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EP/1:向日葵の向く先は


《chapter:1-1》

 今朝の占いでは、射手座はたしか十一位だった。

元来、幼い頃からこういった占いを真に受けるタイプではないのだが、不意にテレビや雑誌で目にすると、つい最後まで見てしまうものだ。だいたい、あの手の占いで『オレ』が昔からどうしても気に食わないのは、毎回毎回その日の最下位には一発逆転・起死回生の大どんでん返し、いわゆるラッキーアイテムや幸運のカギなどの救済処置が存在することだ。もちろん各順位の星座にもそういったアーティファクトは存在する(意図的に存在させているのだろうと個人的には思っている)ことは知っている。だが、最下位は他の星座よりもその日の順位に対して優遇されており、どうにかこうにか他の星座に近いような運勢になるようになっており、かの有名な「蜘蛛の糸」さえも彷彿とさせられるような待遇だ。こういった占いにおける一般的なパターンはどんな媒体の占いにおいても見られ、いわば暗黙の了解となっており、そうすることによって順位が悪い星座の老若男女に今日一日を前向きに過ごしていけるように配慮されているのだろう。しかし、これではそもそも運勢において順位をつける意味がなくなっていまってはいないだろうか。各星座に日替わりで明確な順位や優劣をあえてつけることによって、その日の生活やイベントなどに淡い期待と一握りの勇気を持たせ、普段よりも積極的に行動できるようになるのではないのか?とオレは考えてしまう。とは言え、その日の下位に星座に対する救いもなく、不運のどん底に落とすわけにはいかないというのが占う側の意見なのだろうとも考えられる。だからこそ、こういったアーティファクトの存在や、過保護とも言える最下位へのフォローが、占いという不確かな情報を民衆に何も違和感なく飲み込ませる正体なのだろう。もちろん、それが決して悪いというわけではないが、その最下位への過剰な優しさを、ブービー賞である十一位にも少し分けて欲しいものだ。


ちなみに、今日の射手座のラッキーアイテムは〈茶色の鞄〉だった。

そんなアイテム、持っていない。


「シンブンブとしてさ、そこんところ、どう思ってる?」

「は?なにが?」

草木萌え、陽炎の踊る八月の炎天下、体育館裏にあるプレハブタイプの用品倉庫の出窓からファインダー越しに保健室を睨んでいる女子高生に話しかけてはみたものの、返ってきた返事は、季節感のない、質素で乾いた言葉だった。

「話の前置きすら無いじゃない。何の話?だいたい、なんでアンタがここにいるの?アタシは今スクープを追っている最中なの。ようやくここまで追い詰めたの。今日こそイケる気がするのよ、だから邪魔しないでよね。」

制服の袖から見える健康的な白い肌、肩にかかるまで伸びた薄い亜麻色の髪を向日葵のヘアピンで前髪を止めて、そのスクープの標的にカメラを構える『シンブンブ』の眼は、この暑さにふさわしく、真夏の太陽のように爛々と輝いていた。その自信に満ちた眼の下に淡い寝不足の痕まで作って追いかける程のスクープが、夏休み中の保健室にあるとは思えないのだが、本人の言葉から察するに、かなりの時間を費やしてきた案件らしい。

「毎度毎度、熱心だよなぁ。もう同じ日は二度と来ないであろう高校生の貴重な夏休みを犠牲にしてまで追いかけるなんて、よほど暇、もとい、よほどのスクープなんだな。」

世間の高校生ならば、わざわざ夏休みの間に学校に来る理由なんてものは部活動の練習か委員会の活動くらいだろうが、首からカメラと双眼鏡をかけて活動する部活や委員会は、残念ながらこの高校にはなかったはずだ。オレも一応は仕事上、この学校の部活動と委員会、同好会、サークル、存在すら怪しい同好会も含めて全ての活動は把握しているつもりだ。ちなみに余談ではあるが、この高校には以前「野外活動写真部」という今の状況に一番当てはまりそうな部活も過去には存在していたが、一昨年の生徒会総会において、女子水泳部や女子陸上部員への過度なローアングル撮影やその写真を裏で売買しているのが判明し、当時の聡明な理事長によって問答無用で廃部になったのだ。部室の床下にまで隠されていた写真やデータも、その当時依頼を受けたオレの手によって全て破棄、削除したのだ。まさか年頃の男子高校生にあんなに泣きつかれるとは思わなかったが。

若さと言うか、青さ、だよな。うん。

「女子の間で噂になっているのよ。この間から来た新しい保健の先生、ちょっとカワイイ顔でスタイルが良いからって男子にチヤホヤされているけど、でも本当は裏では肉食系丸出しなんですって。男子はみんな否定的だけど、火のないところに煙は立たないでしょう?報道部として放っておけないじゃない?それを確かめるために、こうやってわざわざ休み返上して、三日もこんなところで張り込んだんだから。」

ん。今、何て言った?

