第6話 墓参り
6.墓参り
今日もいつも通り営業部内で仕事をこなす私の中に、やはり先日の蒼太の言葉が引っ掛かる。
『会社辞めるって逃げなんじゃない?』
そんな時、拓磨からメッセージが入る。
『仕事でまた近くに来てるんだけど、終わったら会える?』
先日来たビアガーデンを再び訪れる。
「一つ良い話、持って来たよ」
「何?」
「俺の担当エリア内のフランチャイズ店舗の店長さんがさ、関西にも店舗展開考えてるらしくて、その候補地として奈良が上がってんだよ。ま、ほぼほぼ実現に向けて動き始める段階まで来てるらしいんだけど、そこ喜美ちゃんに紹介できるかも」
私の心が少し動く。
「アパレルの営業やってた子がいるって話したら、そういう即戦力になるような人欲しいなぁって」
少しばかり私の心が上向きになる。
「海外って・・・やっぱハードル高いじゃない?だけど、田舎の実家に戻りたいっていう気持ちも、ここなら叶えられるかなって」
「ありがとう」
「お兄さんには、もう話したの?」
私は弱く一回首を振った。
「私の気持ちがまとまんなくって・・・」
「田舎に帰るか、海外に行くかって事?」
「・・・も、そうだし・・・」
ジョッキに掛けていた手を、私は一旦離した。
「このまんま会社辞めたら、逃げになるんじゃないかって・・・」
「・・・誰かに言われたの?」
「・・・・・・」
「部長さん?」
私は首を振った。
「もしかして、この間会った先輩って人?」
「・・・んん、まあ」
「元カレか・・・」
私はビールを一口飲んで間を繋いだ。
「彼は、喜美ちゃんに辞めて欲しくないのかな」
「そういうんじゃないと思う。ただ・・・それが本当に私自身の今後の為になるのかって・・・」
「喜美ちゃんはどうなの?実際、自分でもそう思う?」
「・・・逃げって言われちゃえば、確かにそうだけど、向き合って解決していこうとは、もう思えないし」
「だよね?だったら俺は全然、今は先に進む事の方が大事だと思う。きっと先でもまた壁はあるよ。でもさ、その時に 今より少し元気になってる自分で超えたらいいと思うんだ」
私からふっと笑いがこぼれた。
「拓ちゃんに言われると、不思議とそうだよなって思える。なんでだろう」
拓磨は嬉しそうに笑った。
母の四十九日の法要をお寺で済ませ、無事に納骨も終えた日の夕方、実家の居間に兄夫婦と私が向かい合った。
「前にも話した、ここを処分するって話なんやけど」
急に空気が重たくなる。
「異存がなければ、すぐ査定の業者に入ってもらうんやけど・・・」
「あのな・・・」
そう言ってから、私はその重たい空気を押し上げる様に、息を大きく吸った。
「まだ決めた訳やないねんけど・・・戻って来ようかなって・・・」
「ここに?!」
「ここにはお父さんとかお母さんの思い出も残っとるし・・・」
私は恐る恐る兄の顔色を見ようとすると、最後まで言い終える前に兄が声を強めた。
「そうなったら、ここお前の名義になって、建て替えとか自分で全部やるんやで?」
私は声を詰まらせた。
「第一、お袋が認知症になり始めた時、仕事があるから戻って来られへんって言ってたのお前やで?今になって戻るって、どういう事なん?」
「あん時は、仕事が波に乗っとったし、やり掛けとる事も抱えててん・・・。お母さんにはほんま悪い事したなって思うてる。そやけど、今は仕事が落ち着いて・・・転職を考えとってん・・・」
「・・・・・・」
兄が黙るが、少し貧乏ゆすりをしているあたり、イラついているのが分かる。その隣でさつきが雰囲気が悪くなるのを何とか止めようと、ハラハラしているのも分かる。
「別に名義はお兄ちゃんのままでいいんやけど・・・」
