそこそこ名が通っている美味しいチーズだ。
人よりも牛の方が多いんじゃないかという、実にのどかな風土に合わせたかのように、子爵家は一家揃って暢気で気さくな性格をしており、仮にも貴族令嬢であるシュリーゼが平民の子供達の中に混ざって遊んでいても、何なら遊びの延長で農作業の手伝いまでしていたって、大らかに見守っていた。というか、シュリーゼの母は子爵家の父と乳兄妹だった平民上がりの元メイドであり、爵位による身分の垣根はほぼ無いに等しかった。
そんな訳で、自然と触れ合い、自然と親しみ、自然と共に育ってきたシュリーゼは、デビュタントを迎える年になって初めて王城に、そして貴族の社交に足を踏み入れたのである。
領地の遠さに加え、下から数えた方が早いという爵位の低さで呼ばれる順番は遅いと分かっていたため、シュリーゼとエスコート役を務める父の到着は随分とのんびりしたものだった。故に、早々に入城していた他のデビュタント達とは違い、控室で待つ必要も無く、そのまま会場へと案内される。
扉の前で係の者に名を読み上げられ、緊張と高揚に身を震わせながら会場に入った――と同時に、噎せ返りそうなほど濃い香りが、シュリーゼの鼻を容赦なく襲った。
(んぐっ!?)
咄嗟に鼻をつまもうとしたものの、しかしエスコートをしてくれていた父が、いつの間にかシュリーゼの手をがっちりと掴んでいる。思わず涙目を向ければ、とにかく耐えろと雄弁に物語る死んだ目が返された。
……これが異常事態などではなく、こうした場での通常なのだと悟り、シュリーゼの目からも光が消える。
全く免疫の無かった貴族社会の洗礼は、あまりにも厳しいものだった。
会場内に洪水の如く溢れる香りは、一つ一つ個別に嗅いだのであればまだマシだったのかもしれないが、しかしどれもが己の存在を熱烈に主張しては押し合いへし合いするかのように混ざってゆき、もはや縄張り争いの大乱闘といった様相である。
嫌でも全神経が鼻に集中してしまい、華やかな舞踏会への、年頃の少女らしい憧れなど一瞬にして霧散した。
無理。駄目。気持ち悪い。吐く。
そんな言葉ばかりが頭の中でグルグルと回り、こめかみを冷や汗が伝う。おそらく顔色も真っ青になっているだろう。必死に吐き気を堪えているせいか、先程とは別の意味で体が震えだした。
いっそ吐いて楽になりたい。しかし王族すら居る場で、流石にそのような粗相は出来ない。でも、これ以上はもう耐えられそうにない……!
――限界を悟ったシュリーゼは、反射的に魔法を展開していた。
「幸い、私には水と風と光の魔法属性が、僅かですがあります。それらを組み合わせて使う事によって、香りを消す事が出来るんです」
まず、極限まで水滴を小さくした霧を水魔法で作り出す。次に、それを風魔法で自分の周りに広げる。すると、辺りに漂う香りが水滴に吸着されるので、その水滴を一つに纏めて仕上げに光魔法で浄化をかけるのだ。こうすれば、闇雲に周囲を浄化するよりも格段に少ない魔力量で済む。
あとは水滴をまた霧状にして周囲に散らせば良い。触れた人も、精々ちょっとヒンヤリしたかな? と思う程度だ。
……実はこの魔法、元々は領地で酪農の副産物として大量に、文字通り山ほどの量となる堆肥の臭いに辟易したシュリーゼが、試行錯誤の末に編み出したものだったりする。
その事は墓まで持っていく秘密にしよう、と彼女は心の中で誓った。流石に、乙女心を更に傷つける、どころか木端微塵にしそうな追い打ちをかけるのは忍びなかったので。
「つまり、殿下や他の方々は、私の無香魔法の範囲内に一時避難してらっしゃるんですよ」
シュリーゼは一連の騒動の原因について、説明をそう締めくくった。
というのも、この魔法は三属性を持っていないと個人では使えない上に、なまじ魔力量が多い方が操作し難いのである。油断すれば風が吹き荒れるか、もしくは周囲ごと水浸しになるか、やたらと光り輝いて無駄に注目を浴びる羽目になってしまう。シュリーゼのように魔力量が絶妙に少ない方が、繊細なコントロールをし易いのだ。
