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風が吹いたら  作者: 長谷川るり
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第5話 夏の嵐が残したもの

5.夏の嵐が残したもの


 夏休みに有給休暇も合わせて消化していた私は、暫く振りに会社に出勤すると、営業部の前の廊下で蒼太とばったりと会う。

「おはようございます」

「おかえり」

思いがけない挨拶が返ってきて、私はついドキッとしてしまう。

「今日5時半に駅で待ってて」

「え・・・」

「じゃあね。俺、今日一日外回りだから」

いいとも嫌とも言わないうちに、蒼太は会社を出て行ってしまった。私は一日その事が頭から離れない。駅で待ち合わせしてどこに行くのだろう。聞くにしても断るにしても、今はもうその術がない。2年前に別れてから、私はアドレスから彼を削除した。そして彼からの連絡も来ないようにブロックした。それでも今までは毎日の様に会社で顔を合わせるから、そう不自由もしていなかったのだ。


 定時で会社を出て、駅の入り口で私は蒼太を待った。昔に付き合っていた頃、喫茶店で待ち合わせをした事があった。私の方が先に着いて、中に入って待っていたら彼から電話があり『今どこ?』と言う。中で待っていた私に対して彼は『普通、前で待ち合わせでしょう?』と言って軽い喧嘩となった事がある。だから『駅で待ち合わせ』と言ったら、改札ではなく入り口の事なのだ。

そんな懐かしいエピソードで時間を埋めながら待つ。付き合っていた頃、同じ朝の電車で通勤した事もあった。駅前の牛丼屋は、彼が私に牛丼屋デビューさせた店だ。あの時の味は今でも忘れない。外回りから会社に帰る時に、ランチに買って行った事もある。いつ食べても、あの一回目の味を思い出す。どこを見てもこの7年間の思い出があちこちにあるここを、本当に飛び出してしまっていいのだろうか。この会社を辞めたら、きっと私はこの駅に降り立つ事は無いのだろう。寂しくないと言えば嘘になる。しかし、もうそれも全て終わった過去だ。


駅前に5時半と言われたが、その時間を過ぎても蒼太の姿は現れない。外回りに出ていたのだから、良くある事だ。私は会社の人に会いにくい 少し離れた場所に移動して、再び彼を待った。先日買った ワーキングホリデーの情報誌に目を通しながら待ったが、1時間しても蒼太の姿は見えない。7時まで待ってみようと決めて、再び本に目を落とす。しかし、やはり気になって落ち着かない。きっと仕事で遅くなってしまっているのだろう。だがその連絡も 今となってはつけようがない。取引先との間で何か起きてなければいいが・・・。決して時間にルーズでない彼がこれだけ遅れているという事を思うと、心配が募る。だからといって、何か出来る訳でもない。私は時計の針が7時を回るのを待って、自宅に帰った。


やはり家に帰っても気になる。でもきっと明日会社に行けば、その真相は分かる筈だ。そう自分に言い聞かせるが、嫌なイメージしか湧いてこない頭を冷やす様にシャワーを浴びた。お風呂から上がると、外は雷がバリバリと凄い音を立てて轟き、雨も窓に強く打ち付けていた。窓から吹き込んだ雨を拭いて、私は空を見上げた。ピカッと光る稲妻とドーン バリバリという破壊する音が空全体に響く。夏独特の雷雨だ。テレビで天気予報を見ると、雷雲が通過中と示されていて、大雨洪水雷注意報が出ている。まだ暫くは続くらしい。私は蒼太の事を思う。仕事からこの雷雨に当たらずに帰れたのだろうか。それともまだ外に居るのだろうか・・・。考えても仕方のない事ばかり気になる自分に区切りをつける様に、私は台所で夕飯に冷やし中華を作った。皿に盛って出来上がったところへ、チャイムがなる。来客だ。こんな時間に珍しい。私はインターホンで応答する。するとそこからは、良く知っている声が聞こえてきた。

