第4話 東京の夏
4.東京の夏
猛暑日が続いていると、さすがに営業部の男性陣は日焼けの度数がぐんと上がる。冷やかなのは、部長の私への態度だけだ。外回りから汗だくで戻ってきた社員が、意気揚々と部長席に近付く。
「新規一件、取ってきましたぁ!」
「やるじゃ~ん!篠崎~!」
「通って通って、通い詰めました!」
「粘り勝ちだね」
営業部の壁に貼られた成績グラフの篠崎の欄に、部長が赤丸を書き足しながら言った。
「新規取らなかったら、営業に居る意味ないからね」
一瞬にして空気が締まる。更に部長がぼやく様に言った。
「外回りもしないで、新規どうやって取るつもりなんだろう・・・」
多分私の事を言っている事位分かる。きっと、皆もそう思った筈だ。でも気にしない。どうせ長くはここに居ないのだから。
昼休みが終わる寸前、外から戻ってきた私をエレベーターの前の廊下で待ち構える様に蒼太が立っていた。
「外回り、行くぞ」
「行きません」
「行くぞ!」
「行きません!」
「わかった。じゃ、営業しなくていいから、付いて来て」
「・・・報告書面倒だから、嫌です」
「俺が適当に考えるから」
私はこれ見よがしに大きくため息を吐いて、それに従った。
蒼太が歩くよりも少し後ろを、やる気無さそうに歩く私。日傘を差していても、アスファルトからの照り返しが暑い。吸い込む空気も熱気をまとっていて、息苦しささえ感じてしまう程だ。立ち止まって水筒を一口飲んでいる私を蒼太は振り返った。
「久々だから、もうへばった?」
「はい。もう勘弁してもらえますか?」
はははと太陽の方へ顔を向けて蒼太は笑った。
「昔も良くそう言って、すぐ休みたがったよなぁ」
「根性が無いので」
「いや、今は相当根性ついてるよ」
「無いですって、根性なんて」
「あるよ。あの嫌味聞き流して、外回りも新規も一切やんないんだから」
「・・・根性じゃないです」
「じゃ、何?」
誰にも話すまいと思っていた気持ちを、息を大きく吸って それと共に吐き出した。
「・・・新規取っても、責任持てないんで」
「・・・それは、辞めちゃうからって事?」
「・・・多分」
蒼太は大きくため息を吐いた。
「決めたの?実家に戻るって」
「いえ・・・」
蒼太は歩きながら横の私へ顔を向けた。
「・・・こっちで転職するの?」
「いえ・・・多分、それはないです」
「え?じゃあ、何?」
段々に蒼太の声も大きくなっている様に感じる。私がはっきりした事を言わないでいると、蒼太が急に立ち止まって私の腕を掴んだ。
「結婚する・・・とか?」
私はその蒼太の発想と顔が面白くて、思わず吹き出してしまう。
「なんで急にそうなるんですか」
「この前の大学時代の友達とかって人と・・・やけに楽しそうに歩いてたし」
「・・・・・・」
「笑わないのは元気がないんじゃなくて、会社にいるからなんだね。この間久々に楽しそうにしてる喜美見て、そう思った」
「・・・・・・」
「彼の事・・・好きなの?」
私は小さくため息をつく。それに気づいた蒼太が、言葉を継ぎ足した。
「いいんだけど・・・。別に俺がどうの言う事じゃないし。喜美が幸せになれるんだったら、それが一番だから」
私の胸がまた痛んだ。
「ワーホリでどっか外出てみようかな・・・とか」
「ワーホリ?!」
「まだ分かんないですけど」
蒼太は暫く黙ったまま歩き続けた。そして信号待ちで立ち止まると、ようやく口を開いた。
「そりゃ、新規開拓する気になれなくて当然だわ」
「ほら!でしょう?だから、放っといて下さいって」
いつもの憎まれ口の調子で言ったつもりが、蒼太の返事がない。信号が青に変わっても、無言で歩き出すだけだ。私は諦めて、今日のところは黙って彼の後について行く事にした。
新入社員の頃に蒼太について歩いた地域に来ると、その時の映像が頭の中で再生されて、今の景色と重なる。あの時キラキラして見えた世界が7年後、どんよりとくすんで見えている。当時と同じ様に少し前を歩く蒼太は 昔よりも貫禄がついて、きっと彼の目指している所に近付いているに違いない。飛び込みで店舗に入って行く蒼太をぼんやりと立ち止まって見ていると、2年前に別れた時から、きっと別々のレールの上に乗ったんだなと思う。店の中に入って行き 姿の見えなくなった蒼太を外で待ちながら、空を仰いだ。青くどこまでも澄んでいて、白い雲がまるで絵の様だ。眩しくて目を閉じると、街の雑踏が耳に飛び込んでくる。色んな人が色んな思いで この瞬間この場所で生きている。それの集合体だ。たったそれだけの事なのに、なぜそれを息苦しいと感じるのだろう。なぜ、今この瞬間を精一杯生きられないのだろう。そんな自分の情けなさが込み上げた頃、隣から声がする。