だからこそ、王族や高位貴族らしく豊富な魔力量の彼らは、こぞってシュリーゼの側へと寄り無香魔法の恩恵に与っていた。
余談だが、シュリーゼが魔術師塔にいたのは、無香魔法に興味を示した魔術師達に説明をするのと、ついでに同様の効果を出せる魔道具が作れないかという話し合いに協力していたからであり、騎士団の練習場にいたのは、無香魔法を実証するために訓練後の汗臭い男達を実験台にしていたからであった。尚、どちらも上層部にはちゃんと許可を取っている。
そして城内で殿下達と行動していたのは、シュリーゼの存在を気に食わない者が短絡的な行動に出ないよう、保護と牽制を兼ねていたからだ。まぁ、その対応によって一層シュリーゼへの反感が強まってしまった面もあるのだが。
想像の遥か斜め上を超えていた真相に、ロザンナは愕然と立ち尽くした。その唇から、半ば無意識に言葉が零れ落ちる。
「それじゃあ……アミール様がわたくしと目を合わせて下さらなかったり、傍にいても厳しいお顔をなさっていたのは……」
「あ~……おそらく、目じゃなくて、鼻を向けたくなかったのではと」
独り言めいた呟きにもシュリーゼは律儀に答える。
「確かにロザンナ様はとてもお綺麗ですけど、これだけ香りが強烈だと印象がそれしか残らないというか、近くにいればいるだけ香りに引いてしまうというか……正直どんなに着飾ったところで、何か薔薇がドレス着て宝石付けて寄ってきたな、位にしか思われないですよ」
扇を広げると薔薇の香り。髪が揺れれば薔薇の香り。ドレスが翻ったら薔薇の香り。
手を取っても薔薇の香り。肩を抱いても薔薇の香り。顔を寄せても薔薇の香り。
兎に角ひたすら薔薇、薔薇、薔薇だ。そして距離が近付けば近付くほど、薔薇の香りは更にマシマシである。どれほど素晴らしい香りであろうと、度が過ぎれば激臭だ。もはや苦痛でしかない。
グサグサグサ、と悪意は無いのだろうけど遠慮も情け容赦も全く無い言葉の刃で滅多刺しにされ、満身創痍になった思いで息も絶え絶えなロザンナは、それでもシュリーゼを縋るように見つめた。
「昔は、ダンスだって何度も踊って下さったの。笑顔で、踊っている間も沢山お話をしたわ……でも、年を重ねるごとに、どんどん素っ気なくされて、会話も殆ど続かなくなって」
ふむ、と一つ頷き、暫し黙考してから「あくまで私の予想ですけど」と前置きをした上で、シュリーゼは推測で出した結論を告げる。
「運動をすると体が温まりますよね? そして香水は、体温が上がるほど香りが強くなります」
後はもうお分かりでしょう、と言わんばかりの眼差しに、ロザンナは力無く頷く事しか出来なかった。
ダンスをもまた運動のようなものだ。時にゆったりと、時に軽やかに、洗練された仕草に見せてはいても、踊り終えれば多少汗ばんでしまうくらいには結構な体力を消費する。
「ですので、ダンスの間は会話が少なくなったというのは、その……殿下は多分、軽く息を止めて耐えてらしたんじゃないですかね……」
流石に気の毒に思ったのか、やや歯切れ悪くシュリーゼは推測を更に付け加える。
言葉を交わすどころか、呼吸すら控えられていたという衝撃の事実に、ロザンナは公爵令嬢としての矜持も投げ捨てて泣きたくなった。
――だが同時に、心の何処かで納得している冷静な部分もあった。それは、シュリーゼと殿下達に対する周囲の男性陣の態度だ。
傍から見れば、どう考えても醜聞以外の何物でも無いのである。単なる子爵令嬢に過ぎないシュリーゼはともかく、彼らは己の身分に責任を持つべき立場であるからこそ、国の行く末を憂いて諌める者が何人もいて然るべきだ。
無論、ロザンナとて父に訴えた。否、ロザンナのみならず、ロザンナの母もまた夫に苦言を呈するよう口添えをした。蔑にされているとしか思えない娘への愛情と同情に加え、格下の家柄の娘が己の娘より殿下に求められているという事が我慢ならなかったのだろう。
しかし何故だか、父は別の夜会で参加していたシュリーゼと直接話をした後、妻や娘に対して気まずげに目を泳がせながら「いや、何、あの娘もそう悪い者では無さそうだ。殿下方にも考えがあるようだし、お前達も今暫くは静観していなさい」などと、ボソボソと口ごもるようにしながらも言い聞かせてきたのである。