「そないなると、俺の税金が高くなるんやけど」
「あ・・・そうなんや。そな、別に何でもいいんやけど・・・」
また兄のかいているあぐらが、揺れる。
「処分した後の事、何か予定あったん?」
私は率直に聞いてみる事にしたのだ。すると兄とさつきは顔を見合わせた。
「うちも今賃貸マンションやで、子供もおるし 先の事考えて分譲マンションに引っ越そう思うとってん」
縁側からは、3人の子供が汗だくになって、手入れの行き届かない庭できゃっきゃ言いながら遊んでいる姿が見える。
「そやね。そない目的があるんやったら、そないして。私は別に大丈夫やから」
さつきが私の顔色を窺っているのが分かる。
「さっきのは、ほんま・・・何もプランが無いんやったらって話やから」
私の笑顔が建前だって気づかれる前に、私は兄嫁から目を逸らした。
「喜美ちゃんも・・・寂しいねんな。ここは家族の思い出が詰まっとるんやろうし」
「ほんま、ほんま。気にせんといてや」
兄家族が実家の車庫に停めた車に乗り込む。助手席のさつきが、ウィンドウを下げながら 玄関の鍵を閉めた私に声を掛けた。
「これから東京に戻るの大変やね。泊まってけばええのに」
私は再び建前の笑顔を作る。
「明日、あっちで用事あんねん」
納得した顔でさつきが頷くと、今度は兄が運転席から頭をかがめて外の私と目を合わせた。
「処分の方向で動き始めるで、取り壊しとか また連絡するで、それまでに荷物の整理頼んでええか?」
私は最後、甥っ子達に満面の笑みを浮かべ 車が見えなくなるまで両手で手を振って見送った。
月曜日、朝出社すると、珍しく蒼太が喫煙所で私が通るのを待って声を掛ける。最近では外回りへ強引に連れ出す事もなくなり、昼食を誘ってくる事もなくなっていた。先日のTシャツと靴下の洗濯物を袋に入れてデスクに置いておいた後も、何も言っては来なかった。きっと呆れてるのだろう。やる気もないのに時間だけ ただ浪費し、このまま辞めていく事も逃げになるんじゃないかって言ってくれた忠告にさえも反論した私に、もう何を言っても無駄だと思ったに違いない。そんな蒼太が久し振りに、私を呼び止めた。
「無事に納骨、済んだ?」
覚えていたのだ。母の四十九日の法要が9月の最初の土曜日だという事を。
「はい」
私は固い表情で返事をした。
「これでお母さんも、落ち着いたね」
「・・・はい」
煙草の箱を胸ポケットにしまいながら、蒼太が聞いた。
「家の事、お兄さんに話してきたの?」
「・・・はい」
暫く待ってもそれ以上何も言わない私に、蒼太が具体的な内容を催促した。
「で、どうなったの?」
「・・・処分する事に決まりました」
「え・・・っ?!じゃあ・・・」
それ以上に話を聞かれても、まだ私の気持ちの整理が出来ていない。だから私はそこで話を遮った。
「もう、いいですか?行かないと、遅刻になっちゃうんで」
蒼太がもっとその後を聞きたそうな顔をしていたが、私はそれに気が付かないふりをして、軽く会釈をして彼の前から去った。
こういう話の終わり方をすると、今までは決まって次の機会を作ってくるのが蒼太だ。しかし、その後も次の日も、顔を合わせても彼からは何も言っては来なかった。
先日の急な夕立の日、蒼太がベランダから取り込んでくれた朝顔のプランターが、まだ部屋の窓際に置かれたままだ。きっと水も乾いて、持てば持てない事は無いのだろう。しかし後回しになっていた。室内で水もあげない朝顔は、当然の如く 葉にも花にも元気がない。しおれかけた朝顔を見ては、自分と重ねるのだった。約二年ぶりに部屋に入って過ごした蒼太の残像が、何故か今になって私を悲しくさせていた。こんな事なら、やはり拓磨の言う様に 思い切って海外に飛び出してみようかと、再び気持ちも揺れる。それとも両親の思い出の残る田舎に帰って、一人暮らしでもしてみようか。私はその迷いを胸に、今日も昨日と何ら変わりない一日を終えるのだった。
