第9話 帰る場所
9.帰る場所
仕事最後の日。朝行くのが憂鬱だ。送別会をしようと声が上がったらしいが、それも断った。最後の最後まで、部長との接点は避けたい。思ってもいない社交辞令も聞きたくない。部長から色々聞いている社員だって、本当のところどう思っているか 分からない。だから最後に『お世話になりました』とだけ挨拶をして、さらっと終わりにしたい。
そんな気の重い朝の電車。満員電車とも少しの間お別れかなと思うと、乗り込む時の気合も多少は湧いて来る。ドアが開いて、沢山の人がどっと溢れ出す中に、蒼太の姿がある。
「あ・・・」
「あ、どうも・・・おはようございます」
気まずい。しかもこれから満員の中に押し潰されながら一緒に乗る事を思うと、更に気が重たい。押し込まれる様に車内に乗り込むと、当然蒼太と近い。私は体を90度横に向けて、蒼太との気まずさを和らげた。昔朝一緒に通勤した当時は、満員電車の中でお互いが離れてしまわない様に腕を掴み合って乗ったものだ。それすら遠い昔の記憶だ。
「今日で、最後だね」
「はい」
「次、決まったの?」
「・・・まだですけど・・・少しゆっくりしようかなと思ってます」
田舎に帰ろうと思っていたのに、先日の拓磨からの突然の結婚話に、全てが曖昧で先行き不透明になってしまっていた。そんな言葉でごまかした私に、蒼太は聞いた。
「ワーキングホリデーは?」
「・・・多分、行かないと思います」
「じゃ、奈良に帰るの?」
「・・・・・・」
「こっちで再就職?」
「その辺も、色々話が来てるので迷ってます」
少し見栄を張って、そう答えた。満員電車はそうそう話している人は少ない。皆一人で乗っているからだろう。だから尚更、私達の会話が周りに筒抜けの様で落ち着かない。
少し間が空いて、再び蒼太がきっかけを作った。
「朝顔、ベランダに戻せた?」
「あぁ・・・あれ・・・枯らしちゃいました。ごめんなさい」
蒼太と朝顔市で一緒に買った物を、毎年種を取って 繰り返し育てて来た歴史も、先日終止符を打っていた。
「俺が中に入れちゃったから いけなかったんだね。ごめんね」
「いえ。あの日は風も凄かったし、多分あれで良かったんだと思います。私がずぼらだから・・・」
「朝顔も、終わりか・・・」
『朝顔も』と言った蒼太の言葉を耳がキャッチする。もう言葉が出ない。
電車を降りて、少し距離を空けて歩く。誰に会うか分からないからだ。改札に向かう途中、蒼太が言った。
「どこに行っても、元気で頑張ってよ」
私の胸がぎゅっと苦しくなって、朝とは思えない位悲しい気持ちになる。
「本当に、色々ありがとうございました」
私が頭を下げると、蒼太が言った。
「どっかでバッタリ見掛けたら、声掛けてよ」
そうだ。電話番号もメールアドレスも知らない。この駅にも多分来ない。そうなると、街で偶然会う等という事は、天文学的数字に値する確率だ。果たして本当にその瞬間が訪れた時、私は声を掛けるのだろうか。いささか疑問だ。きっと私を良く知る蒼太は、そんな事位分かって言っているのだろう。
改札を通ると同時に、私は言った。
「先輩、先行って下さい。私、コンビニ寄るんで」
ここからは別々に行きましょうという、いつもの私の手だ。
こうして最後の日が過ぎて行った。多分あれが、仕事以外で蒼太と話した最後だったと思う。
その晩、私は家に帰ってベランダに出る。枯れた朝顔がそのままだ。室内で水もあげずにしおれてしまって、何週間もしてからベランダに出して水をあげたが、もう戻らなかった。蒼太と自分を皮肉っている様で、複雑な心境になる。もうどうしようもないのだから、枯れた花を処分すればいいのに、なかなかそれが出来ない。
そんな事を考えているところへ、部屋の中から電話の着信音が聞こえてくる。
「お疲れ様」
拓磨だ。
「無事に最後の日、終わった?」
「うん」
この間拓磨に結婚話をされてから、正直やはり今までの様に出来ない。友達のまま、今まで通りって言われても、何もなかったみたいには出来ない。