「喜美。ごめん!俺」

蒼太だ。家に来る事など別れて以来だ。戸惑う私はインターホンで会話を続けた。

「ごめん!仕事で時間に行けなくて。待たせちゃったでしょ?」

蒼太の息が少し上がっている。走ってきたのだろう。この雨の中・・・?私は思わずこう声を漏らした。

「わざわざ・・・良かったのに」

「俺から誘っといて、すっぽかしはないよな。謝ろうと思って、来た」

こういう律儀な所も懐かしく感じる。

「雨・・・凄かったでしょ?」

「凄いよ!駅からここまで来る間に突然ブワーッと降り出してさぁ」

という事は、傘を持っていないという事か?私はまだインターホン越しに聞いた。

「傘、持ってた?」

「持ってないよ。降るなんて思ってなかったから」

それを聞いて私はようやく動いた。

「ちょっと、待ってて」

玄関を開けると、そこには想像以上にずぶ濡れの蒼太が立っていた。そして私はタオルを渡した。

「はい」

「あ・・・悪い」

そのタオルで頭の先から服や鞄を拭くが、ワイシャツもびしょ濡れでぴったりくっついてしまっている。タオルで拭いた位ではどうにもならない程濡れている。タオルで拭くと、蒼太が改めて頭を下げた。

「今日、ごめんね」

「ううん・・・」

「結構待った?」

「・・・平気」

「また、今度ね。今日の約束」

「・・・何か・・・話?」

「うん。ちょっとね」

「・・・・・・」

「じゃ、行くわ。また明日会社でね」

「あっ!傘・・・持ってって」

そう言って、私はビニール傘を一本手渡した。

「サンキュ。助かる」

「・・・まだ・・・凄い雨だよ」

「う~ん・・・そうだけど、あと家帰るだけだし」

そう会話をする合間にも、雷が轟く。時々突風の様な風が雨を連れて玄関から入り込む。

「あ、吹き込むから・・・閉めて」

ドアを閉めると、外の嵐が嘘の様に聞こえなくなり、玄関に入った蒼太と私の間に静寂が訪れる。気まずくなる一歩手前で、彼がそれを破った。

「このタオル借りてっていいかな?又多分濡れるから」

「あ、じゃぁ別の持ってって。それもう濡れてるから」

タオルを持って玄関に戻ると、蒼太がくしゃみを二回した。

「雨降り出して締め切ったから、さっき冷房入れちゃったの。濡れてるから寒いよね」

「平気平気。俺、もう行くから」

「・・・雨、凄いから気を付けてね」

蒼太がにっこり微笑んで、玄関のノブに手を掛けた。ドアを開けた途端に、まだ止まぬ雨と雷の音を生暖かく不気味な風が勢いよく運んで来る。すると私の口が勝手に動いた。

「電車の冷房で・・・シャツ冷えちゃうかな・・・」

少し考えてから、蒼太がはははと笑った。

「気合入れて帰るわ」

「・・・服、乾かそうか・・・?」

「・・・・・・」

驚いた蒼太が、私の顔を見ているのが分かる。だから私は目を合わせない様に、外を指さして言った。

「その間に雨、止むだろうし」

なんでこんな事を口走ってしまったのか、自分でも分からない。でも、ずぶ濡れのまま帰したら風邪を引いてしまいそうだったからだと、自分で自分に言い聞かせていた。

ワイシャツもズボンも靴下も濡れている蒼太が、遠慮気味に部屋に上がる。

「お邪魔します」

その台詞もやはり、よそよそしい。びしょ濡れの靴下を玄関で脱ぎ、部屋に入る蒼太だが、ズボンが濡れていて座れずにいる。本当はまだ昔蒼太が使っていたスウェットのズボンがしまってある。しかしそれを自分から出すのは躊躇われる。すると蒼太が言った。