次の日朝の通勤電車から降りると、改札を通過した辺りで後ろから声がする。
「おはよ」
蒼太だ。同じ電車だったようだ。私は思わず目を逸らして挨拶を返した。すると、次に言った蒼太の言葉に、私は顔を上げた。
「お墓参り、行かせてもらいたいんだけど」
私が何も返事をしないから、蒼太が続きを喋った。
「いつなら、平気?」
「・・・いつって・・・」
「週末。いつなら行けそう?」
「・・・本気ですか?」
「冗談で言う事じゃないでしょ?もちろん本気だよ。前から言ってたよね?」
「・・・私はいつでも大丈夫です」
すると蒼太は、手帳も見ずに言った。
「じゃ、今度の土曜は?」
「・・・分かりました。ありがとうございます」
「じゃ・・・何時の新幹線かな・・・」
私は表情を変えないまま言った。
「京都で待ち合わせで。その後の近鉄からはご案内しますので」
隣の蒼太が何か言いたげな事位察していたが、私は能面の顔で貫き通した。
京都駅の1時の待ち合わせめがけて来ると、同じ新幹線になるに決まっている。だから私はあえて一本早いのぞみに乗って京都に到着した。近鉄にだって30分以上乗るのだ。気まずい時間はなるべく短い方がいい。そんな事を思って京都待ち合わせにしたのだが、ふと蒼太の言葉が頭をよぎる。
『それって『逃げ』なんじゃない?』
やはり私は、嫌な事を避けて通ろうとしているのかもしれない。辛い事が自分を成長させてくれるって頭では分かっているのに、立ち向かっていく力を出さずに自分で自分を必死に守る事ばかりにエネルギーを費やしてきたこの頃の様に思う。母の荷物整理だってそうだ。母の居なくなった現実を受け入れたくない自分がいるからだ。元気だった頃の母を思い出して、胸が掴まれるような苦しさから逃げていたのかもしれない。
近鉄の改札の前で待ちながら そんな思いにふけっていると、蒼太が現れる。スーツ姿じゃない蒼太が、なんだか初々しく感じる。
「今日は・・・こんな遠くまでわざわざありがとうございます」
私は頭を深く下げた。
都内の電車に乗り慣れていると、近鉄電車がレトロに感じる。私はそんな所も懐かしく感じながら、会話のない車内の時間を過ごす。蒼太が長い沈黙を破った。
「実家、処分する事に決まったって・・・。喜美、どうするの?」
「まだ分かりません」
そこで蒼太がちょっと笑いながら、私の方を見た。
「なんで会社じゃないのに、そんな話し方なの?」
自分でもわからない。無意識に距離を置こうとしているからかもしれない。でも説明なんか出来ない。答えない私に、蒼太が諦めた。
「まぁ、いいや」
そう仕切り直して、話を続けた。
「この間は、実家に入れたの?」
「・・・お兄ちゃん家族も一緒だったから」
「荷物の整理は、お兄さんとかその嫁さんとか 誰か一緒にやってくれそう?」
私は首を横に振った。家も 中の荷物も全てがなくなるのだ。その覚悟も決められないのに、どうやって一人で整理しろというのだ。そんな心の叫びが、一人虚しく声にならない声でこだまする。
駅からお墓まで、まだまだ真夏の様な残暑の暑さいっぱいの中、二人は無言で歩いた。暑いから、余計な言葉も出ない。日傘を差していても、なかなか手強い暑さだ。しかし都内の様なアスファルトからの照り返しの暑さはない。土や草の青臭い香りをかぎながら、息を切らして歩く私に蒼太が聞いた。