「アパレル関係の仕事、またしたい?」
「どうかなぁ・・・。今はまだ良く分からないから、少し充電期間にしようかなと思ってる」
「それもいいかもね」
私は話しながらベランダに出て、夜空を見上げた。今日は月が雲に少し隠れている。
「土日、どっちか空いてる?」
「・・・・・・」
今までの様に即答できない自分がいる。拓磨と二人きりで会う事に、やはり少し躊躇してしまう。返事をすぐにしないから、私がそんな風に考えている事を拓磨が感じ取ったのか、少し笑った様に聞こえる。
「“もんじゃ しみず”一緒に手伝いに行かないかなと思って」
拓磨の実家のもんじゃ屋だ。
「実は親父が土曜日検査でさ」
「検査?どこか悪いの?」
「いや、前にした病気の経過観察で、一年に一回検査するんだけど、それから帰ってくると次の日一日疲れて寝ちゃうんだって。だけど土日は一番忙しいから、手伝いに来てってお袋から電話が来てさ」
それを聞いているうちに、気まずさも忘れかける。
「喜美ちゃんも、何もしないでいるよりは気分転換になるかなと思って」
拓磨に誘われ、店の手伝いに来てみると、想像以上に喜ばれる。
「喜美ちゃんまで来てくれて、助かるわ~」
まだ二回しか会った事がないのに『喜美ちゃん』と親し気に呼ばれ、嫌な気はしない。
「私、人使い荒いけど、悪く思わないでね」
あっはっはっはっはっと大きな口を開けて笑うから、全く嫌悪感はない。お父さんが居ない代わりに今日厨房に入るのはお母さんだ。拓磨と私が接客だ。初めての私は、主に運ぶ係だ。
「あれ?今日喜恵ちゃんは?」
客に喜恵ちゃんと呼ばれているのは、自称看板娘のお母さんだ。小さい店だから、それを厨房から聞きつけ大声で手を振ったりする。
「こっちにいるよ~!」
「今日旦那いないの?」
「検査の日だから」
常連客はお母さんにとっては家族みたいなものなのだろう。皆が色んな事を良く知っている。お母さんもそれを隠したりしない。開けっ広げで裏表がなく情に厚く、それでいて繊細なところもある・・・そんな所がきっと皆に可愛がられる所なのだろう。
店を閉めた後、お好み焼きの賄いを食べる。
「お疲れさん」
そう言って特別に出してくれた瓶ビールがグラスに注がれる。
「今日来てくれてありがとうね。助かったわぁ」
お母さんと一緒に私もそれを喉に流し込むと、疲れが一気に吹き飛ぶ気がする。しかし、拓磨はそれに口をつけない。
「あんた、今日うち泊まるんでしょ?ビール飲まないの?」
「喜美ちゃん、車で送ってくから」
「私、電車で大丈夫だよ」
「明日も本当に来てもらえるの?」
私が元気に返事をすると、その倍の笑顔が返ってくる。
「じゃ、うちに泊まんなさいよ。部屋空いてるし。また朝電車で来るの大変でしょ?」
思いがけない流れとなり、拓磨の実家に泊まる事になった私に戸惑いはあったものの、不思議と嫌ではなかった。夜も10時過ぎに店を閉めて、あの時間から片付けと掃除を済ませ、家に帰ってからは慌ただしくて ゆっくりする暇もない。きっとこんな毎日を夫婦で何十年と繰り返してきたのだろうと思う。同じ所へ向かっているから、自然と息を合わせる様になって、不協和音を奏でている暇がないのかもしれない。
そんな事を感じながら過ごした二日間の手伝いが終わる。夜の二時間程、お父さんも起きて来て、厨房で仕事が出来た。お父さんお手製の賄いが4人分テーブルに並ぶ間に、お母さんが封筒を私に差し出した。
「二日間ご苦労様でした。これ、少しだけどね、バイト代」
「え・・・頂けるんですか?」
「そりゃそうよ。ただだと、また今度頼みにくいじゃない」
そう言って、また あっはっはっと笑う。私は素直にその言葉が嬉しかった。また来てもいいよと言ってもらえる場所。いや、又是非来てねと言ってもらえた事が、何よりも嬉しかった。何か月ぶりかに味わう感覚だ。自分がそこにその瞬間居た事で、誰かの役に立ったのだから。
今日のビールは格別に美味しい。昨日も美味しかったが、今日はそれ以上だ。
