EP/3:消えない火傷と陽炎
《chapter:3-1》
「……おい。」
「♪~」
「……。」
日曜日。今日は天候にも恵まれ、今の時期にしては気温もそこまで高くはないとの予報もあって遠出するには絶好の日曜となった。夏休み期間のせいか、ここには旅行中であろう家族やカップルの姿も多く見られ、子ども同士で追いかけ合う姿や、少し離れた所から幼い子の泣き声が聞こえてくる。まさに、夏休みらしい光景である。
「あ、ねぇねぇ。これ食べないの?せっかくオバチャンがアンタの分もくれたのに。もしかして、アンタってチョコ嫌いだった?」
各駅停車の、ある程度の乗客が乗った電車の中、シンブンブはモグモグとなにかを口に放り込みながら、あの倉庫でも使っていた小型のデジタルカメラを片手に窓からの景色を眺めながらオレの問いかけに答える。正しくはオレの問いかけに対して反応はしているが、その内容はオレの思惑とは全く噛み合っていない。
シンブンブが住んでいるマンションの最寄りで待ち合わせて電車に乗って、もうすぐ40分ほど経つだろうか。普段の街並みとは違い、夏の日差しで活き活きと生い茂った山の緑や、優しく風に揺れる平坦な田園地帯が多い場所を走っている。シンブンブは時折窓ガラス越しにシャッターを切り、カメラのディスプレイを見つめては、満足そうにうなずいている。向かい合うボックスタイプの席でなぜかオレと横に並んで座り、非売品と書かれた細かい菓子袋を膝に乗せ、小粒のナッツチョコを頬張りながらニコニコしている。普段通学用で使っているものとは違う長方形のキャンパス生地のリュックからは、シアトル発祥の某有名コーヒー店のロゴの入った水筒や、竹を編み込んだような箱が見える。
「いや、もらうはもらう。ありがとう。でもな。」
「なによ、テンション低いわねぇ。あ、お茶もあるわよ。飲む?でも麦茶とナッツチョコって合うのかしら。やっぱりアイスコーヒーとかにすればよかったかなぁ。」
シンブンブは一人で話を完結させつつ、ま、いっか。などと言いながらナッツチョコレートをまた口に運んだ。まるでオレの口調と反比例しているかのように、シンブンブは嬉々として電車での移動を楽しんでいるようだ。普段は「こんなの苦くて飲み物じゃない」なんて喚いて、見ているこっちが心配になる量のガムシロップがないと苦くて飲めないくせに何を言い出すか。だいたいその水筒は直接飲むタイプのタンブラーじゃないか。
というか、その有名店のタンブラーに麦茶を入れてきたのか。
「お前な、わかってるとは思うが、これは遠足でも旅行でもないんだぞ?」
シンブンブは外の景色を見ながら、わかってるわよぉ。とだけ答えた。
オレの不安はさらに大きくなった。
ホケンイとのカウンセリングから四日が経った。オレが購買部経由で機関室に戻ると、ドアの前でシンブンブが待っていた。どうやらオレが戻ってくるのを待っていたらしく、膝を抱えてしながらケータイをいじっていた。落ち着いたらこちらから連絡する手筈になっていたはずだが、本人にそれを伝えてもニヤニヤしながら「そうだったかしらぁ?」なんて返してくるだけだった。ついに脳のどこかの部品を無くしたのかと思うほど、あの日はずっとご機嫌な様子だった。少々不気味ではあったが不機嫌でいられるよりかはずっと良い事だと割り切ってやり過ごした。
「しかし、さすがと言うべきか。よく調べたな。」
シンブンブが聞き込みで入手してきた情報は、あのホケンイがこの高校の生徒だったということと、当時交際していた相手が教員だったというものだ。確かによく考えればあり得ない話ではなかったし、オレも見落としてしまっていた。念のためオレも過去の名簿を基に卒業アルバムで確認してみたところ、今よりも少しあどけない表情ではあったが、間違いなくあのホケンイだった。
「でしょぉ?アタシも最初から名簿を調べたわけじゃないけど、偶然手掛かりになる情報が聞き出せたからね。やっぱり確実なのは地道な聞き込みってやつよ。現場百篇、取材の基本よ。」
「ほぉ、ベテランの刑事みたいだな。」
オレの言葉に得意げな顔をして笑っているシンブンブの口元には、先ほどからずっと不可解な角度でチョコがついている。おそらく本人は今、ものすごくカッコイイ顔をしているつもりなのだろうがオレはあえて指摘せず、本人が自力で気づくまで、あえて放っておくことにした。