「前も、この道通った?」
「・・・前は実家に先に寄ってからだったから」
「やっぱりね。道、見覚え無いなと思って」
蒼太は方向感覚が良い。一度通った道は、案外覚えている。
小さな墓地の一角の磯山家の墓の前に来ると、先週の法要の時の花がもうしおれていた。私が花を片付けている間に、蒼太が墓に水を掛けて掃除をした。新しく買った花と線香と、蒼太の持って来た八海山の四合瓶を供えて、私が一息つくと、まず先に蒼太が手を合わせた。随分長い間、蒼太はじっと座って手を合わせていた。私が目を開けてもまだ、蒼太は手を合わせている。一体何を話しているのだろうと、蒼太の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、2年前母と一緒に三人で墓参りに来た時の光景が思い出されてしまう。ついこの間の事の様に思う。あの時は元気でここにいたのに、もう今はこの重たい石の下に入っているのだと思うと、やはりまだその現実を受け止めきれない自分がいる。一体いつになったら私は、母の死を受け入れられるのだろう。
ようやく目を開けた蒼太が鞄からおちょこを出して墓前に置くと、供えた日本酒の口を開けた。並々とそこに注いだ後、もう一つのおちょこにも八海山を注いだ。墓前に供えたおちょこの縁に軽く当てて乾杯の素振りをしては、一気に飲み干した。そして蒼太は独り言の様に呟いた。
「ごめんね、お母さん。約束、守れなかったです」
それを半歩後ろから見ていた私の瞳からは、一すじ涙がこぼれた。
「幸せにしたかったんだけどなぁ・・・」
蒼太の声も苦しそうだ。
「器が足りなかったみたいです。ごめんなさい」
蒼太はそう言ったまま、またしゃがみ込んだ。もう一杯日本酒を注ぐと、それをもう一度ぐっと飲み干して、暫く首をうなだれた。
何も声を掛けられない時間が過ぎる。夏の日差しは強いけれど、高台に吹き抜けていく風が少し爽やかにさえ感じさせる。一旦風が止んだ後、墓石の後ろに植えてある木がカサカサと葉の音を立てた。私はその不思議なタイミングに母を勝手に感じていると、同じ様に蒼太も顔を上げた。
「お母さん、返事してくれたね」
そう言って振り返った蒼太の目が、少し潤んでいた。
「お母さん・・・ここにいるんだ・・・」
思わず私もそう呟く。その途端、私の涙腺が急に緩んでしまって、後から後から零れ落ちる涙を止める事は出来なかった。突っ立ったまま顔を両手で覆って声を殺してしゃくり上げる私の背中を、気づいたら蒼太がさすってくれていた。
暫く見えない母を感じる時が流れいくと、蒼太が声を掛けた。
「喜美も飲んだら?お母さんと」
そう言っておちょこを差し出した。受け取ったおちょこに蒼太が八海山を注いだ。私がゆっくりとそれに口をつけて飲むと、蒼太が急に声を上げた。
「そうだ!忘れてた!」
鞄の中から慌てて取り出したのは、鰻の蒲焼だった。
「あっ・・・」
私もそう思わず声を漏らしてしまう。
「お母さん、食べたかったんだよね」
蒼太が覚えていてくれた事が嬉しい。
「喜美も持ってくるかなって思ったんだけど・・・ここの美味しい鰻だから」
「私、忘れてた」
「まったく。親不孝娘!」
蒼太は軽く私の頭をど突いた。私と蒼太に、笑いと涙が混じる。
お墓を後にすると、蒼太が聞いた。
「喜美は、今日実家に泊まるの?」
「・・・一人じゃ・・・」
「・・・一緒に行こうか?」
蒼太がそう言ってくれた事で、正直心強く思う。
お墓から実家は歩いて5分位だ。高台からひたすら降りたら、実家がある。歩きながら、私は聞いた。
「今日は、何時まで大丈夫?」
「別に・・・」
