第3話 飛び出すきっかけ
3.飛び出すきっかけ
一週間に何日か熱帯夜の日がある。テレビでもそれを伝える日が増えてきた7月下旬のある晩、私の電話に大学時代の仲間に向けて一斉のメッセージが届く。毎年恒例の夏休みの遊ぶ予定だ。卒業してから毎年夏休みには皆で集まっている。5人の内2人が既婚者となった今でも、皆家族同伴で遊びに集まる。
『今年の皆の予定どう?』
それにそれぞれが返事を返す。一人一人が出し合う日程を見ながら、私だけ何も返事を返さないと、幹事役の葵が気に掛けてくる。
『喜美は忙しいのかな?』
『今年は無理そうだわ。ごめん。母も亡くなったりで、何かとバタバタしてて』
その後の4人のやり取りで、バーベキューに決まったらしい。とても今は皆と会って、ワイワイ出来る気分ではない。やはり断って良かったと、内心思っていた。
それから数日したある日。いつも通り定時で会社を出ると、大学時代の仲間の一人である清水拓磨から電話が掛かる。
「仕事で近くまで来たんだけどさ、喜美ちゃんもう仕事終わった?」
「あ・・・うん」
「良かった!飲み行こうよ」
何故とっさに『うん』と返事をしてしまったのか自分でも分からない。今は極力誰とも会いたくないのに。駅前の待ち合わせの場所に着くと、拓磨はもう来ていて、私を見つけてにっこりと片手を上げた。
「急にごめんね」
「ううん。それより拓ちゃん、仕事でこの辺来る事あるの?」
「そうそう。春からさ、担当のエリアが変わってね。今日はこの近くの店舗に来てた」
背の高い拓磨を見上げながら、話を聞いた。そして私は言った。
「元気そう」
一年振りだ。去年の夏休み、皆で海に行って以来だ。
「喜美ちゃん、お母さん・・・大変だったね」
私は少し作り笑顔を浮かべた。
「ありがとう。心配してくれて」
話題を切り替える様に、拓磨がビルの上を指さした。
「あそこのビアガーデン行かない?」
生ビールのジョッキを合わせて乾杯する。まだ外はそう暗くはない。ビルの屋上だけあって、風も抜け 雲も近くに感じて気持ちがいい。
「ここ評判良いから、来てみたかったんだ」
「へぇ~」
私はそう相槌を打ってから、もう一口ビールを飲んだ。そして今度は私が話題を投げた。
「今年のバーベキュー、皆集まれるみたいだね。去年は直前で、雅が来られなくなっちゃったから」
雅とは山本雅行の事だ。去年結婚した、既婚者組だ。
「皆じゃないよ」
拓磨がそう言うと、また言葉を続けた。
「喜美ちゃん、来られないでしょ」
「あ、まぁそうだけど・・・」
「お母さん、急だったの?」
「・・・んん、まぁ・・・。でももう認知症も進んじゃってたから・・・」
「まだ若かったでしょ?」
「うん。だけど、3年前にお父さんが亡くなってから ガタガタっときちゃって」
「そうだったんだ」
私はまた一口ビールを飲むと、拓磨が話を続けた。
「確かお兄さんかお姉さん、いたよね?」
「うん。お兄ちゃん。色んな事務的な手続きとかそういうの、全部やってくれてる」
もぐもぐ口を動かしながら、頷いて聞く拓磨。
「実家は?お兄さん達住んでんの?」
私の心がやはり曇り始める。
「ううん。お兄ちゃん達家族は京都にいるの。だから・・・実家処分しようかって・・・」
「・・・処分か・・・」
拓磨が少し遠い目をした。
「俺がまだ中学ん時さ、親父が実家を建て替えたんだけど、古い家を解体したの見た時は何とも言えない気持ちだったなぁ」
拓磨はテーブルに片方肘をついて、視線を遠くへ飛ばした。
「小さい頃の思い出とか、そういうのがどんどん壊されてくみたいに思えちゃって」
私の気持ちが少し開きかける。
「お家が新しくなっても、思い出せるもの?」
「うん。思い出せるよ。そりゃ、自分の記憶からは消えないからね」
「・・・そうだね・・・」
「ただ、うちは中に住む家族は同じだったからかな。喜美ちゃんは、違うもんね」
「・・・・・・」
拓磨の遠くへ飛ばしていた視線が、私の方へ移る。と同時に、私の口も何かに動かされている様に話し始めた。