「シンブンブ。まさかお前、こんなところに三日も泊ったのか?」

「え、うん。そうよ。今日で四日目。一人暮らしのフットワークの軽さを存分に利用できているわ。お風呂は近くの銭湯で済ませて、ご飯は駅の近くのコンビニとかファミレス。何、悪いの?それだけ本気なのよ。だから邪魔しないでって言ってるのにっ。」

心底驚いた。たしかに辺りを見渡せば、安っぽい寝袋やコンビニのビニール袋、空になったペットボトルに歯ブラシ、コップ。そしておそらくは許可もなく使用しているのであろうコンセントに刺さった各種充電器のコードの類。そしてこの位置からははっきりとは見えないが、おそらく奥に重ねられているのは着替えの洋服、だろうか。

「案外、こんな倉庫でも住もうと思えば住めるものね。マットもあるから寝袋でも痛くないし。充電器もあるし、雨風も防げるわ。もしかしてアタシってこういうサバイバル的な才能もあるのかしら。張り込みなんてチョロいものだわ。」

本来、サバイバルといものは電気もコンビニも体育用のマットも存在しない環境下なのだということを、近いうちに教えなければならないとオレは痛感した。しかし、ここまで「実態調査」で得た情報通りなのも珍しい。オレが自らの足で部活で遅くまで残っていた生徒や宿直担当の教員などから地道に聞いた話を、まるで本人の口から再生してもらったような、事実的な自白。往々にして人が人から聞き出す情報なんてものは、事実に対して本筋は合致していても、感情や価値観によっては微妙な差が生まれるのは誤算範囲として致し方ないことではあるが、今回はどうやらそんな心配もなさそうだ、所謂、満場一致といったところだろう。

「なるほど。お前のその熱意は理解した。しかしだ、シンブンブよ。俺もお前の取材や青春ド真ん中の邪魔する為や、興味本位で年頃の女子高生の背中にこうしてくっついているわけではないのだよ。」

「あら。ならまずアタシの背中から離れてくれないかしら?」

「まぁ聞けよ。実はオレも依頼を受けて、こうやって身を潜めているのさ。」

そう。人生においていくら多くの経験と失敗を重ねてきたとはオレとはいえ、社会的にも経済的にも自立し、法的に飲酒と喫煙をされているこのオレが、決して、決して無意味に、わざわざ、好き好んでこの高温多湿な倉庫で四つん這いに近い姿勢の女子高生に後ろから密着しているのではない。今のオレは正式な手順を踏んだ正式な依頼のもと、学校長の仲介と承認を経ての活動、いわゆる「公務」の最中なのである。


「あら、こんな時に?内容によってはビシッとカッコイイ記事にしてあげてもいいわよ?」

「ほう、そうか。まぁ簡単に言えば、ストーカー被害の依頼ってやつだ。」。



【1977年に施行された学習指導内容全改訂、学校側の生徒への対応や教育方針が少しずつ変化した〈ゆとり教育〉が施行されてから数十年が経った頃。学校内における生徒や教員同士の、在りもしないはずの権力や立場による格差社会的差別や「いじめ」の凶暴化や陰湿化が大きな問題となっている。加えて以前から学校側が抱えている国の少子化による経済的な問題がより顕著となり、学校運営にとって多くの弊害が連日ニュースを騒がせている。この問題の解決を図った政府はその対策案として、各学校が校内環境を改善、修復することを目的とした「公立学校においてのみ認可される第三者機関、公的な機関の設置案」を国会で提唱した。学校の治安は学校が守る。この案は国内中で物議を醸し、相当な時間と話し合いが繰り返されたが、最終的には半ば強引ともいえる手段で可決された。この法案は、小・中・高・各大学・専門学校、養護学校などの枠組みに関わらず、全ての公立学校自身の判断によって、公的な解決機関の設置が認められるものだった。しかし、この案が可決された都心の一部では、先行的に施行された学校においても反対派は多く、生徒やその保護者、教員たちのゲリラ的な反対活動によって、自治機関自体が排除、撤廃された学校も多く存在した。問題解決のための機関設置により、さらに環境が悪化していくという悪循環が生まれ、いつしか法案自体の撤廃の声が多く上がるようになった。そこで政府は、反対派と推進派の中立案として、公立の学校の、義務教育を終えた、本人の希望によって進学している学校に的を絞り、一定の期間を設けて公的機関の実験的に設置、その効果と実績を観察することを発表した。これにより、とある街を拠点に、反対派地域、推進派地域、そして中立派地域の各3校には、政府公認の第三者機関が設置されることになった。】


「え?ストーカー被害?どういうこと?だって、え。あれ?」


そして現在。推進派と反対派のちょうど真ん中にあるこの公立高校における問題解決のため、政府の認可によって、その校内において独立性と公的な立場が認められた公的校的機関。the Bird Raised Of Wise、通称BROWZ(ブロウズ)

【賢者の鳥】を名乗る組織での、校内における問題解決が『オレ』の仕事である。


「新任の保健担当教員からの正式な依頼だ、シンブンブ。今すぐこのストーキング行為を中止し、直ちに四日前から自身に課せられている世界史の補修に戻れ。」



《chapter:1-2》

「本当に、ありがとうございました。」

その小さい体を折り曲げて深々と頭を下げているのは、今年の四月にこの公立高校に赴任してきた女性教員、『ホケンイ』である。先週の木曜日に行った機関室でのカウンセリングの際も、言葉を言葉として聞き取ることが難しい程の細い声だったのが印象的だった。今まさにお礼を言ってくれている声でさえ、目の前もオレに届くのが精一杯な音量である。

その今にも消えてしまいそうな声の主によると、春からこの学校に赴任してからというもの、運動部男子の怪我の治療をする度に、外から変な視線を感じるようになったという。最初は気のせいだと思っていたのだが、それがずっと続いて、数か月の間悩むも結果的に何もできないまま夏を迎えてしまった為、オレに依頼したというのが、今回の事案の経緯である。

「実際、何か被害があったわけでもなかったので、別に、私が気にしなければ済む話と思っていたのですが、夏休みに入ってからは余計に、日に日に誰かに見られている感じも強くなっていく一方だったので。どうしたらいいのかわからなくて。なにより、こんなことで公的機関に相談するのも申し訳なくて……。」

