第7話 答え
7.答え
結局実家から一緒に東京に戻ってきた私と蒼太は、『また明日会社で』と言って別れた。その最後に蒼太が一言だけ残した言葉が、ずっと心に重く残っている。
『いつ頃・・・返事もらえるかな?』
当然私はその場で即答なんか出来なかった。いつまでには・・・なんて言ってしまうのは自分の首を絞める行為だ。とても怖くて出来ない。
私の複雑な想いを知る由もなく、夜に拓磨からメッセージが届く。
『この前の奈良に出店予定のオーナーの話、本気だったら一度会いたいってさ』
そうだ。この事も中途半端になったままだ。色んな人を巻き込んでいる。色んな選択肢がある事を教えてくれた拓磨に、救われたのも事実だ。
「今日は、お酒抜きで話したいんだけど・・・」
そう私が提案して、拓磨と二人デパートの屋上庭園を訪れる。夜でも9時までは解放しているらしい。仕事の後で都合をつけて来た拓磨が、ベンチに座って足を組んだ。
「迷ってる?」
拓磨がにっこり笑いながら言うから、答えをせっつかれている様には感じさせない。
「超深刻な相談」
そう言われても、拓磨は変わらない様子でじっと構えている。
「まず・・・」
私はそう言って息を大きく吸った。
「実家、処分する事に決まった」
「・・・そうか・・・」
私が何か言いたげだと察したのか、拓磨がそれを引き出した。
「大丈夫なの?それで。納得してる?」
「・・・うん」
「じゃ・・・田舎に帰る件は、これで無しかな?」
私は首を横に振った。
「実家は無くなっても、あっち帰って一人暮らししてもいいなって」
「あ~、なるほど」
納得した後で、拓磨がにっこり笑った。
「じゃ、二択?」
「いや・・・三択」
「おっと!もう一個新しい選択肢増えたって事?いいねぇ。引く手あまた」
茶化す拓磨を、私は冗談半分に睨んだ。拓磨は敬礼をして、もう一度真面目に聞きます合図を出す。
「一個はワーホリ、二個目は奈良で一人暮らし。もう一個は?」
「・・・元カレに・・・」
「プロポーズされた?」
「なんで?!」
そう言う私の顔を見て、拓磨はそれが当たっている事を確信した様子だ。
「待って。ちょっと整理するけど、元々二年前には 何で別れちゃったの?」
「母の認知症が進み始めて・・・施設に入れるとか誰が看るとかって話になって・・・これは長期戦なんだって思ったの。母もまだ若かったし。だから、結婚しちゃったら もう田舎に戻ってくる事は出来ないし、もちろん母を引き取る事も出来なくなる。だから・・・」
拓磨は静かにゆっくりと相槌を打つ。
「男には無い感覚だな・・・。女の子はそういう事も考えたりするんだね。で、当時彼はそれで納得したの?」
私は首を傾げた。
「その理由は言ってない。今は仕事に打ち込みたいからって、そう言ったの」
「・・・じゃ、彼はこの2年、喜美ちゃんのタイミングを待っててくれたんだ?」
「・・・・・・」
私のタイミングを待っていた・・・?いや、確かに蒼太には、別れた後もずっと職場の先輩としての丁度いい距離感で見守られてきた感はある。でもだからといって、私の仕事への情熱が薄れるタイミングを待っていたのかと問われたら、きっとNOだ。そして拓磨はまた質問を投げた。
「喜美ちゃんは、もう好きじゃないの?」
「・・・・・・」
「ん?」
一番肝心な所で、拓磨は私の顔を覗き込んだ。
「迷ってる理由は・・・何なんだ・・・?」
自分でも整理のつかない気持ちを、初めて言葉に出してみる。
「もう田舎にも帰りたくて・・・でも 彼と結婚するって事は、こっちに住み続けるって事だし・・・」
「そうかぁ・・・そうだよね」
言葉にして自分の中から出してみると、自分の根っこにある本音がほんの少し垣間見える気がする。
「何を一番大事にしたい事なのかが、分からないんだね、きっと私」
拓磨の表情も いつの間にか変わり始め、眉間に皺すら寄せる程の真剣な顔つきになっていた。
「今の環境から飛び出すには 身を置く場所を変えるのが一番手っ取り早いとは思うんだけど、今の喜美ちゃんは 職場を辞めるだけでも充分大きな一歩だよ。ましてや結婚したら 特に女の人は相当環境が変わるでしょ。苗字も変わるし、義理の親兄弟や親せきも増えて。奥さんとしての生活が始まれば 今とは全く別世界に行けるんじゃない?」
私の中に少しずつ、結婚した後の暮らしが想像出来てくる。最後に一つ、胸の奥に引っ掛かっている言葉も口にしてみる。
「これって・・・逃げる事になるのかな・・・?」
拓磨は私に冷やかす様な笑顔を向けた。
「彼の事、好きじゃないのに利用するならね」
また一つ、私の中の鎖が解ける。
「田舎には時々帰ればいいんだしさ」
