第三話
にわか雨は次第に本降りになって、公園には幾つも大きな水たまりができた。靴が濡れるのを嫌がる人も、水遊びに興じる幼い子も、ここには誰もいない。皆、雨と共に現れる〈それ〉を恐れていたから。
ただ一人、詩人だけが公園のドーム型遊具の中で、雨やみを待っていた。待つほかなかったのだ――同じ屋根の下には小さな〈それ〉がいて、彼の周りをペタペタ歩き回っている。かといって外に出れば、もっと大きな、それこそ昨日見たみたいな蛍光グリーンの足跡の持ち主に出遭う事は明らかだ。
〈それ〉が動かないうちに、じりじりと後ずさって反対側へ逃げる。
この雨からしてきっと長丁場になるだろう。栄養補給が必要だ。詩人は背負った鞄から、肉入りパンとお茶の入った水筒を出した。
パンを一口齧った時、不明瞭な喚き声が耳を劈いた。驚いた詩人の手元から、肉が一切れ落ちた。
「あぁらら」詩人がやや惜しそうに呟くと、〈それ〉が素早く寄ってきた。落ちた肉を咥え、そのままクチャクチャ音を立てて食べる。身の毛もよだつような顔は些か笑っているように見えた。
食べ終えると、〈それ〉は詩人の方を向いて、甲高い声で鳴いた。彼が何も言えずにいると、一層大きく鳴いた。その視線は彼が持っている食物に注がれているようだった。
「あぁ、解ったよ。もっとくれって事か」
詩人は白いパンの端を千切って、なるべく遠くに放り投げた。〈それ〉は円い目を輝かせて、反対の壁際に落ちたパンを拾いに行った。一心不乱にむちゃむちゃと食べる様はなんだかゴミを漁るカラスのようにも、木の葉を貪る太った芋虫のようにも見えた。
食べ終わると〈それ〉は顔をこちらに向けてまた鳴いたが、今度は前ほどキーキー声ではなかった。鳴き声に併せて左右に体を揺らしてもいる。
「……礼のつもりかい。いいんだぜ、そんな」
詩人はふいと視線を遠くに逸らした。なんだか喉の奥がざわついていた。
と、〈それ〉が突然、ペタペタ歩いてドームの外へ出ていった。彼はちょっと安心した。あいつが飽きて外へ出てくれたなら幸いだ、俺も漸くこのちっぽけな牢獄から出られるというもの。そうほくそ笑んだ矢先に〈それ〉は見えた。大きな目は陽に当たったガラス玉みたいに煌めいている。振り返って穴から遠ざかる〈それ〉から、何故か詩人は目を離せなかった。
暫くすると〈それ〉は、ぽいんぽいんと左右に横っ跳びし始める。水たまりに足がつくと、淡い緑色に光る液体が跳ねた。時折くるくると一回転する様子も見られた。
地面につけられて発光した足跡は、ステップライトめいて〈それ〉を照らしている。
詩人は声も出せずに、この不可解なショーを眺めていた。
天からのシャワーの勢いは落ち着きこそしたが、まだ止むようには見えなかった。
漸く雨雲が撤収して、詩人は遣らずの雨から解放された。 ドームの外で踊っていた〈それ〉はいつの間にかいなくなったようだった。
詩人は体操座りをといて、しゃがんだまま細長い脚を片方ずつ伸ばした。ずっと同じ姿勢でいたから、筋肉に痺れるような痛みが走る。
「あー、痛ててて……やれやれ、これで宿に帰れるぞ」
凝った首をぐるりと回して空を見上げると、黒い夜が空いっぱいに広がっていた。さっきまでの雨は何処へやら、白や山吹色のキラキラでおめかししている。
詩人は満足気に宿へ向かって歩みを進めた。……今日の雨宿りの所為で、後に厄介事に巻き込まれるとは夢にも思わずに。
あの奇妙な雨宿りから数日、詩人は六弦琴を抱えて、陸橋の袂でじゃかじゃか掻き鳴らしていた。今まで不調だったのが嘘のようだ。雨で頭を冷やせたのか、今は詞も歌もすっきり生まれていく。
少々残念な事もあった。逃げた時の騒ぎでペンを無くしてしまったのだ。何年も前に買ってもう元は取れたとはいえ、その分彼の手に合うよう馴染んでもいた。遊び心で安く買ってつけた鈴も似合っていた。あんな書き心地の良くなったペンはそうそう手に入らないだろう。
もう一つ詩人の心にひっかき傷をつけたのは、〈それ〉の存在だった。
あの日地面についた緑色は大分薄れてきたにも拘らず、脳味噌の奥には〈それ〉の姿が尚の事こびりついていた。地上のどんな生き物とも似つかないように見えた〈それ〉。「恐ろしさ」のあまり誰からも見られなくなった〈それ〉。
あんなに警告されていた癖に、わかっている癖に、詩人は「また見てみたい」と思っていた。あの下手くそな踊りや黄緑にライトアップされた雨降る市街地を。彼はまるで開かずの部屋でも覗いたような、もやもやとした心地の悪さに陥っていた。