「実家に帰ろっかな、とも思ったり・・・」
「・・・仕事は平気なの?」
その言葉を聞いて、躊躇しながら少し笑ってみせた。
「もう・・・やめようかなと思ってるの、会社」
拓磨がジョッキを持ち上げた手を止めた。
「・・・何かあったの?」
「・・・・・・」
「セクハラとか?パワハラとか?」
私は思わず少し笑ってしまう。でも笑える自分にも少々驚いていた。首を横に振ってそれを否定すると、自然と半年前の出来事を話し始めた自分がいた。
聞き終えた拓磨が一言、
「なるほどね・・・」
と言うと、私の心はそれだけで少し軽くなった様に感じる。
「まだまだ人生これからなんだからさ、色んな事に縛られてるのもったいないよ」
その一言で、急に私の胸が開けた気がした。
「そうかなぁ」
「そうだよ。思い切って留学しちゃうとか、そういう選択肢だって有りだと思うよ」
「留学?!」
「そう。ワーキングホリデーとか」
「ワーホリかぁ・・・年齢的にギリだな」
「今いる世界が全てじゃないからさ、馬鹿馬鹿しいよ。そんな狭い世界で息詰まらせてるの」
拓磨の励ましで心が明るくなった私は、ビアガーデンを出て駅に向かうまでの足取りが軽い。
「今日、拓ちゃんに誘ってもらって、良かった」
「俺も良かったよ。夏休み会えないからと思って連絡してみて」
「なんか・・・少し元気出てきた」
笑顔を拓磨に向けると、彼もまた私の方に笑顔を返した。
「そうそう。喜美ちゃんはその笑顔じゃなきゃ」
あははははと笑うと、何か月ぶりだろうと自分でも思う。家でお笑い番組を見て笑って以来だ。
「バーベキュー、本当に来られない?」
私はドキッとした。もしかしたら私が今年断った本当の理由を、拓磨にはバレていたのかもしれないと思う。思わず拓磨の顔を見上げてしまう。
「皆と会う気になった?」
「拓ちゃん・・・分かってたの?」
「いやいや。今ふっと思っただけ」
私が俯くと、拓磨が少し元気な声を出した。
「また仕事で近く来た時、飲みに行こうよ」
「うん」
駅がもうすぐ見えてきた所で、私は彼の方を見ずに言った。
「今日の話・・・皆には言わないでね。心配掛けたくないから」
「・・・もちろん。分かってるよ」
そんな会話が穏やかに交わされている所へ、駅の方から歩いてくる良く知っている顔を見つける。蒼太だ。新規開店の店との最終打ち合わせで出ていると、営業部に書いてあったのを思い出す。こんな時間まで仕事だったんだと思いながら、お互いの距離が縮まっていく。すれ違い様に私は目を合わせずに頭を少し下げた。
「お疲れ様です」
「おう。お疲れ様」
そう言いながら、やはり視線は隣の拓磨へ移る。拓磨が歩くスピードを落とすと、蒼太が立ち止まる。だから私も仕方なく立ち止まって、拓磨に紹介した。
「会社の先輩」
拓磨が軽く会釈をしている間に、今度は拓磨を蒼太に紹介した。
「大学時代の友人です」
蒼太も同じ様に軽く会釈をするが、変な空気が立ち込めそうになり、私はそこを切り上げる声を発した。
「じゃ、失礼します」
再び二人になった後で、拓磨が聞いた。
「あの人と・・・なんか気まずい関係?」
「・・・・・・」
「余計な事聞いたかな。ごめんね」
「ううん。ごめん」
会話はそこでぴたりと止んだ。もう駅だし このままその話題に触れずに別れようと思っていた私の口が、何故か緩んだ。
「さっきの・・・元カレ」
もっと驚くかと思っていた拓磨の反応が薄い。そして言った。
「俺と二人で歩いてんの見られて・・・マズかったかな」
「全然!だってもう2年も前に別れてんだもん。全然平気。関係ないし」
「・・・ならいいけど」
「うん」
改札の前まで来て、拓磨は言った。
「元カレと同じ職場で、しかもその職場で嫌な事もあって・・・喜美ちゃん、頑張ってんな」
私は無言で首を横に振った。
「だから尚更、今の場所から飛び出した方がいいかもよ」
最後の拓磨の言葉が、私の心に重く響いた。