「新幹線の切符、まだ買ってない?」
そこで蒼太が驚いた顔を向けた。
「俺、今日日帰りじゃないよ」
「え?!そうなの?」
「奈良まで来たのに、日帰りで追い帰すの?」
「え・・・じゃ、どこに泊まるの?」
「まだ何も考えてないけど・・・。どっかあるでしょ」
蒼太は意外とそういうところがある。行き当たりばったりでも生きていけるタイプだ。でも、付き合っていた時、それで困った事もなかったから不思議だ。綿密に計画を立てない割に、運がいい。色んな所での巡り合わせやタイミングに恵まれる人だ。計画しててもここまで出来ない様な、そんな事の繰り返しだった様に思う。だから彼といると、楽で且つ楽しくて有意義だったのだろう。
坂を下り切って実家の門の前で立ち止まる。私の少し緊張気味の顔とは裏腹に、蒼太が朗らかな声を出す。
「懐かしいなぁ」
なかなか門を開けられない私の背中に、蒼太がポンと手を触れた。
「大丈夫。お母さん、一緒に来てるよ」
鍵を開けて入る玄関に、私は緊張を高める。先週も来たばかりの筈の場所だが、し~んと静まり返った家は、やはり違う場所の様に感じる。大きく深呼吸してから家の中に入る。蒼太は、以前に来た時に過ごした居間を見回すと、言った。
「変わってないね」
母と座って日本酒を酌み交わした場所にあぐらをかいて座ると、蒼太は目を瞑った。
「今日、来て良かった」
しみじみとそう話す蒼太に、私もお礼を言った。
「・・・ありがとう」
昔と同じ場所に座って、お墓から持って帰ってきた日本酒と鰻を並べて、蒼太は母のおちょこと乾杯をした。会話は特別何もない。でも、何もなくても手持無沙汰ではなかった。それぞれが心の中の母と、会話をしていたからだろうか。
四合瓶が空になったのを見届けると、私は立ち上がった。
「お母さんの部屋・・・行ってみる」
蒼太は少し心配そうな面持ちで私を見上げた。
「・・・一緒に行こうか?」
迷ったが、私は頭を横に振るった。
「一人で・・・行ってみる」
母の部屋に入るのは、久し振りだ。亡くなってからは一度も入っていない。葬儀の時に必要な物は、全て兄夫婦が準備してくれたからだ。がらんとして何の音もしない部屋に、一度は押し潰されそうになるが、私は目を瞑ってそれをやり過ごす。私は勇気を出して、押入れを開けて中の物に目を通す。今なら出来る様な気がしたのだ。蒼太がいるから。下では蒼太が居てくれるから、力が湧いてきたのだ。
30分なのか一時間なのか、母の荷物を整理していると出て来た何冊かのノートを持って、私は下の蒼太の所へ降りて行った。
「これ・・・」
「何?」
私は蒼太の向かい側に座って、それを差し出した。すると、蒼太がそれをペラペラっとめくった。
「・・・日記か・・・」
そう分かった蒼太が、一番最初のページから開こうとするので、私は両手でそれを止めた。
「待って!」
そして大きく深呼吸してから言った。
「私は・・・いいや」
すると蒼太はそのノートをぱたんと閉じた。
「じゃ、持って帰りな。読める様になったら、読めばいいよ」
それでも私は頷くことが出来なかった。
「・・・読んでみて」
「俺が?」
「・・・私は、もう少し上整理してくる」
「・・・俺が読んでいいの?」
私は黙って頷くと階段をまた上がって行った。母はきっと蒼太に読まれても嫌じゃないと思ったのだ。母は蒼太をとても気に入っていたから。
置いて行かれた日記の内の一冊を開くと、蒼太が初めて目にする母の筆跡がある。小柄でいつもにこにこしていた人柄をそのまま思わせる様な字体に、母の面影が蒼太の中にも蘇る。それは3年前 連れ合いを失った頃からの物だった。いつも寄り添って生きて来た相手が、急にこの世から姿を消してしまった事へのやるせない気持ちが毎日毎日、綴られていた。