シンブンブの情報によると、ホケンイは高校生の頃、当時この学校に勤務していた教員と周囲はに内密で交際していたらしい。しかしホケンイが卒業する年に教員は自主退職、ホケンイ本人もその後すぐに半年間休学していたそうだ。現在その元教員は実家の家業を継ぎ、故郷で米農家をしているという話を聞いたが、これは購買部のオバチャンからの情報と学校に保管されていた退職教員の情報でも確認できたので間違いない。今はその元教員の実家に向かって電車に揺られている。一応本人とのアポも取れているので、なにかしら話が聞けるはずだ。
「……。」
オレはこれ以上上機嫌なシンブンブに話しかけるのをやめ、今日までに得た情報について考えることにした。教師と生徒。周囲の人には話せない秘めた関係。教員の突然の退職に、ホケンイの半年間の休学。二人の間に一体何があったかはわからないが、こういう場合は往々にして、聞く側も話す側も決して良い気分になるものではない。おそらくシンブンブも同じ高校生として、そして女性としていろいろと思うところはあるのだろうと思う。今こうして無駄に明るくしているのも、もしかするとそのことがあっての事かもしれない。
「あ。ねぇねぇ、おにぎり食べる?わざわざ作ってきたのよ、早起きして。」
そう考えると、滅多にないオレとの電車移動の時間くらい、はしゃがせてもいいのかもしれないな。まだまだはしゃぎたい年頃なのは間違いないのだから。
「あ、でもアンタ梅干ダメだったよね。おにぎりの具、全部梅干にしちゃった。」
「……お気づかいなく。」
どうもオレは、シンブンブに過度な期待や気の使い方をしてしまうようだ。
ため息をついて、目的の駅に着くまで眠ることにした。
「あらやだ、すねちゃったの?ねぇってば。」
「お忙しいところ、わざわざ申し訳ありません。」
「いえいえ、むしろ遠いところご足労いただきまして。」
定型文のような挨拶に、定型文の様な挨拶が返される。整頓された来客用の応接間で『彼』はオレたちにアイスコーヒーを出してくれた。シンブンブがオレの横で眉をひそめているが、今はそんな事に反応している場合じゃない。
オレ達が駅に着くと、彼は既に車で迎えに来てくれていた。予め、駅からこちらまで結構な距離があるので迎えに来てくれるとは言っていた。ありがたく甘えることにしたのだが、米農家なんて聞いていたのでてっきり軽トラかなにかで来るのかと思っていたが、来ていたのは極めて一般的なファミリーカーだった。一応話では「機関の研修生」としてシンブンブを紹介していたこともあり、もしかすると気を使って家族用の車を出してくれたのかもしれない。当然、今日の要件がプライベートな話題であることや、ホケンイについての話だということも伝えたのだが、こちらが思っていたよりもあっさりと快諾してもらえた。本人にとっては既に過去の出来事として消化できていることなのかもしれない。
「しかし驚きました。あいつが教員になって、母校に戻っていたとは。僕もあれからすぐに実家に戻ったので、連絡もろくにとっていませんでしたから。付き合っていた身としては、少々お恥ずかしい話です。」
オレ達の向かい側の席に座った彼は、少しバツの悪そうな表情をしながら彼は話してくれた。短く整った髪形に、程良く焼けた肌。背丈も高く、少し釣り上った目じりに二重の目と、とても端正な顔立ちをしている。先ほどからシンブンブが飲めないアイスコーヒーを目の前にしても静かにしているのは、おそらく彼の見た目にも理由があるのだろう。
彼は、ホケンイと交際が当時の学校長にバレたことで教師としての自信を無くしてしまったこと、その交際がバレた理由が彼と同じ時期に赴任してきた同僚の教員による教頭への密告だったこと、そのことでホケンイが学校で不遇な目に遇わされていたことなど、おそらく学校内での調査では知りえなかった事を、彼は淡い思い出を語るように話してくれた。
「当時、僕がもっと賢明な判断ができていればあいつも、ホケンイもあんな目に合わなくて済んだのかと思うと、今でも反省しています。酷い事をしてしまいました。」
「まぁ、お気持ちはわからないでもありません。私は教育者ではないので、一概に否定するつもりもありませんし、むしろ同じ男性として、教え子から異性として見られるほどの魅力と言うのはちょっとだけ、ほんの少しだけではありますが、羨ましいです。」