「ほら、次行くぞ」
目を開けると、いつの間にか蒼太が戻ってきていた。
「日傘も差さないで上向いて、顔中ガンガン紫外線浴びちゃってたけど大丈夫?」
慌てて私は傘を頭の上に戻した。
「シミだらけのお婆ちゃんになっちゃうよ」
何店舗か回ると、蒼太が流れる汗を拭きながら言った。
「休憩しよう」
近くの喫茶店に入ると、アイスコーヒーに一息つく。テーブルの脇に置いてあるかき氷の写真を見ながら蒼太が言った。
「喜美、これ食わない?」
昔良く外回りの合間に入った喫茶店で食べたものだ。
「・・・結構です」
「なんで~?冷えるよ、体」
「これで・・・充分です」
そう言って、私はアイスコーヒーを指さした。すると、蒼太は抹茶小豆のかき氷を注文した。
「あれ・・・?小豆・・・」
そうだ。蒼太は小豆が苦手なのだ。本当はレモンが好きな筈だ。私の顔を見て、蒼太がニヤッと笑った。
「覚えてた?」
又やってしまった。私は目を逸らしてコーヒーを飲んだ。本当はレモンが好きなのに、私の好きな抹茶味にする蒼太に また私は落ち着かなくなる。先日の定食屋での二の舞になりそうだ。
テーブルに運ばれてくると、山盛りの氷の上にたっぷりの小豆が掛かっている。
「悪いけど、小豆のとこ、食べて」
「なんでレモンにしなかったんですか?」
呆れた様に少し強い口調の私に、蒼太がにこっと笑った。
「この写真、旨そうに見えた」
私は呆れ顔で、溜め息を吐く。でも、食べ物を残すのも捨てるのも嫌いな私は、それを断る事が出来なかった。
火照った体がクールダウンすると、再び外の灼熱の太陽の元へ出る。地面から立ち昇るムッとした熱気と、目に痛いくらいの眩しさが二人を出迎えた。
「よし!また頑張ろう!」
そう自分に気合を入れる蒼太に、私は言った。
「あぁいうの、やっぱりおかしいですよね」
「何が?」
「だから・・・一個の物を一緒に・・・とか」
「ごめん、ごめん」
蒼太は明るく、そして軽く笑い飛ばした。
「本当に分かってます?」
蒼太は気にせず歩き出しながら返事をした。
「そんな怖い顔しないでよ。ほら、営業スマイル!営業スマイル!」
私はまだ続けた。
「知ってます?私達、ヨリ戻したんじゃないかって噂されてるんですよ」
蒼太は知らなかった様だ。目を見開いて驚いている。
「これ以上、人と面倒な事になりたくないんで」
その一言で、蒼太の顔から笑顔が消えた。
「これから、気を付けます」
先日一年振りに会った拓磨がワーキングホリデーの案をくれてから、私の帰宅後の時間はその情報収集に費やされている。そしてあの日以来、マメに拓磨から連絡が来る。それは『大丈夫?』とか『頑張ってる?』とか そんな短いメッセージだけれど、それに励まされているのも事実だ。
大学時代の皆で企画したバーベキューも終わり、その日の晩 早速に拓磨からメッセージが届く。
『皆元気だったよ。でもやっぱ各々色々あるよ。喜美ちゃんも来れば良かったのに』
『連絡、ありがとう。行けなくてごめんね』
『明後日、一日空いてんだ。どっか行かない?』
拓磨が調べると夏祭りをやっている所があったらしい。そこへ向かうべく、拓磨は待ち合わせに車で現れた。助手席に乗り込む私を見て、拓磨が言った。
「な~んだ。浴衣じゃないの?」
「なんで浴衣着てくるのよぉ~。デートでもあるまいし」
拓磨は軽く笑った。
「そりゃそうか」
「そうだよ。自分だって普段着やん」
又拓磨は はははと笑った。
車が少し走り出して、拓磨が言った。
「この前より、少し元気そう」
「そう?」
そう答える私が笑顔なのを 自分でも分かる。
「色んな国のワーホリ情報集めてみてる」
「いよいよ、本気になってきた?」
「ん~、まだ決心はつかないけど」
拓磨はカチッカチッとウィンカーを出しながら、聞いた。
「一番のネックは何?」
「そりゃぁ、戻ってきてから再就職出来るかなって。30過ぎちゃってるし」