まさか父すら向こうの味方になるとは露ほども思っていなかったロザンナは、裏切られた気持ちで一杯だった。もしや、彼女は禁術とされている魅了魔法でも使っているのではないかと疑ってさえいた。
……けれど、今となっては全て合点がいく。直接話すために傍へと行ったならば、シュリーゼの魔法の効果を実感したのだろうし、殿下達からも理由を説明されたのだろう。それに何より、自分の妻や娘に「お前達が臭いから対策をしてくれているのだよ」とは流石に言えなかったに違いない。
そして今に至るまでシュリーゼが殿下達と引き離されていないという事は、つまり他の家でも似たような流れが繰り広げられていたのだろうと、嫌でも察するしかなかった。
最初の堂々たる姿はどこへやら、今や枯れかけの薔薇のように弱々しく萎れてしまったロザンナに、シュリーゼはそっと近寄って尋ねる。
「ところで、私が身に着けているこの香り、どう思われますか?」
「え? 爽やかで、少し甘い……花というより果実のようね。それにハーブのようにスッキリとした香りも混ざって……まぁ、悪くないと思うわ」
気落ちしているからか、かえって素直にロザンナは答えた。仄かに鼻を擽る香りは、己が使うには好みと違うけれど決して不快感は無かったし、彼女には確かに似合っている。
その言葉を聞いて、シュリーゼは安堵したように微笑んだ。
「良かった! この香りが分かるなら、もう鼻の調子もかなり回復されてますね!」
「?」
一体どういう事かと訝しげに眉を寄せるロザンナに、シュリーゼは「実は」と、悪戯を隠していた事を告白する子供のように、少々バツが悪そうな表情を浮かべながら口を開く。
「お気付きではなかったでしょうが……といいますか、気付かれないようにしていたんですけど、私、ロザンナ様に向けて先程ご説明した魔法を使っておりました」
そして、間髪入れず部屋の奥へと顔を向けた。
「――もう出て来られて大丈夫ですよ、殿下!」
「えっ」
これ以上驚かされる事はあるまい、と思っていたのに、シュリーゼによってロザンナはまたも目を見開かされる。慌てて背後を振り向いてみれば、彼女の言葉通りにアミール殿下が休憩用のベッドの脇に設えられていた衝立の影から現れたものだから、もはや完全に言葉すら失ってしまった。
実は案内をする使用人に少しばかり遠回りをさせ、その隙に室内へと先に入ってコッソリ隠れていた殿下は、混乱のあまりオロオロと今までに見たことが無いほど取り乱しているロザンナの元へ、つい今しがたまで物陰に潜んでいた事が嘘のように颯爽と歩み寄る。
そしてパアッと輝かんばかりに笑みを浮かべると、喜色満面で高らかに叫んだ。
「凄いな! 全く薔薇臭くない!!」
あまりにも――あまりにも、残酷で無慈悲な現実に、ロザンナはとうとう顔を覆った。手から零れ落ちた扇が絨毯張りの床に転がるが、その無作法を気に掛ける余裕など、既に微塵も残っていなかった。
彼の言葉は確かに、今までのシュリーゼの話が真実であったと証明しているも同然だったのだから。
フラリとよろめいたロザンナの脳裏に、まるで走馬灯のように一つの思い出が浮かぶ。
……それは彼女が七歳の時、初めてアミール殿下と出会った日の記憶だ。
殿下の婚約者として選ばれ、王城で顔合わせをする事になった、その日。
緊張しすぎて挨拶をするのが精一杯だったロザンナを気遣ったのか、庭園へと誘い出してくれた彼は、そこで一際美しく咲いている薔薇の花を、庭師に頼んで一輪手折らせた。そして、そっとロザンナの髪に差し込んで微笑みかける。
「そなたには、この花がよく似合うな」
あの瞬間、ロザンナは生まれて初めての恋に落ちたのだ。
以来、ロザンナの中で薔薇の花は特別な存在だ。殿下への恋心の象徴と言っても良い。