オレの返答に少し困ったような表情でも多少笑ってくれた彼とは反対に、なぜか隣で記録を取っているシンブンブがオレを横目で睨んでいるが、オレは気にせず話を進める。
「ゴホン。少し話が逸れてしまいましたが、ここから少し踏み込んだお話をさせていただきます。事前にお伝えしていたように、我々は現在、そのホケンイから学校内でのストーカー被害の相談を受けています。そして彼女には、生徒の間で良からぬ噂が流れています。ある程度はこちらでも調査していますが、こちらとしては、その、本人の口からは聞きづらいような、ホケンイ自身の過去になにかの原因やきっかけがあるとのではないかと考えています。」
オレは以前のホケンイとの対話の教訓を生かし、いつもより多少言葉の選び方に気を使っている。こういった気遣いだけで相手の気を悪くさせずに済み、得られるものが増えるのなら安いものだ。彼は、両手を膝の上で祈るように組んで答えた。
「そうでしたか。うーん、あいつの、その、弟さんの事件はご存知ですか。」
「弟さん、ですか。いや、存知あげませんでした。よければ、お話しいただけますか。」
オレがそう言うと、シンブンブは何か言いたげな表情をしたが、すぐに持っていた取材用の手帳に目を落とし、それ以上の反応は見せなかった。
「わかりました。ではそこも含めて、お話します。」
彼は懐かしむような、苦いものを噛んだような表情でゆっくりと話し始めた。
《chapter:3-2》
当時、まだあなた方のいる機関が今の様に立場や活動方針が尊重されていなかった頃、たしか【ブロウズ】でしたね、そう名乗るもう少し前の頃です。学校内、教員や保護者の間では外部の組織を導入することへの反対運動が各地で起こり、怪我人や逮捕者が続出していました。そして僕が当時働いていたあの学校も類に漏れず、毎日のように反対派の生徒や教員が機関設置に対するデモ活動を行っていました。機関員であるあなた方に、わざわざそれについて詳しく言う必要もないと思いますが。
で。そう、それであいつの、ホケンイには弟がいました。弟君は彼女の一つ下の学年で、機関設置に関しては賛成派でした。ん、どちらかと言えば中立派だったのかもしれませんが、とにかくそういった過剰なデモ活動を制止し、話し合いをするべきだと主張していた団体の一人でした。僕自身も、話し合いでの解決に賛同していましたので、弟君といろいろ話をする機会は多かったですね。ただ、中立と言うどちらとも言えないような立場をとっている彼が、ボクの様な教員と親しくしているのは、あまりよい状況ではなかったのかもしれません。当時の弟君は、反対派の生徒や教員から事あるごとに目をつけられていたようです。研修生のあなた、そう、キミの様な若い子には信じられないかもしれないけれど、機関設立が認可されたばかりの頃は、それが当たり前だったんです。現在のような「実験的な設置」という方針になってからは、そういったデモ活動も急速に落ち着いたようですけど。
そんな中、いつものように行われていたデモ活動が、急に過激になった日があったんです。旗や横断幕ではなく、金属バットや鉄パイプなんかを持ち出してきて。とにかくいつもよりとても暴力的でした。
弟君たちのような中立的な立場のグループや僕たち教員も必死にそれをやめるよう動いていたのですが、反対派の生徒が持ち出した火炎瓶で校舎の一部が爆発、炎上してしまったんです。その爆発に巻き込まれて弟君は大きな怪我と火傷を負いました。しばらく入院していましたが、結果的にはそれが原因で亡くなってしまったそうです。
あいつはそれ以来、心を塞ぎこんでしまいました。
僕からの連絡にも反応もなく、思い切ってあいつの家まで行った事もありました。あいつが精神病院に入院しているというのも、その時にあいつの家族から聞きました。もちろん家族でもない僕が面会することは不可能でしたけど。
でも後日、あいつは深夜にその病院を抜け出して、
火炎瓶を投げた生徒の家に放火したそうなんです。八月の蒸し暑い夜でした。
当時は機関設置への反対運動が胸を張って行われるべきいう考え方が存在した時代でしたから、誰が投げたのかなんてすぐに調べがついたんでしょうね。
僕も火事の話と被害者の名前を聞いて、すぐにあいつの犯行だと気付きました。