一枚一枚心の殻が徐々に剥がれていく気がする。そんな僅かな表情の変化に拓磨が気付く。
「絞れてきたみたいだね」
「・・・でも、不安」
「何が不安なの?好きな人と結婚できるのに」
「本当に、返事しちゃっていいのかなって・・・」
「長い付き合いで良く知ってる相手なんでしょ?」
「そうだけど・・・」
「まぁ・・・結婚って勇気いるよね?男も女もさ」
「うん、かなりいる。勢いじゃ 出来ないし」
「既婚者組に聞いてみるか?結婚に踏み切った理由とやらを」
「やだ~!」
「聞いたらきっと、どれも些細な理由だと思うよ」
屋上から見る空は、普段とは格段に違う。普段見えている高い建物や雑踏に邪魔されず、空だけが見える。今日は月が綺麗に見える晩だ。このままの勢いで、蒼太の家に訪ねて行って返事をしてしまってもいい様な気にさせる。
帰りの電車に揺られ、私も少し冷静になった。もう一日、落ち着いて考えてみよう。そして気持ちに覚悟をつけてから、返事をしよう と。
翌朝 営業部に出勤すると、何やら部内が盛り上がっている。営業部5年目の女性社員栗原が結婚するらしい。その発表を受けて、朝から皆でお祝いムードになっている様子だ。
「すみません、皆さん!披露宴には部長と主任位しかお呼びできないんですけど、二次会の方、計画宜しくお願いしますっ!」
「あ~そういうのは、お祭り部長の安田の出番だわ」
指名を受けた安田は、お調子者らしく両手を上げてやる気満々のアピールをしてみせる。
「あっ!ご祝儀はいつでも受け付けてますので~!」
明るい性格の栗原が、調子に乗ってそう言うと、わっと笑いが起こる。
「披露宴では、部長にビシッとカッコいい挨拶お願いしますよ」
栗原のこんなざっくばらんな性格で、営業成績も上々の優良社員だ。そんな事を言われ、目立ちたがり屋の部長はまんざらでもない顔をしている。
そんな皆のやり取りを遠巻きに聞きながら、ふと私の心が立ち止まる。披露宴のスピーチ・・・。蒼太の直属の上司である営業部長は、ここに勤めている以上 切っても切れない関係だ。義理を立て切らなければならない相手とも言える。もし私が蒼太と結婚するなら・・・。もうそれ以上想像しなくても、充分過ぎる程分かる。私が部長と和解しない限り、言い換えるなら、私が部長へのわだかまりを解かない限り、蒼太との結婚はありえないという事だ。それに気が付いてしまった私は、昨夜からの気持ちから一転して暗黒の雲に覆われた。
田舎から蒼太と一緒に帰ってきた日から、やはり少し私の様子を彼が気にしているのを感じる。いつ返事をするかもはっきりしなかったから、余計だろう。でも、これ以上蒼太を惑わせるのは良くない。私は今夜仕事の後の時間に決戦を定めた。
「今夜、時間ありますか?」
外回りに出ようと営業部を出たところの蒼太をつかまえる。私のこの言い方で、蒼太も察した様子だ。いい返事なのか悪い返事なのか、私の目の奥を読み取ろうとしている様にも感じる。
「わかった。どこ?」
「・・・どこでも」
「外で待ち合わせすると、この間みたいになる可能性あるからなぁ」
「・・・私はそれでも大丈夫です」
少し考えてから、蒼太はそれを飲み込んだ。
「じゃ、駅の改札で」
「・・・改札?」
「そ。改札」
時間通りに、私は蒼太と改札で会う。心臓が爆音で脈打っていて、今までこんな緊張味わった事ない位だ。
「先に行きたい所、あるからさ」
それがどこか気にはなるが、正直そんな事どうでもいい程テンパっている。会社や学校帰りの電車は適度に混んでいて、立って吊革に並んでつかまっているこの光景が、以前一緒に通勤したり帰ったりした当時を思い出させた。無言で電車に揺られている私だったが、当時と今の二人の距離がかえって悲しくさせた。時々蒼太が私に話しかけてくれるのだが、相槌だけでそこから話が広がらない。そのうち、蒼太も話をやめた。
本当に黙ったまま電車に運ばれ、蒼太に案内されて着いたのは、初めて二人でデートした水族館だった。当時は確か日曜の昼間に訪れたが、今はナイトアクアリウムといって夜も営業している。イルカのショーはやっていないが、館内の照明がとても幻想的に演出されている。順番に水槽を見て回り、時々笑顔で話し掛けてくる蒼太に当時の映像が重なる。あの時は初めてのデートで、初々しいドキドキを抱えていた私が、今心にしまってある答えは・・・。そう思うと、悲しくてこの状況に涙が溢れてきそうになる。今でも蒼太の事は好きなのに、職場の上司との関係を思うと思い切れない。大きなハードルだ。夫の上司と良い人間関係を築けないのだから、私はやはりふさわしくないのだと思う。