『定年後はああしよう こうしようと話してた内容が、今では果たされん約束として 悲しいだけの思い出になってしまった』
というフレーズに、蒼太も胸が痛む。そんな、当時私から聞いていた母の様子よりも遥かに深く塞ぎ込んでいた様子が、日記には綴られていた。そんな時に娘の喜美が金子蒼太という彼を連れて来た日の事が書かれていた。
『今日は喜美が素敵な青年を連れて帰ってきた。なんでも、結婚を前提にお付き合いしてるのだという。お父さんが生きとったら、どんな顔したかしらと思いながら彼と話をしたけど、なんとまあ 素敵な好青年で安心した。喜美にはきっとああいうゆったりとした人が合うんやと思う。ちょっと、お父さんと出会った時の事を思い出してしまって、恥ずかしくなったけど、それ位お父さんの若い頃に似とる気がした。この結婚、上手くいってくれればいいなと思う。久し振りに、明るい我が家に戻った日でした』
その辺りから、少し飛び飛びの日にちが多くなる。間を空けて、久し振りに書かれた日記には、施設に入所してから書かれた日々が残されていた。そして気になる一ページが現れる。
『今日、喜美が会いに来てくれた。最近の私は、何だか覚えとる事が曖昧でどうなってしまったんやと心配や。しかし喜美と話しとるとそんな事忘れてしまう。でもその喜美が今日、元気がなかった。前に会った彼をまた連れてきてと言うと、もう連れて来られへんと言って凄く悲しい顔をした。別れてしもたと言う。どんないきさつかは話してくれなかったけど、もしかしたら私の心配をしたのかなと思う。喜美に言いたい。自分の幸せを一番に考えるんやでって。いつかは私もあの世に行ってしまう。きっと喜美より先や。そやから、私が居なくなった後も、寄り添って励まし合いながら生きていける人を手放さんといて欲しい』
蒼太はそのページを読み終えると、手を止めた。
母の荷物の整理が少し出来て、私は一旦下に降りて来る。もう外は暗くなり始めているのに、居間の電気をつけていないから、薄暗い中に蒼太が座っていた。
「ごめん。こんな時間になっちゃって」
電気をパチッとつけながらそう言うと、蒼太が私を見上げた。
「少しは出来た?」
「うん。・・・ありがとう」
蒼太は笑顔で返事の代わりにした。
「駅まで送るよ。近鉄に乗って京都に出れば、泊まる所沢山あるし。私は、せっかくだから、もう少しやっていく」
「・・・一人で、平気?」
今度は私が笑顔で返事の代わりにした。しかし、その笑顔は多少ひきつっていて、蒼太には見透かされてしまいそうな気がした。すると、やはり蒼太が言った。
「喜美・・・ちょっと座って」
ちゃぶ台を挟んで、私は言われるままにそこに座った。蒼太の目が真剣だったから、少し怖い気持ちを抑える様にして ちょっとだけ体を斜に向けた。
「俺が前に、結婚しようって言った時喜美さ、『今は仕事に打ち込みたいから』って言ったよね。『結婚しても仕事続ければいいよ』って言っても、『じゃ、もう少し待つよ』って言っても、喜美はそれを受け入れないで別れる選択をしたよね」
今更何をほじくり返してくるのだろうと、私の心の中に更に怖い気持ちが膨れ上がる。
「どうして、あの時別れなきゃいけなかったのかな?」
「・・・だから、あの時も言ったけど・・・」
「結婚したら、奥さんとしての仕事もおろそかにしたくないって、でしょ?仕事しながらだと両立できる自信ないって、でしょ?」
私は当時の事を思い出しながら頷いた。
「じゃ、なんでもう少し待つのもダメだったの?」