ですがあの時は面会も連絡もできず、僕にできることは何もありませんでした。
でも、どんなことをしてでもあいつの力に、アイツの支えになってやりたかったんです。
他に、思いつきませんでした。放火の罪を、僕が背負うことにしたんです。
丁度、職場の同僚にもあいつとの関係もバレていましたし、よく口止め料なんかをせびられていました。あの学校から身を引くには条件が揃ってしまっていたんです。
後日、入院中のあいつやその家族を含め、他の誰にも知られないことを条件に、学校長に自首しました。学校側も警察沙汰になることは避けたかったでしょうから、すぐにその条件を飲んでくれました。新卒の教師なんて切るのは簡単ですからね。
そこからはあいつとの連絡も絶ち、実家を継いで今に至ります。
いつかは誰かが気づいて、こうやって話す時が来ると思っていました。
あなたから連絡が来た時から、全て話そうと決めていました。
もし、今のあいつがなにか道を踏み外すような事をしていたら、
どうか、救ってあげてください。
今の僕には、それをあなた方にお願いするしかできません。
日がすっかり沈み、往路の時とは違って静かな車内。いつもの見なれた街に向かって進む電車の中、オレもシンブンブも無言のままだった。駅までの帰り道で、彼はもしこの問題が解決したら是非連絡が欲しいというので、オレも必ずまた報告に来ることを約束し、彼と連絡先を交換してきた。オレ達に全てを話し終えた彼は、どこか安心したような、諦めがついたような表情になっており、車を降りて改札まで見送ってくれた。
膝の上にPCを載せ、揺れる電車の中、今回の活動の報告文を作っているオレの向かいで、シンブンブは窓の縁に頬杖をついて外を見つめている。
「浮かない顔だな。腹でも減ったか?」
少しでも空気を変えようとPC越しに声をかけても、シンブンブは特に反論せず、目だけでオレの方を見て、別にぃ。と言うだけで、それ以上の言葉は続かなかった。この辺りは街灯も少ないせいか、窓には外を見るシンブンブの顔が映っている。オレは明日以降の作戦を伝えようとするが、こんな時に話す事ではないとも考えてしまう。いくらシンブンブでも、おそらくこのタイミングでのその話題は望んではいないだろう。
でも、こんな時だからこそ、いつものように話さなくてはいけない。オレは最小限の動きで深呼吸をして、作業の手は止めずに話し始めた。
「特に返事をしなくて構わないから、聞くだけ聞いておいてくれ。重要なことだ。」
「……うん。」
オレは電車に乗る前に駅の売店で買ったコーヒーを飲んで話を続けた。シンブンブも、視線や座り方は変えずに返事だけをする。
「今回の案件、お前の調査のお陰でここまで来ることができた。ホケンイの弟のことも、お前が事前に調べておいてくれたおかげで、彼自身の口から上手く聞き出せた。あそこでお前がなにか言ってしまっていたら、状況は違っていただろう。わざわざ調べが付いている事を聞きに来るなんて不信感を持たれてしまうからな。改めて、礼を言う。」
「……。」
「今までやってきた取材や調査の中でも、今回はキツい内容だったろう。けどな、オレの活動に協力するということ、特に今回のように本人が決して他言しないような過去を調べるということは、こういった事実に繋がることがあると心に刻んでおいてほしい。そして学んでほしい。派手な見出しと面白おかしい文章では、記事にできないこともあるんだ。」
「……わかってたわよ、そんなこと。わかっていたけど。」
シンブンブはそう答えて、また黙った。窓に映る表情には、自分ではどうにもできない事に直面したような、もどかしくてたまらないような表情だった。
「まだ完璧にわかっていなくても別に良い。今、知ってくれればいいんだ。これから先、お前らが社会に生きるようになれば、世界はこんなことだらけだ。今のうちにそれを知っておけ。」
そうすれば、いずれ負うであろう傷も浅くて済む。とまでは言えなかった。
「しかし、今回で得た情報や彼の証言で、さらに犯人の候補も絞り込めるな。時間と労力はかかったが、ここからもうひと踏ん張りだ。どうする?お前が関わるのはここまでにして、あとオレがやっても構わないんだぞ?」
そう言った瞬間に、オレは今の言葉が蛇足だったと気付いた。しかし、たとえどんな賢明なアイディアでも後悔の先に立つことは決してないのだ。さっきまでとは全く違う、怒気に満ちた顔でシンブンブは喰ってかかってきた。
