第一話
雨が降りだした時、
詩人は小奇麗な木のベンチで思索にふけっていた。
詩人は何ものにも縛られなかった。瓢箪型の六弦琴を担いで好きな所へ行き、好きな場所で寝泊まりした。好きな歌を歌い、日銭を稼いだ。旅の途中、好きな人間の元へふらりと顔を出す事もあった。
この日、詩人は泊まっていた宿を出て、散歩に出た。新しい詩のアイデアを必要としていたのである。昨日着いたばかりのこの町を見学するという目論見もあった。
案の定、ここには彼の脳細胞を刺激する物が山のようにあった。何かの始まりを予感させる薄暗い路地裏、広場で小冊子を配り、布教活動にいそしむ社会派団体――詩人は捕まる前に退散した――、木の車両を運び線路を走る列車……。ありきたりなものではあったが、彼はその一つ一つに意味を見出そうとしていた。
公園で木のベンチに腰掛け、手帳を開く。いつも歌詞や楽譜を書いておくためのものだ。そこに愛用のペンで言葉を書きつけていく。
紙の上に文字を刻みつける度に、ペンに結わえつけた鈴がちりちりと鳴った。星が輝く音みたいで、詩人は好きだった。
後はこれを詩にするだけだ。彼は手帳に書いた閃きの結晶を眺める。言い回しを変え、言葉を繰り返してみて、短文を作るのだ。
そうして一時間程手帳と睨めっこして、
「……駄目だ。アイデアは揃ってんのに、何も組み立てられねぇ」
詩人はがっくりと肩を落とした。彼の優秀な脳味噌には、この言語の洪水を処理しきる事は難しかったようだ。嫌になった詩人は、六弦琴のおさらいでもしようと、手帳のページを捲った。
突然、黄ばんだページに何かが落ちた。紙がふやけている。水滴だ。続いて、手の上に一滴。ジャケットに、ベンチに。町は雨水に侵入されつつあった。
彼の後ろで耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。ギョッとして振り向くと、男の子が泣いている。
「おかあさん、かえろ、はやくおうちかえろ」
男の子の他にも、パニックを起こしている人がいた。歯を鳴らし怯える者、汚物でも踏んだような顔をする者……。
「おい兄さん、そこのあんただよ、とっとと屋内に逃げろ!」
逃げる若者の一人に肩を叩かれ、詩人は急いで六弦琴を入れたケースを担ぎなおした。
雨が降った所為でこうなったってのか。だとしたらおかしな話だ。騒ぐ程の事でもねぇだろうに……。
そこまで考えて、ふと、ルームキーを預けた時、宿の支配人から言われた奇妙な言葉を思い出す。
「雨が降ったら直ぐに室内へお入りなさい」
(何を雨くらいで大騒ぎする必要があるってんだ)
戻ってきた宿屋のフロントで、詩人は上着を脱ぎ脱ぎ、窓の外を見る――が、窓は直ぐに鎧戸で閉じられてしまった。扉の前にも箒と椅子でバリケードが築かれた。店員達は「入れなかった奴はいないな?」「全員保護しました」と何やら話し合っている。
事を理解しかねた詩人は、ロビーに座っていた女性に声をかけた。
「つい昨日ここに来たばかりなんだが――こらぁどういう事だい、まるで核戦争の避難訓練だ。ここの雨にゃ毒でも混じってんのかい」
「毒は毒でも目の毒よ。これは条例なの。雨は何も悪くないけど、外に恐ろしいものが見えるから……」
恐ろしいものから身を守る為、雨が止むまで外に出てはいけないらしい。女性はぶるっと震え手で顔を覆った。よほど嫌な光景なのだろう。
詩人はやれやれと青息吐息。せめてもの時間つぶしにと、さっきの手帳を開いて詩の構想を練ることにした。しかしその間もずっと、「恐ろしいもの」の話が頭をぐるぐるめぐっていた。