ホケンイは、その細く垂れた前髪か細いた指先で掻き上げながらも、顔を下に向けながら、ぼそぼそと声を出した。

「いえいえ、お気持ちはありがたく頂戴しますが、これもオレの仕事の一環ですので、ちゃんと相談して戴けてよかったです。今回も連絡戴けて助かりました。」

仕事の一環、という言葉を付け加えることで依頼者との距離を一定に保つことも、オレの重要な役目だ。依頼者との距離が近すぎて良いことなど、起こるわけがない。

「ひとまずは、あのアホの子への徹底した事情聴取の後、誠意を込めた反省文を提出させます。再発防止も含めた完全な解決まではもう少し時間が必要かと思われますが、それまでどうかご辛抱を。もちろん、今後も、なにかあれば遠慮なさらずに言ってください。」

あの熱心なアホの子を現行犯で捕まえられたのは幸運だった。こういった校内での調査では、通常であれば張り込みや待ち伏せは基本的に非効率的なので避けることが多い。ましてやこの学校の【ブロウズ】はオレ一人の登録なので、複数名で真価を発揮するような作戦はあまり好ましくはない。しかし今回は、周囲への聞き込みがあまりにも的確であった為、その非効率と思われる待ち伏せをあえて使うことで、シンブンブの活動拠点を発見し、同時に現場での行動を押さる事が出来た。結果は、オレの口から多く語る必要もないだろう。

「ありがとう、ございました。」

緊張なのか、もともと内気なタイプなのか。ホケンイは今も自身の左腕を抑えてモジモジとしている。オレとの距離も一定で、元々自分からあまり人に歩み寄るタイプではないのかもしれないとオレは感じた。『ホケンイ』は、長い黒髪を後ろにまとめ、シルバーフレームのメガネをかけている。凛とした目元に鼻筋も通っている整った顔立ちではあるが、眉間に寄った皺のせいで優しい印象はない。仕事上なのか、それとも興味がないのか、その白い肌にはあまり化粧気はない。おそらく相当な化粧が映えるタイプなのだろうが、オレの目で確認できるのは、丁寧に施された桜色に染まったネイルくらいだった。。膝下丈のタイトスカートに淡い青のワイシャツ。小柄だが脚は長く、白衣の上からでも、シンブンブや女子生徒たちの言葉を借りるなら、その生まれ持った発育の良さが見て取れる。ふむふむ、なるほど。ほほう。

「あ、あの……」

オレが想像するに、おそらく人生の中で一番血気盛んであろう男子高校生たちは、あまり交友的ではない保健の先生に、純粋ではあるが決して純潔とは言えない多くの夢や妄想を抱いているのだろう。いつもは冷たい態度の保健女医が、二人きりになると、想像もできないような姿になる。なんて言う噂が流れているのであれば、その悲しい妄想に更なる拍車をかける事だろう。自分の過去を棚に上げるわけではないが、男とは常に逞しくも悲しい生き物である。

「……あの、なんでしょう?」

「ん。あぁ、いいえ、ちょっと考え事を。なに、たいしたことでは。」

一瞬ではあるが、オレはその悲しい生き物たちに共鳴してしまっていたようだ。オレはその慰めや憐れみにも似た彼らへの気持ちを抑え、今回の経緯の概要をホケンイに説明する。

「どうやらシンブンブは四日間ほど、あの倉庫に寝泊まりして、貴女とその周囲の動向を追いかけていたようです。カメラと、その日の活動や取材内容をまとめたノート、簡単な宿泊セットなどを用意していました。当人はサバイバル感覚張り込みを楽しんでいたようです。まぁ、なにぶん多感な年頃ではあるので、こういうちょっとした噂には尾ひれがついてオマケがついて、気づけば噂の百鬼夜行になるものです。お気持ちほ冊子しますが、あまり気にすることはありませんよ。」

「四日間、ですか。あの倉庫に。」

シンブンブ渾身の一発逆転満塁サヨナラの空振りを盾に、オレはそれとなく、ホケンイ自身にまつわる噂の存在をチラつかせてみた。別にこの場でそんな意地の悪いことをしなくても、後日の調査終了報告の際にでも確認すればいい話なのだが、シンブンブの言う通り、古くからこの国には、火のないところに煙は出ないという言葉がある。オレの口から男女に関する格差やその考え方について長々と語るつもりはないが、公的な立場として、あらゆる可能性を考慮しての行動が重要になってくる。ましてや多感な時期である年齢の生徒たちにとっては、小さな淡い勘違いが、何か大きな信念じみた妄信にも繋がらないとも言い切れない。そういった意味も含めて、ホケンイ自身にも、自らの立場や周囲の環境について改めて自覚してもらうことも大切だ。

「四日間……たしか夏休み、補修期間の、初日でしたよね。」

「何か気になることでも?」

「あ、いいえ。でもたしかあの子、出席日数の関係で世界史と数学も補修対象でしたよね。大丈夫なのでしょうか。その、今回のことでなく、補修無断欠席の処分というか。」

ホケンイは自分の依頼についての心配ではなく、あのアホの子の心配をしているようだ。こういった事態になっている中で、自身のことではなく周囲のことや今の状況について考えられるというのは、本来は気が強いという証拠なのではないかと考えてしまう。件の肉食系ホケンイという噂の原因は、もしかするとこの内面に秘められた気丈さを垣間見た人物によるものなのかもしれない。

というかシンブンブ、世界史だけじゃなく数学も補修なのか。

「そういった事態への処置は、残念ながらこちらの公務には含まれないので、なんとも言えません。でも、なんとかなるのではないでしょうか。行動力だけは凄まじいことが今回、証明されてしまいましたからなぁ。ははは。」

オレは先ほど、世界史担当の教員に首脳後ろを掴まれて連行されていったシンブンブの表情を思い出しつつも、あまり深くは考えないようにする為に中身のない乾いた言葉を返した。人間とは年齢や性別に関係なく、あんなに恨めしそうな表情ができるものなのだな。かの名曲「ドナドナ」は、きっとこういう状況の為に作られたものだったのだろうか。オレの表情を見たホケンイもそれを察したようで、憐れむような苦笑いでオレに返事をした。