「冗っ談じゃないわ!ここまで来て投げ出すなんて、それこそ失礼よ!あの人たちの過去を、味わった感情を、変な正論かざして逆撫でするようなストーカー野郎は絶対に許さないわ!絶対にとっ捕まえてやるんだから。そんでもって……!」
「……そんでもって?」
シンブンブの答えは、とても真っすぐだった。
「そんでもって、一発ぶん殴ってやる。」
シンブンブはまだ小残っていたナッツチョコを鞄から取り出し、豪快にボリボリと頬張りながら取材手帳に何かを書き始めた。そんな姿を見て、オレは少し笑ってしまったがそれと同時に、少し安心した。
シンブンブの口の横には、まだ不可解な角度でチョコがついたままだった。
結局、オレはナッツチョコレートを一つももらえなかった。
《chapter:3-3》
今朝の天気予報では、今日は一日中雨だった。加えて気温も高く、テレビで流暢に話す予報士によれば、不快指数も今年一番らしい。そんなことを知っているかどうかは定かではなかったけれど、ホケンイさんは、ドアを開けて入ってきた私の顔を怪訝そうな様子で見ていた。
「あら。ずいぶんと、しおらしいわね。どうかしたの?」
「すみません先生。今、大丈夫でしょうか。」
後ろで腕を組み、いかにも申し訳なさそうな声で話す『私』は、そこから進んで入って行くこともなく、ドアの横で立っていた。
「そんなところで立っていないで、入ってきて構わないわよ?どうしたの、いつもと雰囲気が違うからなんだか変な感じね。別に常日頃怒っているわけではないし、過去になにかやったからと言ってそのことで生徒への対応に差をつけるつもりはないわ。」
ホケンイさんの言葉に安心して、私は少しバツの悪そうな表情で微笑んで、保健室の中央にある診察用の丸椅子にゆっくりと座る。『あの人』に確保された時とは違う、いかにも女子生徒らしい振る舞いの私に、ホケンイさんは少し驚いている様子だった。
「ホケンイさんにはちゃんと謝っておきたかったのです。迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。」
私は開口一番に、ホケンイさんに向かって頭を下げた。ホケンイさんはさらに追い打ちを受けたかのように私の方をちらっと見たが、少し笑って、またすぐに目線を机に戻し、パソコンでの作業を再開させていた。
「そうね、そういった行動はとても大事だと思うわ。でももう、あんな事はダメよ。倉庫で寝泊まりするなんて危ないんだから。でもまぁ、あの機関の人にも散々言われたのだろうけど?」
「えぇ。それはもう、少々過度な罰を受けましたわ。」
私もホケンイさんも、小さな声で少し笑い合う。傍から見れば、柔らかい雰囲気が2人を包んでいるように見えるのかもしれないけれど、ホケンイさん自身はまだ私とは目を合わせず、画面に向かってタイピングを続けている。かなりの文量なのか、私がこの部屋に入ってからずっと、ホケンイがキーボードに指を叩きつける音は止まることはない。私も、今の位置から動くことはなく、出された椅子に座ったままで、ホケンイさんとの距離を保ったままだった。
「先生、その書類って、お仕事ですか?」
まぁね。というホケンイさんの答えに、私もふぅん。と答える。
「お忙しい時にごめんなさい。また、出直した方がよいでしょか。」
気にしないで。というホケンイの答えに、彼女もふぅん。と答える。
少しの間、私とホケンイさんを沈黙が包む。外の雨はまだサァサァと優しい音を鳴らしながら、緑の生い茂る保健室前の中庭を潤している。
「先生。一つ、お聞きしてよろしいですか?」
必要以上に丁寧な言葉遣いが可笑しかったのだろうか。ホケンイさんはおかしそうに少し笑いながら、なぁに。と答える。
「それって、【聖者の密告書】ですよね?」
文字を綴っているのであろう指の動きがはたと止まり、ホケンイさんは目を見開いて私を見ている。
ようやく、しっかりとホケンイさんと目が合った。
「たしか、今回の報告書の提出期限は今週末ですものね。」
「……何を言っているの?」
みるみる表情が険しくなっていくホケンイさんを見つめながら、私は言葉を続けた。