ドレスの織り柄や宝飾品の意匠に取り入れるだけでなく、成人して身嗜みの一つに香水が加えられるようになると、すぐに薔薇の香りの物を愛用するようになった。華やかで大人びた芳香は、幼い少女には些か背伸びをしていると思われるような印象ではあったけれど、その香りに相応しい女性となってこそ彼と共にあれるのだと、心の支えにもして。
――だが、実際は共にいる事を拒絶される原因となってしまっていたとは、何という皮肉だろう。
思えば、彼との距離が徐々に開き始めたのも、成人を境にしてである。幼い頃はあんなに親しくしていた筈なのにどうして、と酷く思い悩んでいたが、それがまさか香りのせいだったとは。
無情かつ非情にも程がある真実に打ちひしがれるロザンナが、下手をすれば世を儚んでしまいそうな風情だったため、自分がド直球すぎる本音をつい口走ってしまった事に気付いたアミール殿下は、崩れ落ちかけた婚約者の体を慌てて支える。
床に転がっていた扇も拾い上げて手に持たせると「このような騙し討ちめいた真似をしてすまなかった」と謝罪した上で、何故ここまで回りくどい事になってしまったのかの経緯を、自らもまた説明し始めた。
そもそも、この国で香水がここまで持て囃されるようになったのは、他国から嫁いできた先王の正妃――つまり殿下の祖母でもある皇太后が、故郷から持ち込んで広めた流行だったからである。
そして現王の正妃もまた、姑の機嫌を損ねないようにという嫁の気苦労もあったのか、積極的に香水を身に着ける事によって上流階級での流行を確固たるものとし、やがてそれは流行から常識へと皆の認識も変わっていった。
二代に渡り、数十年も習慣づけられてしまっていたのだ。最早これが普通だと、貴族達は感覚も鼻も麻痺してしまっている。更に、高価な香水をたっぷりと使えるという事は、それだけでその家の豊かさが示されるのにも繋がり、高位であればあるほど他の者に負けぬよう一層強い香りをふんだんに纏って競い合う悪循環となっていた。
ちなみに、シュリーゼは母が平民出という事もあって貴族間の社交にはほぼ顔を出さなかった事と、子爵家に高価な香水をそこまで惜しげも無く使える財力が無かった事が重なり、そういった常識を全く知らないまま育った。故に、香水も身嗜みの一つとして付けたものの、ほんのりと淡い香りを身に纏う程度に留めていたのだ。
そんなシュリーゼと出会い、キツすぎる香りに悩まされないという事がいかに快適なものであるか、アミール殿下は初めて知った。何せ、彼にとって女性がいる社交の場で香水の匂いがしなくなった事など、今まで一度たりとて無かったのだから。
香水の強烈さに辟易としてはいたものの、その状態が通常であったがために、改善するという発想すら思い浮かべなかった。おそらく、彼に限らず他の男性達も概ね同じようなものだろう。
だが、劇的な変化に感動するあまり、ついシュリーゼとの距離を近付けすぎたのは拙かった。あっという間に火消しも容易ではないほど噂が広まってしまい、側近候補の友人共々頭を抱えるしかなかったのである。
一方、シュリーゼとしても、別に殿下達を篭絡しよう等という野心は全く抱いていなかった。ただ、王族や高位貴族から請われて、その要望を跳ね除けられる下位貴族など何処にいるだろう。まぁ無体を迫られている訳でもないし、むしろ事情を知ってしまえば気の毒に思いもしたので、協力すること自体は構わなかったのだが。
女性達から反感を買ってしまったと早々に気付いたけれど、どうせ春の社交シーズンが終われば領地に引っ込むつもりだったので、王都の社交から弾かれてたとしてもそこまで痛手では無く、それよりも殿下や側近候補の面々に繋ぎが出来る方が家の利点は大きいと判断した。
そうケロリとそう言ってのける姿は、か弱い小動物めいた見た目を裏切るように豪胆で強かだ。
「大体、顔も家柄も教養も、比べる気にすらなれない位、ロザンナ様や他の皆様の方が飛び抜けてらっしゃるんですから。よくよく考えなくても、普通なら私が殿下方に選ばれる筈なんてないって分かりそうな物なんですけどねぇ」
そうすれば噂もすぐに鎮静化すると楽観視していたが、思ったよりも盛大に炎上してしまったのは誤算だったと、シュリーゼはやれやれと言いたげに溜息を吐く。
