第四話
町にまた雨が降った日、詩人は敢えて雨を避けようとはしなかった。住民に混じって適当に逃げ回った後、こっそりとあのドームに隠れた。
空から降り注ぐシャワーがかかるにつれ、胡散臭い緑色の灯りが、ぽっぽっと町を照らしていく。何とも幻想的な光景だ。その内、遠くから覚えのある足音が聞こえだした。
〈それ〉が来た。詩人がドームの穴から外を覗いたとき、〈それ〉もまた目をぱちくりさせてこちらを覗いていたのである。
不意打ちで現れた達磨さんとの睨めっこに、彼はつい吹きだしてしまった。本来なら恐れるべき存在だという事もすっかり忘れていた。
ふと、か細くコロコロと音がするのに気づく。見れば、〈それ〉は口(と呼ぶべき部位)に棒状の物体を咥えているではないか。間違いない。詩人は確信した。あの傷だらけの軸、陽に当たって褪せた色……自分のペンだ。
「へぇえ、そりゃ俺のペンじゃねぇか。持ってきてくれたのかい」
〈それ〉は頷いて、甲高い声を一つ上げた。手の上に転がされたペンに触れても、噂に聞いた酸の痛みも、破損も、傷すらも何もない。礼を一つ言ってペンをしまうと、銀の鈴が細い声で歌った。
鈴の音を聞くと、〈それ〉は嬉しそうな声を上げた。気付いた詩人がわざとペンを振って見せると、頭部をリズミカルに左右に揺らす。
ちりちりん。ふりふり。ちりりん。ぺたぱた。
今度はタップダンスも加わった。
「っはは! 面白ぇな、お前さん。そんなに楽しいなら、これやるよ」
鈴のついた紐を外し、投げてやった。どうせお遊び半分でつけたものだ。また買えばいい。
〈それ〉は紐を咥えて頭部を振る。ちりん、ちりんと澄んだ音がした。
ペタペタと足を地面に叩きつけるように歩いて、水のカーテンが降りる外へ向かう。
〈それ〉はすっかり上機嫌。ヘッドバンキングした。あの反復横跳びを始めた。〈それ〉が動く度に鈴が鳴った。
相変わらず不器用そうな踊りだが、不思議と退屈する事はない。広い町でたった一人、見た事も無い〈それ〉を見物する舞台だからだろう。
詩人は今やドームから顔を出して、この不思議なショーに夢中になっていた。その所為で、うっすら開いた民家の窓から自分達を観察する者がいるなど、考えもしなかった。
翌日。詩人が六弦琴の弦やら着替えやら、旅立ちに要るものを買いに行った時の事である。
泊まっていた宿を出て角を曲がろうとした時、
「ちょっといいですか、お兄さん」
思いがけず、詩人の腕を掴む者あり。見覚えのある、ピシッとしたスーツ姿の、市民団体の男だ。
「ちょっといいですかじゃないっすよ。俺、行きたい所があるんですから……」
「まぁまぁ、すぐ済みますし。貴方にとっても悪い話じゃない筈ですよ」
強引に説得されて、近くにあった民家に引っ張り込まれる。白地に紫の文字で「ありのままの社会に住まう為に」とでかでかと書かれた看板が、詩人を迎えた。お世辞にも良い趣味とは言えない貼紙も外壁にくっついている。
仕方なく流れに身を任せながら、詩人は、
(このあんちゃんとは何かと縁があるなぁ)
などと、呑気に構えていた。
男に連れられ入った民家は、怪しげな外観とは裏腹に瀟洒な内装であった。天板が硝子でできた机に、ぶ厚い本や紙束がまとめられた赤銅色の本棚。何処かのオフィスへ商談をしに来たセールスマンの気分だ。
「それで、俺に何の用ですか? 言っときますけど、俺、変な壺もお金の貯まる腕輪も売り買いする気は無いですよ」
出されたお茶をフーフー吹いて冷ましながら――まだ熱くて飲めたもんじゃなかったが、詩人は冗談交じりに言った。
「ははは、まさか。ちょっとお話を伺いたいだけです。それが済んだら終わりますから」
男の顔に屈託の無い笑みが浮かんだ。
「早速ですが、貴方。
……昨日、〈それ〉と会ったのですね?」