「お父さん、お疲れになったでしょう?」
「いやいや。今日はね、ちょっと出てみようかなと思ってね」
「明日休みだしね」
お母さんが言った。労りの表情でお父さんを見ているのが分かる。
「こんな張り切って賄いまで作っちゃって」
またお母さんはあっはっはっと笑った。お父さんとお母さんが嬉しそうに笑っていると、やはり拓磨も嬉しそうだ。
「いいご家族ですね」
「喜美ちゃんは?ご実家、関西だっけ?」
「はい。奈良です」
「あら~、じゃぁなかなかご両親にも会えないわねぇ」
「もう、二人とも亡くなってしまってるので」
「あら・・・そうなの?まだお若かったでしょう?」
「そうですね・・・。父は三年前で、母は今年の7月なので、まだ生きてる様な気がする時があります」
「そうよねぇ」
ご飯を一口飲み込んでから、お母さんが言った。
「ねぇ、毎週土日うちに手伝いに来てくれない?土曜日はうち、泊まってけばいいわ」
拓磨も隣で私の反応を見ている。
「こうやって会ったのも何かの縁だしね。娘みたいなもんだから。そう思って気軽に来て」
嬉しかった。そんな風に言ってもらえる事が。急に安心感に包まれた様な心地だ。しかし、気になるのはやはり拓磨の事だった。先日言っていた流れにどんどんとなっていく気がして、このままのスピードにブレーキを掛けるのは、今からしないと という焦りも感じる。
「凄く、そう言って頂けて嬉しいです。ありがとうございます」
「来られそう?」
答えを急く拓磨がいる。当然だと思う。しかし、私の心は揺れていた。
「少し考えさせてもらっても・・・いいですか?」
無職の私は、その後の片付けまで手伝って、皆と一緒に店を後にする。拓磨の車で帰る事になる。車の中で流れるラジオを聴きながら、二人で時々ふふっと笑ったりする。知らない曲が流れ始めると、拓磨が二日間仕事した感想を聞いてくる。
「昨日今日と店手伝ってみて、どうだった?」
「楽しかった。ありがとう」
「へ~、じゃぁ良かった」
一気に安心した顔つきになる。
「だけど、いつも2人でやられてるんでしょ?すっごい大変だと思う」
「そうなんだよね。歳はどんどん取ってくからね。だけど、今はあれが生き甲斐やり甲斐になってて、元気の源らしいから」
二日間の両親の様子から、拓磨の言葉に納得が出来た。
「せっかくお母さんもあぁ言って下さったし、週末お手伝いに行かせてもらおうかなと思うんだけど・・・拓ちゃんは?」
「俺?」
私が色んな思いで質問したのが分かったのか、拓磨が私の方を見た。
「だって、一週間仕事して、土日もって・・・大変でしょ?あ、それとも私だけって事?」
運転しながら私の表情をもう一度確認してから言った。
「喜美ちゃん、一人でも平気?平気なら、俺は毎週は行かない」
「一人でも・・・平気」
私も慎重に返事をする。しかし、その答えを聞いて、拓磨がふふふと含み笑いをした。
「『一人のが気楽でいい』でしょ?」
「そんな風に思ってないよ」
「そう?」
又私の顔を見て、拓磨が笑った。
「なるべく二人きりにはなりたくないなって思ってない?」
図星だ。なんで分かってしまったのだろう。そんなに分かりやすいタイプではない筈なのに。言い当てておいて、その返事を待たないという事は、確信を持っているという事だ。私は無駄な抵抗をやめる事にして、喉元まで出掛かった言い訳を飲み込んだ。
「だって・・・やっぱ、何もなかったみたいには出来ないよ」
「だよね」
拓磨が笑った。やはり遺伝子だ。お母さんの笑い方と少し似ている。
「俺も」
そう付け足して、更に大きな声で笑った。胸に引っ掛かっていた事を話したからか、それとも拓磨も同じ様に感じていたからか、はたまた それを拓磨が笑い飛ばしてくれたからか、気まずさが一気に吹き飛んで 私の胸が軽くなる。
「でも、きっとその内慣れるよ」
楽天的なその発想が、今の私には丁度いい。
こうして私は毎週末、“もんじゃ しみず”にアルバイトに通う事になったのだった。