「ではオレはこれで。早ければ明日には報告できると思いますので。」

「は、はい。ですが明日は、違う保健担当の方がいらっしゃる日なので、報告は明後日以降で構いません。久しぶりの、非番なんです。申し訳ありませんが、予定の邪魔はされたくないので、よろしくお願いします。」

邪魔しないで、というホケンイの言葉から、どうやらホケンイは人見知りではなく、単純にオレのことが苦手なのかもしれないと気付いた。やはりちゃんと髭は剃ってくるべきだったかな。

「わかりました。一応、機関室の連絡コードを教えておきますので、なにかあればここに。早朝以外は基本的に対応できますので。」

オレはホケンイにそう言って、連絡コードが記載された名刺を渡して、少し足早にその場を離れた。この年齢になると、自分が女性から距離を取られる理由なんてものは山ほど思いついてしまうものだ。オレは一旦機関室に戻り、シンブンブの世界史と数学のダブル補修が終わるのを待つことにした。ホケンイはオレを呼び止めるでもなく、小さい声でお礼を言ってきただけで、それ以上は何も話しかけてこなかった。邪魔しないで、という言葉に、なんとなく傷ついたような、ひっかかるような、妙な気分であった。

オレが廊下を歩いている間、ホケンイはずっと、こちらを見ていたような気がする。



不自然な雰囲気ではなかっただろうか。私なりに自然な振る舞いを意識したのだけれど、どうしても隠しきれない部分があったのではないかと、つい考えてしまう。目を見て話すことにも、つい抵抗があって、普段よりも声がちゃんと出せなかった。あの男の顔を見るだけでも、緊張感のないあの声を聞くだけでも、どうしてもあの頃の事を思い出してしまう。あの気取ったエンブレムを何度、何度引き千切ってやろうと思ったことか。我慢できただけでも私自身を褒めてあげたいくらいだ。

それにしても、ようやくの非番だ。ここ最近は夏休み前ということもあって、どうしても時間が取れなかったけれど、明日は部屋で少しゆっくり休んでから、久しぶりに隣町の霊園に行こう。あの子の好きだったお菓子と飲み物と、ずっと読んでいた小説の続編を買おう。きっとあっちの世界でも喜んでくれるはず。もう少し、あともう少しで、私の止まってしまっている時間を動かせるようになる。そう、彼らも言っていたじゃない。この「報告書」さえ完成すれば、あの機関を追い詰めるきっかけになるはず。大丈夫、間違っていないわ。私は、そう自分に言い聞かせて、PCに映された【報告書】に先ほどまでの出来事を書いていく。締め切りが近い、そろそろ書き上げないと。

「失礼しまーす。すいません。先生、今大丈夫ですか?」

ドアがノックされた音とほぼ同時に、ユニフォーム姿の生徒がやってきた。

「あら、今日はどうしたの?また転んだの?」



《chapter:1-3》

カチカチ、カチカチ……カチカチカチ

そうか。画面の下にあるこのゲージと、その横にある数字が100を越えたタイミングであれば、AボタンとBボタンを同時に押すと、連続攻撃の技が出るのか。派手な映像だが、これは痛快だ。

「ねぇ。」

「ちょっと待て。もうちょ、い。」

カチャカチャカチャ、カチカチ、カチャカチャ……

このRボタンと、十字型の方向キーでダッシュ、Bボタンで回避、ほうほう。あまりこういう細かい操作は得意ではないが、少しだけ慣れてきたぞ。攻撃のタイミングさえ読めれば、よいしょ。よし、この尻尾の攻撃はもう完璧に避けられるぞ。

「……。」

「……。」

カチカチカチ、カチャカチャカチャ……カチャカチャ

しかし、先ほどからかなりの時間を費やして戦っているというのに、全然倒せる気配がない。もしかして、なにか特別な条件やアイテムの使用方法があるのか?

「ねぇ、ちょっと。」

「だから、ちょっと待てって。」

カチカチカチ、カチャカチャカチャ

生まれて初めて歩く子どもの足取りの様な、不慣れなリズムでボタンを押すオレの指先は、ボタンの連打とムダに入る手の力のせいで痛みを帯びて、だんだんと赤くなってきている。

「……そのモンスターの弱点、炎属性よ?」

「え?な、なんでもっと早く言わないんだよ。」

冷房が丁度よく効いた、第二校舎南側の3階の奥。位置で言えばちょうど、職員室の真上にある「公的校的機関室」、通称「機関室」では今まさに、未知の巨大ドラゴン型生命体と選ばれし勇者のような存在が、命を賭して戦い合っている。

この機関室というのは、学校側から提供、設置される【公的校的機関】専用の部屋であり、他の教室とは少し造りが異なる。その構造は各学校の判断によってその差はあるが、この学校の場合は、生徒や教員が気軽に利用しやすいことが望ましいというので、ちょっとした応接間のような造りになっている。入口から入って左手には簡易的なキッチン、その横には新聞や雑誌などのラックがいくつか用意されている。部屋の中央には少し低めの机があって、それを挟むように置かれた長椅子タイプのソファと、正方形のもの椅子が二つ。部屋の右側、つまりそのソファの後ろには最新型の空気清浄機と、部屋の角に中古の液晶テレビがある。空気清浄機は、オレが普段から煙草を吸うことへの理解と、機関の独立性を尊重していただき、喫煙者である学校教員の協力もあって、半ば無理を言って導入していただいた大切な機材である。仕事用のデスクは部屋の奥の窓側にあり、仕事用のパソコンと、学校に関する資料やファイルが山積みになっている。そして何故か、機関の規則によって置くことが義務付けられている「公的校的機関員」の文字の入った表札。

