第五話
「早速ですが、貴方。
……昨日、〈それ〉と会ったのですね?」
長い沈黙。
男はもう一度繰り返す。
「あれ、聞こえませんでしたか。貴方、昨日〈それ〉と会ったんでしょう。私は見ていましたよ」
図星だった。無精髭が生えた詩人の口元は、言葉にならない言葉を掴もうと、無意味に開け閉めされるばかり。
「そんなに驚かないでください。私達は〈それ〉の為になる活動をしているのですから」
「……というと、前に見せてくれた署名のやつですか。あれ、結局何が目的なんすか」
「簡単な事。『市民権』を差し上げるのです」
男は意気揚々と自分達のプランを語る。
元々この町は、ある大きな森を切り開いて作られたものだ。だが人々は開発段階で〈それ〉らの住処まで壊してしまった。〈それ〉らが雨の降る日にここに来るのは、元いた土地を懐かしんでいるからだという。
だから男達は考えた。どうしてここで一緒に暮らそうとしないのか、と。
「何故町の皆さんが彼らを恐れるのか――それは長い間彼らを見ようとしなかったからです。貴方は彼らを恐れなかった。何故か? 彼らをちゃんと見ようとしたからですよ。だから落ち着いて彼らの本質に触れる機会を得られたんだ」
いや、俺、二回しか見てないし。本質だか何だか知らねぇけど、ちょっと遊んでやっただけだし。そう詩人は突っ込みを入れようとしたが、言うだけ無駄だろうと思い、やめておいた。
「だからそう! 市民権を彼らに差し上げて、一緒に暮らすように努めれば、私達も仲良くやっていく事ができる筈です」
バン! 机が叩かれる。つい立ち上がる詩人。ティーカップがぐらぐら揺れた。
「……如何ですか。悪い話じゃありません。折角できた友達です、貴方だって、毎日会えたら嬉しいでしょう」
詩人はだんまりを決め込んだ。こいつに今ここで結論を出すのは聊か難しい問題に思われた。
今、詩人は漸くあの足跡を辿る機会を得られたのである。但しあの男と一緒に、ではあるが。
――お友達に、ご意見伺いといきましょうか。
意味深な言葉と共に、男は民家の裏口を開けた。まださほど陽は高くなっていなかったが、何日も議論したくらいの疲れが詩人を襲ってきていた。
「こうやって水を撒くんです」
男がじょうろ片手に煉瓦の道を濡らしていくと、淡い蛍光グリーンの光が放たれた。まだ消えきっていない足跡だ。こいつを辿って「お友達」とご対面させるつもりらしい。
詩人も周りを横目で見ながら後に続いた――親子連れや若い娘達がクスクス笑っている。意味も無く水やりするスーツの男と、その後を追う六弦琴の詩人は、彼らの目に非常に滑稽に映るらしい。一時間ほど公衆の面前に醜態をさらし、漸く二人は〈それ〉らの居場所を突き止めた。
暗い森が目の前に立ちはだかっている。一歩足を踏み入れると湿った空気が漂ってきた。
「ペトリコール」
雨が降った後の匂いを意味する言葉が、詩人の口をふっとついて出た。木の葉の陰からは太陽が顔を覗かせているというのに、おかしな話だ。
いきなり男が右腕を横に広げ、行く手を塞いだ。立ち止まっていると……べちゃ、べた、べたん。雨は降っていないのに、大きくて平たいものが、泥濘に叩きつけられている。
前に見た時より大きな〈それ〉が前を横切っていく。体中から滴り落ちる大量の粘液。べちゃべちゃとした足音は、そいつを踏むからかもしれない。よくもまぁ転ばないものだと詩人は感心する。
大きな〈それ〉は徐に粘液だらけの顔をこちらへ向けた。気付いた男が朗々と喋りかける。
「お早う、諸君! 今日は君達に、良い報告があって来たのです。今まで辛かったでしょう? 住処を人間に占領されて」
大きな〈それ〉は何も答えない。
「だからそう、私達が君達の権利を――」
男が重大発表をする前に、詩人は中折れ帽を押さえて脱兎の如く逃げ出した。〈それ〉が涎を垂らして二人を見ていたのがわかったからだ――振り返ると案の定、飢えた〈それ〉が、緑がかった液体を男にかけていた。鼻にくる酸っぱい臭いがする(あの酸の話はまさに、男が言った通りだったのかもしれない)。男の叫び声。柔らかいものを引きちぎり貪る音。
詩人は逃げた。後始末もそこそこに全力で元来た道を走った。
胸がきつくなってくる。喉が痛い。もう駄目だ……遂に詩人は耐え切れずにへたり込んだ。下を見れば、靴にもズボンの裾にも泥がついている。
……ちり、ちりちり。鈴が鳴る。詩人は目線をゆっくりと遠くに逸らしていく。
〈それ〉だった。あのドームで見た時以来だ。口には馴染み深い、銀の玉がついた紐を咥えている。詩人が見ていると〈それ〉は頭を振りながらぺたぺた歩き出した。何度もこちらを振り返る。ついて来いというのだろう。
詩人は抜き足差し足ついていく。〈それ〉は相変わらず彼をちらちら見て、慣れた様子で森を進む。
木の枝のアーチの向こうから光が見えた時、彼の動悸は漸く治まった。〈それ〉も立ち止まると、促すように光の差す方を見やった。
翌朝、詩人は朝一番の汽車に乗って町を出た。駅へ向かう途中横切ったあの公園には、人っ子一人、〈それ〉すらもいやしなかった。