「なかなか面白い活動体制なのですね。ネットの掲示板やSNSで反対派の人間に呼び掛けて、特殊なURLからのダウンロードや匿名の郵送によって相手に書類を届ける。今、貴女の手元にある、その公的校的機関活動調査書。通称【聖者の密告書】。彼らはその報告書によって得た情報をもとに、公的校的機関の違法行為や越権行為の言及を行う、第三者からの密告を主とする調査方法。一見、あまり正当な方法とは思われないこの方法も、表だって声を上げられない立場の反対派にとってはとても有効な、ある意味では窓口が広い方法ですよね。たしかこの方法をと採用している団体の名前は……」
「ゴシップ誌の読み過ぎよ。そんなの、今の中学生だって知っているんじゃないかしら。私だって、そんな団体が存在するって話も、そんな名前の文章が存在するって話も知っているわ。まぁ、あくまでゴシップ記事の言うことだし、それ以上の明確な情報なんてないのだろうけど。それとも、もしかしてあなたの『飼い主さん』から、なにか教えてもらったばかりなのかしら?」
ホケンイさんは私の言葉を遮るように、的確に私の心に釘を刺すような言葉を吐き捨てて、ホケンイさんはまたパソコンに向かって作業を始める。私も一瞬だけ黙ったが、その瞬間、私は無意識に微笑んでいた。
「そう。あの人にも、そんなことを言ったのね。ホケンイさん。」
私の静かな問いかけに、ホケンイさんは無言のまま画面に向かっている。
「【聖者の行進】だなんて、よく言ったものですわね。」
「……えっ?」
無音の雷、とても言うべきなのか。目には見えず、耳にも聞こえないが、そこには確実に存在した私の言葉は、ホケンイさんの全身に轟いたようだった。
「【聖者の行進】。誰にも妨げられず、そこに在るべき姿と正義の象徴、でしたか?その固い決意と、その団体の特徴である異常なまでの行動力と突破力を、北欧神話に登場する伝説の武器に譬えて、【グングニル】なんて名乗るそうですね。」
「貴女……なんで、どうして、そこまで。」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと後ずさりするホケンイさん。
私はまだ、椅子に座ったまま見つめている。
この教室を訪ねてきた時と何ら変わりなく話し続ける私。
ホケンイさんの目に、私はどう映っているのだろうか。
「本当に、あの、『シンブンブ』なの?貴女、一体なんなの?」
「あら、聡明なホケンイさんなら、とっくに気づいていると思っていましたわ。」
私はゆっくりと立ち上がり、ホケンイさんの目の前に立つ。スカートの両端を指先で軽く持ち上げ、少し気取った声色で挨拶をする。
まるで舞台のセリフみたいな挨拶、あの人の影響かしら。
なんて思いながら、私の口角はまた、うっすらと上がっていた。
「改めまして、はじめまして。ホケンイさん。あの子が、『シンブンブ』がいつもお世話になっております。私はあの子であって、あの子ではありませんの。私の言っている意味、ご理解いただけるかしら。」
呆然とするホケンイさんを見ながら、私はホケンイさんに向かって優しく微笑んだ。
「さて、ご挨拶も済みましたので早速ではありますが本題に入らせていただきます。なにしろ時間がありませんの。この雨の中、大切な人を待たせているもので。」
〈……ザザッ…………ザー……〉
なんてこった。あのホケンイはこっち側の人間だったのか。しかも【密告書】まで作成しているなんて。でもあいつは『ボク』たちに対しても恨みがあるんじゃないのか?そうじゃなきゃ辻褄が合わないじゃないか。ホケンイは何のために【密告書】を受け取ったんだ?それに、シンブンブさんもなんだか訳のわからない事を言っている。やっぱりあの人は、あの機関の男と繋がっていたのか。これじゃ手伝いなんてレベルじゃない。これは報告書にも書ける事案だな。ホケンイには悪いけど、今回は僕が先に報告書を提出させてもらうよ。これでまた、僕も『聖者』の一員に近づける。
〈ザザッ……ザザザ……ザザッ…………〉
なんだ、もう、せっかくいいところなのに。最近この機械の調子も悪いな。せっかく兄ちゃんの部屋から見つけて修理したのに、やっぱり古いやつだとノイズも入り易いのかな。今度科学部にお願いしてしっかり直してもらうか。どうせまたホケンイの写真でも渡しておけば、あいつらもよろこんで協力してくれるだろうし。
〈ザザッ……ザッ……あーあー、テステス、おーい、聞こえるかぁ?〉
な、なんだ、だ、誰だ、お前は!