そんな恵まれた設備の部屋の窓側、乱雑に重なったファイルや辞書の奥では、凶暴な巨大生命体が放つ青い稲妻に四苦八苦しながらも、勇者はチマチマと小さな剣で応戦しているのであった。厳密にいえば、未知の生物が静かに生息していた深い森の中に、武装した人間が特定の物資の確保を目的として無許可で開拓伐採をしている現場なのだろうが。

カチャカチチャ、カチャ、カチャカチャ、カチカチ

「さっきから逃げすぎよ。そいつを倒すには、まず尻尾を切り落としてから前転で相手の後方に移動するの。それから足を攻めていくのよ。あぁもう、ヘタクソ。」

「ちょ、ちょっと待てって、今その尻尾を狙って、動いているんだよ。あ、くそ、もう、速すぎやしないかコイツ。さっきより絶対速くなってるよ。」

いい歳の大人が、こんな携帯ゲームひとつで熱くなるものなのか、なんて思っていたが、これはなかなか、ついつい、のめりこんでしまうものだなと感心してしまう。敵を倒すことでそれに見合った金額と報酬が手に入り、さらにその報酬でのみ作成できる武器や防具が存在するというのだから奥が深い。アイテムのコンプリートを含めた完全クリアまでは、プレイ時間もさぞかし膨大なものになるに違いない。実際〈とある生徒〉からこのゲーム機を没収した際に確認してみたところ、その生徒のプレイデータは700時間を越えていた。その費やした時間の一部を、予習や復習にも配分できていれば、もっと有意義な夏名墨になっただろうに、なんて考えてしまう。

カチカチ……カチャカチャカチャ、カチカチ

「そもそも、なんでアタシの目の前で、アタシのゲームやってるのよ。没収されてからもう2週間以上経っているわよ?アタシもやりたいんだから、いい加減に返してよ。ていうかまず、このよくわかんない金属を外してくれないかしら?ちょっと、聞こえてるの?」

「……。」

ホケンイと別れてからおよそ三時間、ようやく本日分の補修時間が終わり、その《とある生徒》ことシンブンブを機関室に呼び出した。シンブンブ自身もようやく補修がおわったこともあり、多少なりとも解放感を感じていたようだったが、残念ながらその解放感は早々に、音もなく消えていくことになるのだ。オレはシンブンブが機関室に来てすぐ、デスク横のパイプ椅子に座らせた。そして素早くシンブンブの体に密着させるように四足の机をセットし、機関支部から支給されている「不思議な合金製のアイテム」で両手を机に固定した。状況が飲み込めないシンブンブからは凄まじいほどの罵声や抗議を受けたが、オレは一切相手にしなかった。しばらくの間、オレがこのゲームを始めてからもその声は止む事は無かったが、無視し続けた末、特に会話もなくなり、現在のような状況になっている。

カチカチカチ……カチ、カチャ、カチカチ、カチ

「これって、ショージョカンキンってやつなんじゃないの?もしかしてアンタ、そっち系の人?教育委員会と機関本部に訴えたらアタシ、秒で勝てるわよ?シュンサツってやつよ?ていうか、アタシは連日の取材活動と補修で疲れているの。しかも一番興味のない世界史と戦ってきて、とぉっても疲れてるの!アンタだってどうせ、高校生活三年間で、補修科目完全コンプリートしてたタイプなんでしょ?ちょっと、聞いてんの?」

「……。」

風量は静音、設定温度は27℃のエアコン。

校庭から微かに聞こえる、金属バットの打撃音と、気合いの入った声。

身体中に刺さるような日差しと、生命力に満ちた木々の緑。

キンキンに冷えた麦茶と、結露した窓際に置かれたガラスのコップ。

オレの目の前にある真っ白な反省文用の原稿用紙。

遠くで鳴っている、雑草を刈るチェーンソウのエンジン音。

夏だな。夏だな。夏、なんだな。

あれ、今のはなんの歌詞だったっけ。

「あぁ、そうだな。もう、夏だもんな。」

「ホントに怒るわよ。」

先ほどまでの鋭い日差しが雲で少し陰ってきたタイミングで、オレは手に持っていたゲーム機を机に置いた。小さな声で「だから返してってば」と聞こえた気がしたが、特に反応はしない。オレはゆっくりとした足取りでキッチンに向かい、棚からもうひとつ、透明なコップを出して麦茶を注いで彼女の前に置いた。もちろん、あの拘束用アイテムは未だ強制的に装備させたままだ。

「シンブンブ、お前には聞きたい事と、書かせたい文と、問い質したい事がある。」

「あら、ずいぶんと盛りだくさんなのねぇ。」

先ほどのやり取りとは違い、今度はシンブンブの方が余裕を見せてくる。ゲーム画面を見ながらの会話から、目を合わせての会話になって途端にこの態度だ。よほど相手にされないのが不服なのか。最初に出会った時から、それは一向に変わる様子がない。

「でも残念!却下!即時解放、ミスド経由で帰宅できる選択肢はないのぉ?」

「そうか、却下か。」

オレは「はぁ。」と、わざとらしいため息をついて、日差しを遮るようにシンブンブの周りをゆっくりと歩き出す。

「実に残念だ、シンブンブ。まさか今更改めて言うまでもないと思っていたが、今の提案が解放の為のラストチャンスだったのだ。人生にはあのゲームと違って、セーブポイントも、リセットからのやり直しもない。先ほどの条件の全てを飲むことが、即時帰宅への絶対条件だったのだ。キミには過去に何度も言ってきたはずだ。この機関室は公的機関の立場が尊重された上でのオレの宿直室も兼ねており、いわば校内にあるオレの家でもあるのだ。時間が過ぎれば強制的に帰宅させられることも、わざわざ警備員さんが懐中電灯を片手に戸締りに来ることもない。この期に及んで、まさか知らないとは言わせないぞ、シンブンブ。」