「そりゃ、プロポーズ断っておいて、今まで通りになんか付き合えないよ」
「・・・その喜美の気持ちも分かる。だから、別れたんだ、あん時」
「・・・うん」
何故今その話を急に出すのか、そしてこの後の流れを私は急に警戒しだす。
「でも、今もう喜美、仕事辞めようと思ってるでしょ。今なら、結婚出来るタイミングなんじゃないかな?」
私の心臓が急にぎゅっと縮まる。
「何?急に・・・。私達付き合ってもないのに結婚って・・・おかしいでしょ」
「・・・そうだね」
「・・・そうだよ」
顔には出ていないが、気持ちを取り乱しているから、私は蒼太の言葉をただ繰り返しただけの返事を返す。
「じゃ、今改めて考えてよ。俺と結婚を前提に付き合ってもらえる?」
何か分からない熱いものが心の奥の方で込み上げてくる。それがもしかしたら涙かもしれないと気が付いた途端、私は慌てて首を大きく何度も横に振っていた。
「どうして?」
そう聞いて来る蒼太の視線が私をじっと捉えて離さない。だから、その圧が余計にもう逃げられないと私に言っている様だった。
「・・・どうしてって・・・」
その後に続く言葉を待っている蒼太だったが、私にその答えなんかない。なかなか口を開かない私に、蒼太が少し穏やかな口調で言った。
「お母さんも・・・安心してくれるかなと・・・思う」
母の事を出されたら弱い。涙腺のスイッチみたいになっているから。だから私は必死に呼吸を整えた。
「俺は変わらずに、今もやっぱり喜美と一生一緒にいたいって思うし、お墓参りに来て、やっぱり喜美と家族になりたいって思った。お父さんとお母さんが家族を作ってきたように、俺も喜美とそれを繋げていきたいって、もしかしたら前よりも真剣に思った」
蒼太の気持ちは充分過ぎるほど伝わっていた。でも私は、頷く事ができない。
「ちょっと・・・考えさせてもらえないかな・・・?」
「・・・分かった」
そう言葉を交わした後で起こる沈黙が深い。どうしていいのかも分からず、気まずい空気から逃れる様に、私は一人立ち上がった。
「駅まで・・・」
そこまでで、蒼太が私の語尾に被せた。
「これで、俺最後にするから」
ポカンと私の口が開いたままになる。
「これ以上は、俺ももう言わない。今回で最後」
「・・・・・・」
「そんだけの覚悟で言ってるから。真剣に考えて」
2年前の後悔を取り返せるチャンスが来たのだ。しかし、私にとっては そう簡単な事ではなかった。
「俺、今日ここに泊まってく」
「え?!」
「このまんま帰ったら、会社で会ってももっと気まずくなるだけでしょ?だから、このままここ泊まらせてもらう。せっかく懐かしい家に来たんだし」
「・・・ちょっ・・・勝手に決めないで」
「まずい?」
「・・・だって・・・」
「あ、俺布団要らないよ。ここでいい。寒くないし」
「・・・・・・」
「あ!まずどっか飯食いに行こうか?近くに何かある?」
あんな事を言われ、何も考えず眠れる筈がない。だから私は一晩中、母の荷物の整理に精を出した。夢中になれば何も考えなくていい様な錯覚を起こすからだ。もう一つ新しい悩み事が増えると、今まであんなに母の物に触れるのが怖かったのに、それさえどっかに飛んでしまっていた。母の思い出に一つ一つ浸る余裕はなく、ただ黙々と作業をした。そして母も生前出来なかった父の荷物の整理にも手を付け、気が付くと夜中の3時を回っていた。
足音を立てない様に静かに階段を下りて居間を覗くと、座布団を枕に横になって眠っている蒼太がいた。出しておいたタオルケットも畳まれたまま、部屋の隅に置いてあった。縁側の窓が開いていて、時々そこからひんやりと心地よい夜風が舞い込んでいた。私はタオルケットをそっと蒼太に掛けると、窓を半分閉めて再び二階に上がった。