〈おー、どうやら繋がったみたいだな。ようやくそっちの周波数見つけたよ、ずいぶん古いやつを使っているみたいだな。おかげで少し時間がかかっちまった。お陰で何度、近くを走るタクシーとかトラックの無線を邪魔してしまった事か〉
こ、この声は。まさか、でも、どうやって。
〈驚かせてしまったかな、お取り込み中に悪いんだけど、この間キミらに頼んでおいた、補修欠席者の名簿。あれ、ちょっと急ぎで必要になってさ。至急、機関室に届けてくれないかな?すまないんだが、よろしく頼むよ。匿名君。〉
《chapter:3-4》
コン、コン、コン
「おーう、入ってくれ。思ったより早かったな。」
なんで、なんでこの人は、こんな。
「いやぁ、悪いな。急がせてしまって。なんだかんだ偉そうな肩書を持っていてもさ、、オレも所詮はサラリーマンだからなぁ。こういう無茶なことも言われるもんなんだ。ははは。」
なんでこの人は、こんなにも、普通なんだ。
「……いいえ、とりあえず今日の分までの出欠状況は記入し終わっています。」
機関室の窓側、冊子やファイルが積み重なったデスクの向こう側で、こちらは見ていないものの、なにかのステッカーがビッチリPC越しで『ボク』と会話をしている。話している口調はゆったりしているが、手元のキーボードを入力する音はカタカタと鳴り、一定のスピードを保っている。もしかして本当に急ぎなのかなとも思えてきてしまう。
「すまないな。『セイトカイ』も、今の時期は役職の引き継ぎとか休み明けの活動会議なんかで忙しいだろうに。あ、すぐに終わるから、ちょっとそこで座って待っていてくれないか。冷蔵庫の中の飲み物は好きにして構わない。ついでに、オレの分のアイスコーヒーを淹れてくれると嬉しいかなぁ、なんて。」
普段学校ですれ違う時や、時折こうやって委員会の仕事で関わっている時と、なんら変わらない声色でボクを労いつつ、自然と自分の分コーヒーまで頼んできている。
「わ、わかりました。」
ボクがこの人のデスクにアイスコーヒーが入ったグラスを置くと、ありがとう。とだけ言って、またPC作業に戻る。あまりPCは得意ではないのだろうか。先ほどからずっと眉間に皺をよせたまま小さく唸っている。ボクは彼に言われた通り、麦茶をいただきながらソファに腰掛け、膝の上で荷物を抱えた。部屋の空調は、今日の湿度の高さに合わせて除湿が効いているようで、今のボクの心境に反してとても心地よい。
「……。」
文字を打つタイピングの音と、外の雨の音だけが部屋に響いている。
ほんの少しの沈黙が、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
しかしボク自身は、自分に何か非があるとは思っていない。
ボクはただ、【密告書】の作成に必要な情報を集めていただけだ。
しっかりとした目的の元、活動していたのだ。
本当は今すぐにだって帰って、密告書の作成に取り掛かりたいのに。
これは由緒ある【聖者の行進】なんだ。
大丈夫、あの人たちもそう言ってくれてたじゃないか。
そうだ、ボクは
「自分は間違っていない、と考えているのか?」
ボクは自分の心臓が大きく飛び跳ねたのがわかった。身体中に衝撃が走った気分だ。PCに向かったまま、あの人は相変わらずボクを見てはいない。でも確実に、その言葉はボクに向けられたものだった。
「そんなに警戒しないでくれよ。オレは別に、今すぐキミを警察に突き出すことも、今この場で機関による制裁を加えることも考えていない。あくまで、今は、だ。」