先ほどまでとは雰囲気を一気に変え、オレは言葉をまくしたててシンブンブを攻める。個人的にはもう少しあの巨大生物との闘いに興じていても良かったのだが、こちらにも限られた時間の中で終わらせなければならない仕事があり、その報告を待っている人が多くいるのだ。

「そうかそうか。いやぁ本当に残念だ。拘束されている身で、二度度同じ日は訪れない、貴重で眩しいこの夏休みを、その届くかどうかギリギリの麦茶のみで過ごさなくてはならないなんて。もったいない事この上ない。課せられた補修も宿題も、友人や恋人との他愛のないささやかな連絡も、風呂もトイレもゲームも不可能じゃないか。あ、そうか。そこは生まれ持ったサバイバルの才能の見せ所なのかもしれないな。」

シンブンブはオレの話を聞きながら肩を震わせ、下唇を噛みながら悔しそうにしている。頬を赤らめ、小さく足で地団太を踏んでいる。怒りと恥ずかしさが込み上げてきているのだろうか。大げさな声の抑揚、ムダに大きい身振りと手振りをつけながらの長台詞。経験はないが、大勢の前でスポットライトに照らされながら、舞台の主役を演じている気分だ。我ながら決して良い性格ではないのはうすうす感じている。しかし、今のシンブンブにはこれが一番効果的なのだ。

「ぐうっ、このっ……。」

シンブンブは両手足をバタつかせ、オレになにか言いそうにしているが、今の状況を打破するような言葉が思いつかないのだろう。身動きが取れない状態で、目の前でムダニ大げさな動きをされるのは不愉快極まりない。さらに言えば、シンブンブを拘束している「不思議な拘束アイテム」は【ブロウズ】が誇る科学技術班が「ゴリラも諦める程の頑丈さ」と謳っていた代物だ。残念ながらオレにはこの先ゴリラを捕獲する機会は無いと思われたので、今回はシンブンブで試させてもらった。

「……そういえば、去年の冬も、今の状況と似たようなことがあったな。」

「っ!」

オレの底言葉を聞いた途端、シンブンブは身体をびくっとさせ、まるで過去に味わった〈 地獄のような何か 〉を思い出したように顔色が蒼くなっていく。少し時間はかかったが、シンブンブの心は、少しずつ折れ始めたようだ。オレは先ほどまで意気揚々とセリフを吐いていた声のトーンを落とし、このお説教のクロージングに入る。

「別にオレはな、報道委員会としての活動をやめさせるつもりもなければ、生徒の夢や目標を否定するつもりも毛頭ない。ただな、一個人を対象として行動するのであれば、それ相応の責任が伴うことを忘れるな。去年の冬休みに何を学んだ?」

目の前の拘束された女子高生が、先ほどよりもかなり落ち着いた表情でオレの言葉に反応する。

「……貴方がその気になれば、暖房も毛布も、ブレーカーまで落とした何もない真冬の機関室で、女子高生を椅子に縛り付けて三日間も放置することも厭わない、隠れドS野郎だってことかしら?」

「ど、ドエスって、お前なぁ。」

まだそんな小さな反論をしてくる余裕があったか。しかし、そのドSという下品な肩書は納得いかない。オレは以前も彼女に、その無鉄砲さを心の底から反省してもらうために実施した『真冬の学校に軽装備で泊まってみようの刑』は、その心太のような脳みそにもしっかりと記憶されているようだ。オレも当時の機関の支部長からこれ以上ない怒号と、鋭い右ストレートを食らったが、シンブンブが置かれた環境と、その当時担当していた案件の状況が状況だっただけに、支部からはそれ以上の懲罰はなく、本部がオレに下したのは始末書の提出のみだった。

「どんな覚え方をしようと、あの時オレがお前に言ったことを忘れていなければ構わんさ。」

「忘れたわけじゃないわ。私だって、あんな冬季合宿は二度と嫌よ。でも今回はあくまで、生徒同士の噂の検証が目的だったから大丈夫かなって思ったの。ごめんなさい。」

目に映る何もかもが眩しく、新しいモノと漲る力であふれている年齢の彼女たちに、他人のことに興味を持つなというのはなかなか酷な話なのかもしれない。おそらく人生の中でも、他人の目や集団での立ち位置が自身のステータスと勘違いする頃だ。その純粋すぎる考え方や行動がどんな結果になるか気づかないことも多いだろう。ましてや彼女はそういったに意志を持って向かい合う『シンブンブ』として活動しているのだ。他人への興味こそが、その原動力となっているはずだ。

「いいさ、わかってくれたなら。しかし今回はいくらなんでも目立ち過ぎだ。あんな噂があったとはいえ、公的機関の人間にしょっ引かれたことは反省しろよ。やるならもっとバレないようにやれ、そしてもう同じ轍は踏むな。」

「えぇ、そうね。どうもお手数をおかけしました、ってさ。」

今の状況や自分のしたことの意味、過去の経験が頭の中でしっかりと整理できれば、たとえ高校生でも、その後自分がどうするべきかなんてものは判断できるはずだ。正しくは、オレ達のような年上の人間がそうやって教えることで、社会に出る準備を整えてやることが、生徒たちを少しずつ大人と呼ばれるモノに成長させていくのかもしれない。オレは真っ当な教育者ではないので詳しくはわからないが、オレはこういう方法でしか彼女たちの成長を手助けしてあげられない。