「何でもいいからさ、何かズボン貸してくれない?」

「あぁ・・・探してみる」

引き出しの奥から それを引っ張り出して、私はわざとらしく言ってみせた。

「昔に使ってたやつ、奥の方にまだ残ってた」

「おお、ラッキー」

そんな嘘、蒼太は素直に信じたのだろうか。

 私の大きめのTシャツとスウェット姿でソファに座ってテレビを見ている蒼太のいる景色は、まるで昔にタイムスリップしたみたいだ。私はそんな光景から逃がれる様に、背を向けてズボンとワイシャツにアイロンを掛けた。そして乾いたズボンを畳んでテーブルに置くと、今度は濡れた靴を乾かす為、ドライヤーを取りに洗面所へ消えた。ふと鏡に映る自分を見る。Tシャツ短パンにすっぴんの自分が、まるで夫の身の回りの世話を焼く妻の様だ。一体自分は何をしているのだろう。そんな戸惑いが胸いっぱいに広がる。

 するとそこへ、ひょいっと蒼太が顔を出した。鏡越しに私を見て、言った。

「ごめんね。こんな事までさせて」

私は黙って首を横に振って、ドライヤー片手に玄関へと逃げる。

「あと靴だけ乾けば、もう帰れるから」

蒼太の気配を背後に感じながら、私は玄関にしゃがみ込んで濡れた靴を黙々と乾かす。一体蒼太は何を考えているんだろう。結婚を前提に付き合ってると親に紹介までしておきながらプロポーズを断った私の、こうした女房気取りの自分勝手な行動を咎められる様な気がして 怖くなった私は、後ろを振り返って言った。

「気にしないで、むこうでテレビでも見ててよ」

蒼太が何か言っている様だが、ドライヤーの音で聞こえない。それでも蒼太の口が動いているから、私は一旦ドライヤーのスイッチを切った。

「話・・・いいかな?」

「・・・靴、乾かしたら行く」


 さっきまでのドライヤーの音で耳が少しぼーっとしたまま、私は蒼太の居る部屋に戻る。

「あ、ありがとう」

そう言って見ていたテレビのスイッチを切る蒼太だ。思わず私は少し距離を空けて、壁に寄り掛かった。

「夏休み、田舎帰ったの?」

「うん。お父さんのお墓参りもあるし」

「そうか。実家の片付けも、少しは出来た?」

「・・・・・・」

返事のない私を変に思って 蒼太がこっちをじっと見ている視線を感じていたから、私は首だけを振った。

「まだ・・・出来ないよね」

「怖くて・・・入れなかった」

言った後で、私は大きく息を吐いた。

「怖くて?!」

「・・・お母さんの事とかいっぱい思い出しちゃいそうで・・・」

「お兄さん、やっぱ処分するって?」

「わからない。多分、四十九日で帰った時、言われるんだと思う」

暫く会話が何もない部屋の中に、外の雨が窓に打ち付ける音だけが聞こえる。

「喜美さ・・・会社辞めるって言ってたじゃない?」

「・・・・・・」

私は黙って、蒼太のその後の話を待った。

「・・・それって『逃げ』なんじゃないかなって、思う」

痛い所を突かれる。実は一番自分がそう感じていたからだ。

「辞めるにしてもさ、こんな辞め方、喜美のこれからの人生にプラスになるかな・・・。起きてきてる事にしっかり一回向き合ってみようよ」

蒼太の言っている事は分かる。だけど、それが出来ていたら、今頃こんなに悩んではいない。

「浅間店長の所もう一度行ってみるなり、部長と話してみるなり、さ。俺、一緒に行くよ」

私は首を横に振った。

「言ってる事は分かるけど・・・凄くもっともだと思うけど・・・ごめん」

「・・・なんで?」

「浅間店長とは話させてもらったから、契約打ち切りの事、納得いってるの」

「じゃ、部長と腹割って話してみたら?」

私は溜め息と同時に首を振った。

「無理だわ・・・」

「でもさ・・・」

そう言いかけた蒼太に、私は言葉を被せた。

「何があったか、聞いてるの?」

「詳しくは知らない」

「じゃ、ちょっとは誰かから聞いてるって事でしょ?そういうの。もうね、そういうあの人がこう言ったとか、この人がこう言ってたとか、そういうの。もうそういうのに、私疲れちゃったの」