あの人の言葉で、ボクの手は小さく震えている。声色や口調は、さっきと全く変わっていないのに、こんなにも雰囲気が違うというか、息が苦しい。この人って、こんなにも圧のある人だったのか。それとお、ボクがただ怯えているだけなのか。
「保健室に仕掛けられた通信機は、先ほど回収した。中庭から保健室に近づいてな。運よくそこから届く場所に仕掛けてあったから、案外すんなり回収できた。もちろん、それがホケンイに悟られないように協力してくれた奴がいたのも事実だが、まぁ、それはキミ自身が一番わかってはいるか。しかしまぁ、ずいぶんと年代物の通信機を使っていたんだな。小型化に特化した製品であった分、今のものと比べるとノイズも多かっただろうに。」
「……。」
「一応、オレの立場上言わせてもらえれば、キミも高校生ともなれば、こういった盗聴行為が相手に与える恐怖感や不安感がどの程度のものか、多少冷静に考えればわかるはずだ。たとえそれがどんな目的や名目の元であったとしても、それは被害を受ける相手にとっては、関係のないことだ。」
優しく、悪戯をした幼い子どもに言い聞かせるような声で彼はボクにゆっくりと話す。それでも、どこか怖く感じてしまう。本当に、声色はいつもと変わらないままなのに。
「そ、捜査の方法として認可される場合があると、聞いたことがあります。」
「そうだな、うん。よく勉強できていると思う。しかしそれは、あくまで公的な捜査手段としての場合で、傍受と呼ばれる手段だ。一般の高校生が、公共の施設、例えば学校の教室に無許可で仕掛けて良いというものではない。公的に認められているオレらだって、傍受を行使するには、支部よりも怖い上の人たち、つまりは【ブロウズ】本部の怖くて強い人たちへの申請と認可が必要なんだ。たとえ、どんな状況で、名目であってもそれは変わりない。それを守らなきゃ、始末書なんてものじゃ済まなくなるんだ。」
ボクの精一杯の反論にも、彼は決して声を荒げることなく、教えを説くように答えてくれる。逆にそれが、胸にチクッとくるだけのはずの刺を深く、深く刺していく。
「…あなたは、いつからボクが、反対派だと知っていたのですか?」
「確信に変わったのは、ついこの間だけどな。ホケンイのストーキング被害の調査をしている中で、偶然にもキミの存在にたどりついた。どうやってたどり着いたか、それはホケンイの弟さんの話に繋がっていくわけだが、それをわざわざキミに言う必要もないだろうよ。」
「そう、ですか、じゃあ、もう全部ご存じなんですね。」
ボクのことは、もうきっと全部わかっているのだろう。
ボクが機関設置の反対派であることだけじゃない。
ボクの兄ちゃんの事、ボクが今までしてきたこと、そして、これからしようとしていたこと。ボクは、この人には全て見透かされているんだと思った瞬間。自分の肩に乗っていた不安がスッと軽くなって行くように感じた。もう、ここにはいられない。
「じゃあ、もう、行きます。お茶、ごちそうさまでした。」
ボクは膝の上で抱えていた荷物を持ち、急ぎ足で機関室の出口に向かう。
「あ、待て待て。そう慌てるなって。もうすぐ終わるから、アイツからの連絡が来るまで座って待っていてくれ。なんだったらゲームもあるからやってても良いぞ?」
「……なにが、終わるのですか?」
この人の言葉の意味がわからない。終わるも何も、ボクはこれから始めるところなのに。
外の雨は、さっきより強くなっているようだった。
あの人はまだ、PCから目を離さない。
しかし、タイピングの音はもう止まっている。
ただひたすらに、画面を睨むように見ている。
「全部だ。もうすぐ、すべて終わる。」