「よし。じゃあ、この話は終わりだ。あ、これ機関に送る反省文用の紙ね。提出は明日の放課後までに頼むぞ。ここからは毎度おなじみの調書作成だ。形式的なものとはいえ、とにかく時間が惜しい。サクサク進めていくからよろしくな。」

誰かにお説教ができるような人間の自覚がないので、オレにはこういった話の終わらせ方がわからない。ましてや、いつもより少し偉そうな、妙に大人ぶってしまったことへの恥ずかしさもあるのかもしれない。しかし、やらなければならないことが山積みなのは事実なので、これ以上、彼女に口を挟ませないようにしつつ話を進める。

「わかっていると思うが、本題はその後だからな。」

「はいはい。結局は、盛りだくさんなのね。」



《chapter:1-4》

「うむ。まぁ、こんなところか。反省文、確かに預かったぞ。」

「ようやく?はぁ、さすがに疲れたわ。」

一度落ち着いて観念してしまえば、あとは素直なものだった。機関支部に提出する報告書を制作するにあたって、彼女の四日間の活動をオレが質問。それと同時に、彼女自身はオレに提出する反省文を直接オレから添削を受けつつ作成するという、他校の【ブロウズ】の構成員には決して見せられないような作業が二時間ほど続いた。反省文に取り組む姿は、現役の学生らしい真面目な表情だったが、そんなすぐには合格が出るはずはない。誤字脱字や文章の言い回しなど、日頃取材やスクープなんね騒ぎ立てやながら記者として記事を書いているとは思えないような指摘が多く、何度も添削しては書き直しをさせた。本人も無意識に間違っていた個所が多かったらしく、後半はもはや現代文の授業のようなやりとりになっていたが、彼女は指摘された内容を楽しそうな表情でノートにまとめていた。それが今後の記事内容や授業での成績にも反映されるとよいのだが。

「それにしても今回の処分は甘いような、優しい気がするわ。枚数制限もない反省文、しかも目の前で添削してくれるなんて。か弱い女子高生を拘束したことへの罪滅ぼしなのかしら?」

彼女はそういいながら、自分の鞄から分厚くなったクリアファイルを取り出している。中に挟まった書類の厚さでファイルの形が少し変形している程の量だ。

「うん、とても良い着眼点だが、そもそもか弱い女子高生というイキモノは、学校敷地内に住み込みまでした挙句に通報されたりはしないんだ。それに言ったはずだぞ、まだ本題に入ってないんだ。これ以上お前の反省文の添削なんかに時間を割いていられない。だから提出は明日でも構わないと言ったのに。」

「あら、何事も前倒しで終わらせることに越したことはないでしょう?」

彼女は昼間の無鉄砲さからは信じられない、妙に大人じみたことを言った。普段からこういう考え方で行動してくれていれば、余計な負担も反省文もなく生活できるだろうに。

「そりゃ、お気づかいどうも。さて、じゃあもうひと踏ん張りだな。」

窓から見える空は、刺さるような日差しから優しい橙に染まっていた。朝からグラウンドから聞こえていた野球部たちの声も、今はもうない。暑さは残っているものの、どこか心地の良い空気が機関室に満ちている。

「実際のところ、どう思った。お前らの意見が聞きたい。」

「やっぱり、そう来ると思っていたわ。いくらホケンイさんを油断させるためとはいえ、あそこまで騒がしくする必要はあったのかしら。」

どうやら彼女は初めからこうなることを予測していたらしい。おそらく反省文を当日に仕上げると言い出したのも、オレが本題を隠しているのを見越してのことだったのだろう。

「まぁ、私も少し調べてみたけど、生徒の間ではワイドショーのネタと同じような扱いね。出どころもわからない噂は噂のまま、根拠も証人もないまま広まっていたみたい。どこまでが事実で、どこからが尾ひれなのかも曖昧な状態だったわ。そういう意味でもワイドショーと変わらないということかしら。あ、でもこんなこと言ったら、それで生きている方々から怒られちゃうかしらね。」

そう言ながら彼女は、日中からずっと付けていた向日葵のヘアピンを外し、クリアファイルから取り出した数枚のレポート用紙を右手に持ち、その資料に目を落としながら今回の調査の報告を始めた。

彼女と最初に出会ったのは去年の冬休みだ。その頃この高校の界隈では、通り魔による女子生徒への傷害事件が多発しており、連日テレビのニュースや新聞を騒がせていた。その問題解決には学校からに限らず、市の教育委員会や地元警察、さらには組織設置の推進派からも【ブロウズ】への協力申請が来ていた。当時はまだ今よりも機関の設置に対しての反対運動も多く、政府も問題解決は機関の存在意義の証明に繋がると、組織全体がやたらと躍起になっていたのを覚えている。彼女は突然機関室を訪れて「調査を手伝わせてほしい」と言ってきたのだ。当然、そんなことは許可が下りるわけもなく、オレも断っていたのだが、結果的には彼女の協力もあって通り魔の犯人を特定、逮捕にまで至ったのだ。オレも自身の辞職を覚悟で、機関支部に提出する報告書に彼女の協力があったこと、それが事件解決に大きく貢献した事を書いた。そして、彼女がこの先も協力したいと強く希望している事も。機関支部も本部もかなり悩んだようだったが、最終的にはこの学校内限定で【ブロウズ】への協力を認可したのだ。これはどんなに推進派の多いとされる地域においても過去にない、言わば特赦中の特赦だった。もちろんこの事は公にはされていないし、オレも立場上、毎回のように彼女に協力してもらっている訳にはいかないので、今回の様な人手が必要な場合や、特殊な事情が無い限りは彼女に声をかけないようにしている。とはいっても、どこから嗅ぎつけてくるのかは分からないが、なにかある度に機関室を訪れては資料作成などを手伝ってくれているのも、また事実だ。