だが、ついには身を害される危険性も出始めたため、これはもう放置したままではいけないと一計を案じたのだ。
すっかり誤解されてしまっている今の状態では、例え本当の事をシュリーゼや殿下達が説明しても素直に聞き入れて貰えるかは非常に怪しい。何なら口裏を合わせて誤魔化しているのではと疑われる可能性の方がよっぽど高いだろう。まして『香水はたっぷり付けるもの』という長年の常識を覆すには、相当の説得力が必要だ。
――ならば、本人達が実際に無香魔法を体験するのが一番じゃないか、と。
シュリーゼの魔力量では、一度に何人分も魔法を使う事は出来ない。なので一人ずつ秘密裏に呼び出して事情を説明し、シュリーゼが目の前で三属性を組み合わせた魔法を使って見せる事で、彼女がどういう役割を担っていたのかを理解して貰おう。ただし、いくら無害とはいえ高位貴族の令嬢達に魔法を行使するのだから、誰かしら証人として監視役をつけて……と、今日も舞踏会の片隅で作戦を話し合っていた所で、願ってもない事にロザンナの方から話しかけてきてくれたのである。
令嬢達の中心である彼女なら最適だとシュリーゼ達は即座に判断し、本来はもう少し先を予定していたが折角の好機を逃す方が勿体無いと、計画を急遽実行する事にした。
そして、筆頭公爵家が相手でも文句の付けようが無い、王族という最上級の身分を持ったアミール殿下が監視役となって、二人の話し合いを見届けていたのだった。
「えーっと、じゃあ次はリリアーヌ様あたりを引き込みましょうか。殿下はワジルダーク様をお呼びして下さい。私はその隙に魔力回復薬を飲んでおきます」
「そうだな。二人も互いに効果を実感し合った方が、わだかまりも消えやすいだろう。ロザンナはリリアーヌ嬢を連れてきてくれるか」
シュリーゼがロザンナの取り巻きの一人である令嬢と、その婚約者の宰相子息の名をそれぞれ上げれば、アミール殿下も納得したように頷く。
一国の王太子に子爵令嬢が指図するなど、普通であれば刑罰ものの不敬だが、今やシュリーゼは彼にとって救世主のような存在であり、また共に困難へと立ち向かう同志めいた絆も芽生えていたため、何ら気にしていなかった。シュリーゼは一応、殿下達を名前では無く肩書や家名で呼ぶなど、馴れ馴れしくなり過ぎないよう配慮をしてはいたが。
しかし、自分の意思で協力を了承したとはいえ、思った以上の面倒事にどんどん巻き込まれていくにつれて態度も大分崩れてしまったので、そんな配慮はささやかにも程があった。
短時間に幾度も与えられた衝撃が尾を引き、ロザンナは若干覚束ない足取りで、使用人に再び先導されながら来た道を戻る。
辿り着いた会場に足を踏み入れれば、己が戻ってくるのを待ち侘びていたかのように寄ってきた数人の令嬢にすぐさま迎えられ――……咄嗟に、手にしていた扇を顔の前に翳した。
甘く、濃く、ひたすらに我を主張するような香りが、何種類も混ざりあって一斉に襲い掛かってくる。
今までは自身が誰より濃い匂いを付けていたから、気に留めてすらいなかったけれど、麻痺していた嗅覚が正常に戻ってしまえば嫌でも分かった。そう、分かってしまった。
これはまさに、鼻への暴力だ。
シュリーゼの傍が、いかに呼吸をしやすく心地好い空間だったのか。
己の身をもってこれ以上なく痛感し、とうとうトドメを刺されたロザンナは、燃え尽きて真っ白な灰になったかのように虚ろな風情で、取り巻きの少女達を自分のように一人ずつ先程の小部屋へと連れてゆく。
…………そして、この夜、令嬢達は揃って屍の山となった。
後に、レイファ王国では貴族の女性達が淑女教育を学ぶ際に、ある一言が必ず伝えられるようになったという。
曰く――『はなの乙女の教えは、絶対に守りなさい』と。
アミール殿下はロザンナに対して、香水の匂いがしんどかっただけで後は全く問題無いと思ってるので、数年後に二人は無事結婚します。ハッピーエンドよかったね!
活動報告にシュリーゼのキャラデザを載せてみました。
あとロザンナもチラリ。