朝日が昇って外が明るくなり始めると、私は少し緊張気味に再び居間に降りる。しかし、蒼太の姿はなかった。タオルケットも座布団も畳んで重ねてある。急に私の胸がざわざわしだして、落ち着かない。いつの間にか居なくなってしまった蒼太を探して玄関に行くと、靴もない。きっと朝早い電車で先に帰る事にしたんだ。そう思うと、急に言い様のない寂しさが私を襲ってきたから、気持ちを落ち着ける為 深呼吸してみる。それにしても、一緒に居た筈の蒼太が急に居なくなっただけで、こんなに心細くなる自分の本音って・・・。蒼太からの二度目のプロポーズを、今度こそ受けなさいと母が背中を押しているのだろうか・・・。
昨日の思いがけない蒼太の話をきっかけに、自分のこれからと真剣に向き合う事を恐れていた私が、一晩経ってようやく気持ちが素直になり始める。その時、玄関の戸がガラガラッと開いた。走って玄関に向かうと、そこには蒼太が爽やかな顔で立っていた。
「おはよう」
「・・・どこ行ってたの?」
「気持ち良さそうだから散歩に出て、お墓に行ってきた」
それを聞くと急にほっと安堵の気持ちが心に充満する。
「もう、帰ったのかと思った」
靴を脱いで家に上がりながら、蒼太が笑った。
「荷物置いてあったでしょう」
「あっ・・・荷物か・・・」
動揺しすぎて肝心な物を確認しそびれていた。
「今日、喜美 何時に出るつもり?」
「・・・まだ考えてなかったけど」
荷物からタオルを取り出しながら、蒼太が言った。
「喜美の片付けがまだ掛かるようなら、俺先帰るわ」
急に私の心が不安に揺れ始める。しかし、もちろんそんな表情は出さない。
「・・・分かった」
洗面所で顔を洗って蒼太が戻ってくると、さっき帰ってきた時に手にぶら下げていたビニール袋を私の前に差し出した。
「ほい。朝飯」
私達は無言で、蒼太がコンビニで買ってきたおにぎりやサンドイッチを食べた。
「一晩中、片付けてたの?」
「・・・そう何度も来られないし」
そして又無言の時が流れる。
「・・・床にごろ寝じゃ、かえって疲れたでしょ?」
「いや、風が気持ち良くってさ、いつの間にかぐっすり寝ちゃってた」
そして再び無言になる。先に食べ終えた蒼太が、庭の外に目を向けた。誰もここ数年手入れをしていないのに、変わらずに咲いている草花が幾つかある。ふとその時、朝の爽やかな風に乗って どこからか懐かしい香りがほのかに鼻に届く。
「あ・・・いい匂い」
そう蒼太が言うから、私も思わず鼻で息を大きく吸った。
「あ、金木犀だ」
庭を見回して、端の方に植えてあるオレンジ色の小花のついた木を見つける。
「いい庭だなぁ・・・」
「・・・お母さんも、そう言ってた。縁側に座ってぼーっと庭眺めてるのが一番の贅沢って」
「分かるなぁ。東京とこっちじゃ、まるで時間の進む速さが違う様に感じるもんね。喜美が帰って来たくなるの、分かる」
この先身の振り方の結論を出さなければならない時が着々と近付いていた。
「あっ、そうだ」
蒼太が思い出して、急に大きな声を出した。
「朝顔のプランター、ベランダに戻せた?」
私の顔を振り返ったから、無言で首を振った。
「・・・しおれちゃってる」
「え・・・。そんなに重かった?」
「水が切れて軽くなるの待ってたら・・・出しそびれちゃって」
「あれから結構日数経ってるじゃない!枯れちゃうよ」
「・・・ホントだね」
「いっぱい咲いてたのに」
「・・・・・・」
蒼太があの日置いて行った残像のせいだと心の中で呟く私の鼻にもう一度、金木犀が香った。