「……と、いうことみたいよ。私が調べたのはここまでかしら。」

「ん、わかった。ご苦労さん。」

彼女の報告を聞き終わったところで、オレはアイスコーヒーを淹れにキッチンに向かう。彼女は先ほど渡した麦茶に口をつけている。

「泊まり込みまでして、少々はしゃぎ過ぎているんじゃないかと心配だったが、ちゃんと調査にも熱が入っていたみたいだな。そういう意味では、上手く進んでいたのかな?」

「まぁ、作戦上とはいえ、貴方から直々に自由な取材活動を許可されたんですもの、嬉しかったんじゃないかしら。でも、直接許可をもらった以上、多少の結果は必要なのもわかっていたんだと思うわ。でもまさか、ホケンイ本人に見つかるとは思わなかったけれど。貴方の言う通り、少し目立ち過ぎたみたいね。」

ホケンイからストーカーの相談を受けた日から二日ほど前。オレの元には別の相談が来ていた。と言っても、オレはその依頼者とは直接話したことはなく、機関が生徒たちや教員たちが相談しやすいようにと作成していたインターネット上のホームページから、その相談は送られてきたのだ。依頼者は匿名で、この学校の生徒であることしか教えてはもらえなかったが、その匿名の相談者は「ホケンイさんは誰かに付きまとわれているらしい」「毎日遅くまで残ってパソコンでなにかの作業をしている」といった内容のメッセージを数日間送られてきていた。こういったネット上の匿名メッセージには、悪戯めいたもの、特定の個人に対する怨恨めいたものも決して少なくは無い。しかし、公的な立場である【ブロウズ】は、そういったことも考慮しており、ホームページから送られてきたメッセージは情報部管轄での個人情報保護のコンプライアンスを徹底した管理のもとで確認され、スパムや相談、依頼ではないものは削除されるシステムになっている。つまり、件の匿名のメッセージがオレのもとに届いていること自体が、正式な相談、依頼として認められているという事になるのだ。そしてこのタイミングでホケンイからのストーカー被害の相談があったことで、匿名の相談者から送られてきたメッセージに信憑性が生まれた。生徒の間で広まっていた噂話が、ストーカー事件にまで繋がってしまったのだ。

そこでオレはまず調査の土台づくりとして、シンブンブにホケンイの噂についての取材を許可し、生徒からの情報を集めつつ、ホケンイの周囲を見張らせることにした。こうすることでホケンイの周辺に怪しい人物が存在するかどうかの確認と、匿名の相談にあったホケンイが遅くまで残ってなにをやっているかの調査にもなる。加えて、噂話の真相も明らかになるとなれば、シンブンブは迷わず喰いつき、その大役を担ってくれた。この土台づくりの一番重要なのは、シンブンブが張り切って調査を行うことと、それをオレ自らが捕まえる事だった。夏休みの間ずっと取材活動をしていたとなれば、休み期間中に学校に来ていた運動部の間でも噂になる、しかもそれがストーカー行為だとして、ホケンイに相談されたオレに捕まったとなれば、生徒の間ではこの上ないネタになる。そうすることで、ホケンイには「ストーカーが捕まった」と、生徒や教員には「シンブンブがホケンイさんにストーカーしていた」と思ってもらうことで、学校全体とホケンイ、そしてストーカー本人にも油断してもらい、その行動や犯行の尻尾を同時に掴むのが今回の作戦である。多少強引な手段ではあるが、学校内の問題を確実に解決する為に考えたものだ。特に今回は女性からの依頼、しかも内容がストーカー関連の問題ということもあり、あまり表だって調査を行うと真犯人に警戒される可能性がある。そして【ブロウズ】の規則通りの調査では、行動の度に各部署への承認申請や、依頼者へ報告を含めたカウンセリングなどに時間がかかるため、なるだけ早く今の状況に変化をもたらす必要があった。そしてなにより、内部であろうが外部であろうが、再犯防止の為にも容疑者を現行犯で捕まえる必要があったのだ。また、オレは犯人が校内のどこかに潜んでいる前提をシンブンブには敢えて伝えず、安全面を考慮し、まずは噂話の調査成果を上げるという条件で取材中における自由行動を許可した。もちろん、これはストーカーの犯人に油断してもらう為の陽動であり、依頼者であるホケンイもこの作戦は知らされてはいない。したがって、今回のようなホケンイからオレへの通報はシンブンブの大失態ではあるが、結果的には当初の作戦より派手なアピールに繋がったようだ。とはいえ、これから先の作戦失敗にも繋がる恐れがある為、一応釘を刺すという意味でお説教はさせてもらった。

「こんな作戦、支部に知られたらまた始末書だろうが、この校内では一応、独立性を認められた立場だ。ストーカーを捕まえる為なら、使える手はどんな手段でも使わないとね。」

「ふぅん。貴方こそ、今回はずいぶん熱が入っているじゃない?」

彼女のこちらの腹をうかがってくるような返事に、オレはコーヒーを流し込むように飲みながら新しい煙草の封を開けて答える。

「あぁ。たしかにそうかもしれないな。」

蝉の声と共鳴するように、空気清浄機が大きな音を立て始めた。

「夏休みってさ、その、暇なんだよね。」

彼女はオレの言葉に呆れたのか、それともこれ以上詮索しても無駄だと悟ったのか、鼻で小さく笑って、また書類に目を落とした。オレが本当に言いたかったことは、きっと、コーヒーと一緒に飲み込んでしまったのかもしれない。なるほど、どうりでいつもより苦いと思った。


匿名で送られてきた相談内容は、ホケンイの事以外に、もう一文書かれていた。

「聖者の行進は、もう止まらない」

この言葉の意味について、彼女はまだ知る必要はない。


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