第2話 切れた糸
2.切れた糸
今日も目標のない一日が始まる。会社に着いたら、目指すのは5時の終業時刻。こうやって浪費した時間の積み重ねが一年となり、そのままあっという間に40歳50歳になっていくのかと思うと、無性にやるせない気持ちになる。中身のない大人になっていく自分が、情けない。そうと分かっていても、今日の今の一時間 一分から変える気力もない。パソコンを通してやり取りする業者や取引先。自分は一体誰と向き合っているのだろうと、ふと疑問に思う。今の自分は誰とも向き合っていない。ましてや自分自身とさえ 向き合う事をやめている気がする。
約半年前、得意先からの受注書類のミスで会社の信用がガタ落ちした出来事があった。前日に、いつもの様に受注リストをチェックしていると、未記入の項目がある事に気付き、私は部長に確認をしたのだ。するとその反応は意外なもので、
「うちとあそこは長い付き合いだから、そう杓子定規にいかない事もあるのよ。ま、空気感っていうの?持ちつ持たれつで成り立ってるんだから」
部長のその凄く抽象的な言い方に、私は事務や経理に通せない内容がある事を察し、それ以上触れるのをやめた。しかし次の日、やはり心配していたミスが大事となり、部長が得意先に駆け付けたが、もう取り合ってもらえる状態ではなかったらしい。その得意先というのは、私が入社当時に新規開拓した初めてのお店で、何も分からない新人の私を そこの店長は丁寧に育てて下さった、いわば恩人の様な人だ。トラブルが発生した当日、謝罪に行く為バタバタと慌てて会社を出ようとする部長に私は声を掛けた。
「私も行きます」
「あなたは会社に残って、やる事やってて」
そう けんもほろろに断られたのだった。しかし私は、やはりどうしても自分の足で運んで直接そこの店長にお詫びをしたくて、後日会社には内緒で挨拶に行ったのだった。
「先日は、ご迷惑をお掛けし大変申し訳ありませんでした」
腰を90度曲げて頭を下げると、その店長は私を奥の部屋へと招き入れた。
「せっかく一生懸命やってくれてたのに、こんな事になって契約を打ち切りにする事になっちゃって、ホントごめんね」
「いえ。こちらの不手際ですので、当然の事です」
「う~ん・・・。それにしても残念」
店長の浅間は足を組み直して言った。
「磯山さんみたいに、こんなに熱心な担当の子が付いてくれてたのにねぇ」
浅間は変わらずに私を受け入れてくれた。
「私ね、正直言っちゃうと、別に今回のミスが直接契約打ち切りの原因じゃないのよね」
私の耳がそこで立ち止まった。
「元々考えていらっしゃったって事ですか?」
「まさかぁ!」
浅間は続けた。
「お宅の部長さん。あの方のやり方がね、私とは合わないっていうか・・・」
私がうっかり相槌を忘れていると、浅間は私の顔を見てハッとする。
「ごめんね。磯山さんの上司の事、悪く言っちゃって」
「いえ・・・。何でも仰って下さい」
「いやぁ、あぁいう人が世の中の大人の大半なのかもしれないけど・・・」
浅間は何かを思い出して、小さくため息をついた。
「あの日、謝罪に飛んできて下さったのはいいんだけど・・・、手土産とね、包みを持ってきたのよ。『今回の事はこれで穏便に願います』って」
私は思わず口をぽか~んと開けたまま、浅間を見つめてしまった。
「その後は、ず~っと言い訳ばっかり」
それを聞いた私は、思わず立ち上がって もう一度深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
「いやいや、磯山さんが謝る事ないのよぉ。ただね・・・ちょっと違うんじゃない?って、ね」
「はい。仰る通りです」
「だって、私達人と人の信頼関係で成り立ってるんでしょ?そりゃ人間だもん、間違う事も失敗もあるわよ。でもね、その時どんな姿勢でどう対応するかに、人の誠意ってもんが見えるんじゃないの?」
「はい」
「お金と高級菓子持って来て、一回謝った後は 自分を正当化する言い訳ばっかりで、あとはこれで今まで通りのお付き合いをお願いしますって・・・人として、信用できないって思っちゃったのよね」
「申し訳ありませんでした」
「おたくの会社の部長さんともあろう方がそういうやり方って事は、会社自体がこういう営業を認めてるって事でしょう?だったら、これからもうちとは難しいのかなって・・・」
もう私に言葉は無かった。
「磯山さんがうちに飛び込みで来てくれてから もう長い付き合いだけど、あなたが来てくれてた時は一回もそういういやらしさとかズルさを感じた事なかったのよね・・・」