「まぁ確かに、そういう悩みは切実だよな」
「ワーホリに行くって事は、実家も処分されちゃってるだろうし、そしたらやっぱ、自分でちゃんと生活費稼がないとならないし・・・」
信号待ちで、拓磨がチラッと助手席の私に目をやった。
「喜美ちゃんは、結婚・・・しないの?」
「あっ!今気遣ったでしょ?そうなんだよねぇ。段々さ、そういう話題 気遣われる様になっちゃうんだよね」
「そういう意味じゃないよ。元カレとの事とか、話したくなさそうだったから」
「う~ん・・・」
「ほらね!」
信号が青に変わって、車は又走り出した。黙っていても、ラジオが二人の真っ白な空間をごまかす。
「この前の人、いくつ?」
「・・・5こ上」
「結婚の話とか、出なかったの?」
私の心が急にブレーキを踏む。
「じわじわくるね~」
笑ってその話題をはぐらかそうと、私は姑息な手を使ってみる。
「・・・あっ!もしかして妻子持ちだったとか?」
「違う違う!」
不倫疑惑はきっぱり否定しないといけない。すると、拓磨も本題に戻る。
「女の子はさ、独身の時しか留学とかワーホリとか自由に自分の為に時間使えないからね。行ける時に思い切って行くのも、凄く大事だと思う。帰国してからの仕事はさ、意外に語学力を活かして別の道が開ける事もあるかもしれないし。行った事でプラスの事もあると思う」
「そうかぁ・・・」
私は両手で顔を覆った。なかなか思い切れない自分がいる。やはり勢いや情熱や瞬発力は、年齢を重ねる毎に衰えていく気がする。しかし、現状を打破したいのも確かな気持ちだ。
日の暮れかけた頃、コインパーキングに停めた車から降りると、もわっと湿度の高い空気が二人を包んだ。お祭りの本通りに近付くにつれ、多くの人出がある。お囃子の軽快な音色や、お神輿の通る太鼓の音が 辺り一面に響いていた。
「けっこうデカいお祭りだね」
親子連れや浴衣の男女で賑わう町に溶け込むと、夏を一気に感じる。露店のずらりと並んだ通りが目を楽しませてくれる。
「懐かしいなぁ」
スーパーボールすくいや射的などを見て、私も拓磨も子供の頃を思い出す。
「拓ちゃんって、実家こっちだっけ?」
「そ。月島」
「えー!もんじゃで有名な?」
拓磨はこちらを向いてにっと笑った。
「食べてみたい!」
「食べた事ないの?」
私は頷いた。
「関西出身の私としては、粉もんは譲れないわけよ」
「おっ!いいよ。じゃ、関東と関西、粉もん対決しようよ」
「負ける気しないなぁ」
「俺だって」
そのままの思いつきと勢いだけで、二人は夕飯をもんじゃにしようと車に乗り込んだ。
「月島に良く知ってる店あるから、そこ案内するよ」
「楽しみ」
本来ならば30分位で着く筈のところ、所々の渋滞で時間が掛かる。しかしそんな事気にもならない位 車内の会話が弾む。
「関西の人って、なんであんなに食べ物に関して負けず嫌いなんだろうな」
「そんな事ないよ。皆一緒にしないで」
「またまたぁ。さっき『負ける気しない』って言ったの誰だっけ?」
車内にあははははと笑い声が弾ける。
店の裏だという駐車場に停めて、拓磨に案内され店の前に辿り着く。のれんには『もんじゃ、お好み焼き しみず』と書かれてある。
「え・・・?」
拓磨は再びにこっと笑った。
「そう。ここ実家の親がやってる店」
「え~?!」
驚いている私を半ば置いてきぼり気味に、拓磨はのれんをくぐった。威勢の良いお母さんの声が出迎える。
「いらっしゃいませ~」
母親は急に現れた息子に目を見開いた。
「どうしたの?急に」
店内はほどほどに混んでいたが、二人の座る席位はある。手際よくおしぼりと水を持ってきた母親に、拓磨は私を紹介した。
「大学ん時の友達」
「はじめまして。磯山と申します」
「どうも。いっぱい食べて行ってね」
すると拓磨が母親に言った。
「もんじゃ食べた事ないって言うからさ」
「あらぁ。美味しいわよ。うちのはとびきり美味しいから、待っててね」
冗談交じりに言うと、大きな口を開けて豪快に笑った。
注文を取って一旦母親が居なくなった後も、そのテーブルに明るさだけは残っている。
「元気なお母さん」
「江戸っ子って感じだろ?」
私は店内を見回した。
「ご両親だけでやってるの?」
「そう。昔っから二人だけでやってる。小さい頃は、たまに運ぶのとか手伝わされたけど」