壁一面が大きな水槽になっていて、中には色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。隣にはクラゲの水槽がライトアップされている。そこに並んだベンチに腰を下ろす。
「覚えてる?ここ」
「うん」
「昼間と全然違うね」
「うん」
私の様子がずっと変なのは、とっくに気が付いてる筈だ。
「喜美がさ、奈良は海が無かったから水族館行ってみたいって言ったんだよね」
当時を懐かしんで少し笑ってみたりする蒼太。
「なんで、今日ここに来たの?」
私がそう尋ねると、蒼太は少し答えに時間を掛けた。
「・・・なんでかな。・・・朝喜美の顔見てたら、急に来たくなった」
胸が痛い。しびれる様に痛い。7年前の私だったら、きっとこんな言葉に喜びも頂点に達している事だろう。そんな風に思ったら、涙が込み上げてきてしまって、私はトイレへと逃げ込んだ。
満身創痍でトイレから戻ると、蒼太がにっこり笑顔を向けた。一体どういう意味だろう。分からないまま、私は又椅子に座った。すると、私が深呼吸をする前に、蒼太が先を越した。
「あの返事、今日するつもりなんだよね?」
「・・・うん」
かすれて聞こえなかったかもしれないと思う程の小さな声が漏れた。周りには誰も居ない。話すのには丁度良いタイミングの筈だ。しかし実際口から言葉にして出すのには、もう一つ深呼吸をしてからでないと無理そうだ。私はゆっくりと息を大きく吸い込んだ。それを見て、蒼太が言った。
「ごめんね。喜美のが辛いよね」
私のこれからする返事の内容をまるで知っている様な言い方だ。
「まず・・・」
声が震えていた。自分でも驚きだ。一度唾を飲み込んでから、もう一つ言葉を出した。
「ありがとう」
そして、私はもう一度深呼吸をした。
「で・・・」
言葉がぶつ切りになる。
「もう一度真剣に考えたけど・・・やっぱり・・・ごめんなさい」
言い終わってすぐに頭を下げたから、蒼太の様子は分からない。
「・・・嬉しかったけど・・・」
「う~ん・・・そうかぁ・・」
横からため息が聞こえる。この感情をどこにぶつけていいか分からないのだろう。
「もし断られても、男らしく潔くって思ってたんだけど・・・難しいな」
笑ってみせる蒼太。
「なんで?とか、絶対ダメ?とか、格好悪い事いっぱい言いたくなる」
そんな正直な気持ちを言葉にされたら、胸が引き裂かれる様だ。
「もう一回、真剣に考えてくれて ありがとう」
何で?と聞かれたら困ると思う私と、聞いて欲しい私の両方が存在していた。好きなのに この先も一緒にいない事を選んだ自分に、果たして後悔しないか自信はない。
「行こっか」
そう声を掛けて私の様子を窺っている蒼太。歩き始めて、言葉を足した。
「今まで通り何も変わってないんだから、これからも同じ様に 変わらずに、ね」
「・・・・・・」
「俺が変わんなければ、喜美も変わらずにいられるよね?」
「・・・・・・」
返事のない私を、蒼太が心配そうに隣から覗き込んだ。
「田舎帰るの?」
「・・・多分」
「・・・そう」
そう呟いた後の溜め息を、私の耳がキャッチしていた。
「会えなくなっちゃうね、もう・・・」
蒼太は自分でそう言って自分で笑った。
「その為に田舎に戻るのか・・・」
蒼太の話す一言一言が悲しい。でも自分で決めた以上、そんな後戻りな素振りは禁物だ。
駅前の中華屋で冷やし中華を食べている間も、会話に乏しい。蒼太とこうして一緒に食事をする事も もうないと思うと、外回りの合間に共に飲み食いした事が懐かしい。一つの物をつつき合ったのも、何故かもう遠い昔の記憶みたいだ。二人で一皿の餃子を分け合っているのも、これで本当に最後だと思うと、喉を通らない。5つ乗った餃子を早々と2つ食べた蒼太が言った。
「喜美、3つ食べていいよ」
私は頭を振った。気を使わせない様な気の利いた言葉を掛けたかったが、声が詰まって喋れない。
「いい」
そうとだけ言って、私は首を横に振り続けた。
店を出ると、蒼太が言った。
「ごめんね。もっと明るく飯食えたら良かったんだけど」
私はまた首を横に振った。
電車の中では、蒼太がしきりに明るい話題を提供する。そんなに気を使わなくていいのにと、悲しい気持ちになりながら それに相槌を返す。
そしてとうとう先に私が下りる時がやってくる。
「色々と・・・ありがとうございました」
私は深くお辞儀をして、もう蒼太の顔を見られる余裕はなかった。電車を降りたホームで、私は本当に久し振りに 電車の中の蒼太を見送る事にした。ドアが閉まるチャイムが鳴り響き、蒼太と私の間に鉄のドアが割り込んだ。そっと手を振ってみる。蒼太もそれに応えた。まるで2年前の二人の様だった。