蒼太は黙って聞いていた。

「馬鹿馬鹿しいじゃない。たかが噂にさ 皆群がって、当の本人の私には聞いても来ないで。しかも、その噂の力を利用して自分の味方をつける様な姑息な真似までする人に、丸ごと信じてついて行けないよ。分かり合えるとも思えない。きっと、生きていく上で大事にしてるものが違うんだと思う。だからいいの。あの会社にいる間は、そうやって割り切っていくって決めたから」

弾丸の様に喋り終えると、少し興奮している自分がいる。また何か説得してくるのだろうと身構えていると、蒼太は全く違う事を言った。

「ごめん。お水、一杯もらえる?」

「あっ・・・何も出してないでごめん」

そう言いながら台所の食器棚を開ける。端っこに、昔蒼太が使っていたコップがある。私はそれを奥に引っ込めて、グラスを一つ取り出した。

 氷の入った水を一杯、一気に飲み干す蒼太。グラスをテーブルに置くと、カランと氷の音が響く。蒼太は冷たい飲み物が好きだ。何にでも氷を入れたがる。

「もう少し、いる?」

台所に水を入れに行っている間に、蒼太が部屋を見回して言った。

「変わってないね」

返事を返せないまま、私は水の入ったグラスを蒼太の前に置いた。急に蒼太が立ち上がってベランダの窓に近付く。カーテンを少し開けて外を見ると、そこには朝顔がプランターいっぱいにツルを伸ばしていた。それが強風にあおられている。

「もしかして、これ、あの朝顔?」

二人で昔朝顔市に行って買った物の種を毎年、蒔いては花を咲かせている。

「だって、毎年種取れるんだもん」

「部屋ん中、入れなくていいの?風で倒れちゃうかもよ」

「だって、ツルが巻き付いてて大変だもん」

億劫がる私に対して、蒼太は古新聞を持って来てと指示を出す。朝顔のプランターを強風の中から部屋の中へと避難させる蒼太。ツルが巻き付いた棒が背が高くて、ゆらゆらしている。

「明日晴れたら、又出せばいいよ」

「出来るかな。結構重たそう」

「ま、重たいけど・・・持てない事ないよ」

ベランダの朝顔の鉢の心配を二人でしたり、一体何なんだろうと不思議な感覚に陥る。するとカーテンを閉めながら蒼太が言った。

「風はまだ強いけど、雨止んだっぽいから帰るわ」

そう言ってワイシャツを着る。脱いだスウェットとTシャツが畳まれてある。本当は私のTシャツもそのまま着て帰っていいよと言いたいところだけれど、蒼太の家に私の物が残るのは、やはり今後の為に良くない。こういう肝心な所の判断は、冷静にしたい。彼の未来の恋人の為にも・・・私の為にも。

「Tシャツと靴下・・・洗っとくから」

「いいよ」

「大丈夫。タオルもあるし、ついでだから」

蒼太は自分の履いている靴下を見た。

「じゃ、これも洗って返すわ」

「あげる。それサイズ間違えて買ったやつだから」

嘘だ。昔に蒼太の為に買っておいたものだ。スニーカーソックスで足首の縁取りに 蒼太の好きな赤のラインが入っている。私は、思い付きでついた嘘がバレない事を願っていた。

 玄関に行きかけた蒼太が、台所で皿に盛られた冷やし中華を見つける。

「あっ、もしかして夕飯食べるとこだったんだ?ごめんね」

「ううん」

たまたまだが、今日に限って蒼太の好きな冷やし中華だ。私は勇気を出して言ってみた。

「・・・食べてく?」

蒼太は笑顔で首を横に振った。

「ありがと。喜美、食べな。ごめんね。伸びちゃったかな」

玄関で見送るのも変な感じだ。

「ありがと、全部乾かしてもらって。また明日会社でな」

あっさりとそう言って、蒼太は玄関を出て行った。さっきワイシャツを掛けていた空になったハンガーやアイロンを見て、私は空虚な気持ちに必死で蓋をしながら、温くなってしまった冷やし中華を流し込んだ。



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