私の方に生ビール、拓磨にはノンアルコールのビールが運ばれてくる。そして間もなくして、もんじゃの具の入ったどんぶりが届く。
「明太チーズ、やっぱこれ一番のおすすめ」
熱くなった鉄板の上に慣れた手つきでもんじゃの具を入れる。初めて見る作業に、私は興味津々で釘づけになる。
「こうして、具でまず土手を作って・・・」
出来上がったもんじゃが鉄板の上でジュージューいっている。
「こうしてヘラで・・・」
まず拓磨が食べてみせた。
「熱っ!」
ハフハフ言いながら美味しそうに食べる拓磨に、私の胸も高鳴る。
「食べてみていい?」
「我ら江戸っ子が誇る文化だな、こりゃあもう」
私がヘラに取ったもんじゃをフーフーしていると、あおる様に拓磨が言った。
「関西人に分かるかな~、この良さが」
「そんな あおらんといてや~」
一口味わって、私は慎重に感想を言う。
「へぇ~、あぁ~、こういう事なんや~」
「何その微妙なリアクション」
「思っとったのと違うててん。ほんま、カルチャーショックやわぁ」
拓磨がノンアルビールを飲みながら笑った。
「喜美ちゃんの関西弁、新鮮だなぁ~」
私のヘラを持つ手が、鉄板に何回も伸びる。
「あっ!ハマってきたでしょ?」
「そうなの!なんかね、もう一口もう一口って食べたくなる味」
拓磨はガッツポーズをしてみせた。ビールを飲んでいる間に鉄板の上に出来た薄皮を食べやすい大きさに切って、拓磨が私に薦めた。
「とどめ、いっちゃって」
端っこがパリパリになった いかにも香ばしい香りが私の鼻をくすぐった。拓磨に言われるままに食べてみると、私を身をよじらせた。
「美味しい!」
その声が少し高かったからか、拓磨の母親の耳に届く。すぐにテーブルに近寄って、笑顔をいっぱいに振り撒いた。
「気に入った?喜んでもらえて嬉しいわ」
今度は拓磨が言った。
「彼女、関西出身だからさ。もんじゃを馬鹿にしてた訳よ」
「ちょっと・・・っ!」
私は慌てて手を振って、拓磨の口を止めようと必死になる。
「馬鹿になんてしてないって」
「関西はお好み焼き、美味しいもんね」
そう言う母親の笑顔も変わらない。だから私は話を続けた。
「一口目と何口目かと最後のパリパリと、全部美味しさが違って・・・感動しました」
「そうなのよぉ~。分かってくれる~?」
小柄でぽっちゃりした母は、笑うと更に印象が丸くなる。幸せ感が滲み出ている様な人だ。きっとこの癒しも この店の売りなのだろうと感じる。
つい調子に乗って幾つも食べ過ぎてしまった私は、満腹のお腹を抱えて再び拓磨の車の助手席に座る。
「お母さん、素敵な人だったね」
「自分でも看板娘だって言ってるよ」
「・・・いいね」
「何が?」
「お父さんもお母さんもお元気で」
私の横顔を一瞬見てから、拓磨が言った。
「ああ見えて、親父も数年前に大病したんだよ」
「そうなの?全然、分からなかった」
「入院しなくちゃならなくなった時は、店閉めようかどうしようかって 家族会議になった」
さっきの元気な両親の姿からは想像も出来ない様な話に、私の相槌が途切れる。
「でもさ、あの店は父ちゃんの全てだから、私が何が何でも守るって、母ちゃんが言い張ったわけ」
「へぇ~、凄い」
「ど根性母ちゃんだからな」
そのニックネームが、さっき私が見た印象とぴったり合う。
「誰か、継がないの?あのお店」
「自分達が出来るところまで精一杯やって、それでおしまいでいいんだって」
その潔さはどこから来るのだろう・・・そんな事を質問したくなる。命懸けで真剣にやった人にしか言えない台詞なのかもしれない。そんな風に思っていると、拓磨が静かに口を開いた。
「うちの為にも将来なるかなと思って経営学部に行ったけど、今結局俺好きな仕事させてもらっちゃってるし。兄貴も昔からの夢実現させて頑張ってるし。本当はどっちかに継いで欲しかったんじゃないかと思うけど、聞いても母ちゃんはいっつも『自分の好きな道に進みなさい』って。『父ちゃんも母ちゃんも好きで始めた店だから、好きな時にやめる』って。『だから家の事なんか心配しないで、やりたい事やれ』ってさ」
拓磨の母親の言葉が、私の胸を突いた。2年前にこの言葉を聞いていたら、もしかして私の出した答えも違っていたのかもしれない。そして蒼太との今も・・・。