最終話
数年後、詩人は再びその町へ行く事にした。目的地はもっと南にある別の場所だが、ここを通る列車を使うのが一番の近道なのだ。ついでにあの時会った〈それ〉が一体どうしているのか、様子も見たかった。運の良い事に今日から明日にかけて、町は雨模様になるらしい。
改札口の駅員から切符を受け取り外に出る。町の様子もかなり変わった――新しい店が幾つもでき、道に敷かれた石畳まで、ざらついたアスファルトになっている。特に以前行った図書館は大きく改装されており、全く別な建物のよう。
例の公園まで行こうと、暫く歩いて詩人は目を疑った。以前は見なかった金網のバリケードが行く手を塞いでいる。金属製の看板めいたものも括り付けられていた。よく見ようと近づくと、
「ちょっと、お兄さん、他所の人? 危ないから離れた方が良いわよ。もう雨も降るし」
疲れた顔の老婆が肩を叩いた。
「雨、だって。あの条例、まだ続いてんのか」
「雨の日は外に出るなってやつでしょ。まぁ、一昨年無くなったんだけどね。良い終わり方だったかは判んないわ」
老婆は首を傾げた。
「知ってるんでしょ、あの事件も。ありのままがどうとかいう変な団体が〈それ〉を呼び寄せたってやつ。あの所為で旧市街は封鎖されたのよ。酸だらけで汚くなったし、出ていかない〈それ〉が怖くて眠れないし。代わりにできた新市街に、私達は住む事になったの。酷い話でしょ全く。大体今まで何もしなかった役場も役場よね、あんな怪しい奴らにさ。住みやすい町だったのは良かったけど、あの町長はそういう所が無能で……」
欠伸の出そうな世間話までしだす老婆。適当に愚痴を聞き流し、詩人は金網の向こうを眺める。確かに見覚えのある風景だった。しかしよく目を凝らすと、角の方の崩れやざらつき、濁った色の染みがあるのが解る。酸の所為に違いない。
たん、た、たたん。水の粒が華麗な着陸態勢をとり始める。詩人が踏んづけている地面にも水玉模様が広がりだす。
老婆はいつの間にか帰った。〈それ〉の到来で蹂躙される旧市街を、これ以上見たくなかったのであろう。小さな飛び込み選手達が中折れ帽を湿らせて尚、詩人は金網の前に立っていた。
まだ新しい廃墟の向こうに、嫌われ者達の小さな影がちらちら見える。染みや床が緑色に光り、申し訳程度のライトアップが始まる。妙なものだ――こんなにも不思議な風景を、詩人以外の誰も見ようとしないのは。
ちょうどこんな雨の日にぴったりな童話があった筈だ。雨の森に住む怪物の話。友達が欲しくて人里に下りてきたんだっけ……
ぱしゃん。ぱしゃ、ちり、ぱしゃん、ちりちり。
聞き覚えのある音。何気なく横をちらりと見た。
「やっぱり、お前さんか」
〈それ〉がいた。こちらに近づくと、前より何倍も大きくなっていたのが判った。歩く度に奇妙な足跡が地面につき、蛍光グリーンに光った。
金網の隙間から何かが転がり落ちる。すっかり錆びた鈴だった。紐にはついていない。詩人はその金属の玉を徐に手の上で転がした。
秋の虫に似た柔らかい音を聞くと、〈それ〉はあの日と同じ高い声で鳴き、ステップを踏み始めた。
この雨はどうやらまだ止まなそうだ。
〈おしまい〉