せめてもの嬉しい言葉だった。しかしそれがかえって、申し訳ないと思う気持ちを大きくしたのだ。
「磯山さん、あなたは染まらないで これからも頑張ってね」
この日から私のやる気が激減した事は言うまでもない。新入社員の頃、靴の底をすり減らして毎日毎日外を歩き回って、ようやく与えてもらった一件の取引先。そしてこの7年間の間に少しずつ少しずつ信用してもらい、その分ずつ受注を増やしてきた。最近では『お薦めを持って来て置いていいよ』とまで言って頂ける様になっていたのだ。それがこんな一瞬の上司の心無い行動で、積み上げてきた努力も全て水の泡だ。しかし、なげやりになりそうな私の心にブレーキを掛けたのも、やはり浅間の最後の言葉だった。
『あなたは染まらないで、これからも頑張って』
そうだ。染まるのも過去に執着するのもやめよう。自分がこの7年で教わってきたものを大切に、また黙々とやればいいのだ。そんな風に自分を励ました。
そんな矢先の出来事だった。営業部の先輩である鳥海百合子からこっそり呼ばれ行ってみると、こんな話になっていた。
「喜美ちゃんさ、会社に内緒で浅間店長の所 会いに行ったって本当?」
「あ・・・私、ずっとずっと可愛がって頂いたのに、お詫びもお礼も言ってなかったので、会社の帰りに 寄ってご挨拶させて頂きました」
「あ~」
「それが、なんかまずかったですか?」
「いや、それ自体は別に問題ないと思うんだけどね、部長がさ、浅間店長と一緒になって私の悪口言ってたって・・・ご立腹だったからさ」
私はそれを即座に否定した。
「一緒になって悪口なんて言ってません。誰からの話ですか?」
「誰かは知らないけど、部長が『内緒だよ。あなただから言うけど』って言われて・・・」
「え・・・」
私は愕然としてしまって、言い返す力さえも失っていると、話にはまだ続きがあった。
「『磯山の事、誰があそこまで育てたと思ってるの?飼い犬に手を噛まれるってこの事だわ』って・・・」
聞けば聞く程深い谷に落とされていく気がした。私のすっかり傷心しきった顔を見て、鳥海が言葉を足した。
「ただ それ聞いてね、喜美ちゃん そんな事する様な子じゃないのになって。おかしいなって。だから、ちょっと確認したかったの」
「・・・わざわざ、すみません」
「私もさ、なんで部長がそんな事言うのかは良く分からないけど、浅間店長に喜美ちゃん凄く気に入られてたでしょ?それにやきもち焼かれちゃったのかなって・・・」
「やきもち?!」
「そう。ほら、だって部長、何でも自分が一番じゃないと嫌な人じゃない?自分よりひいきにされて、悔しかったのかな?ま、憶測だから、何とも言えないけどね」
鳥海が去ったその場に残された私は、大きくため息を吐くと同時に、何か目に見えないシャッターが閉まった、そんな気持ちになった。
その日から私は、時間から時間まできっちり働いて、定時になったら余分な労力を使わない、そんな働き方に変わった。新人の頃の様に 一日中外を歩き回る事もなくなり、比較的社内での仕事が多い。新規開拓をする気持ちになど、毛頭なれなかった。
自宅に戻り ポストを開けると、中からは広告に紛れて一枚の往復ハガキが見える。その場に立ち止まって、葉書に目を通す。高校時代の同窓会の案内だ。自宅のソファにごろっと横になって、私はもう一度葉書を眺めた。日にちを見ると、母の四十九日で田舎に帰る時である。こんな偶然あるものなんだなぁと他人事の様に感心しながら、高校時代仲の良かった友達の顔を思い出してみたりする。4人グループでいつも行動していた仲間達とは、今でも年賀状のやり取りを続けている。その中の一人だけは名古屋で今仕事をしているが、あとの二人は奈良県内で暮らしている。一人は去年結婚したばかりで、もう一人は早くに結婚して、今や3人の子持ちである。
幹事の名前を見て、また懐かしい顔ぶれを思い出したりしてみる。時々顔と一緒に印象深いシーンなどが引っ張り出されてきて、思わずふっと一人で笑ってしまう。好き勝手にやって、将来はどんな事だって出来る様に思っていたあの頃を懐かしく思い出す。
私はソファから起き上がると、返信はがきの欠席欄に丸を付けた。そしてその下に『母の四十九日の法要の為』と追記した。
お風呂上がりで髪の毛を拭きながら出てくると、テーブルの上で電話が鳴っている。高校時代の友人 永瀬洋子だ。現在仕事で名古屋に住んでいる友達だ。
「もしもし?」
「久しぶり~!磯ポン、元気にしてた~?」
磯ポンとは私の高校時代のあだ名だ。後にも先にもこう呼ばれたのは高校時代だけだが、命名したのは 何を隠そう彼女だ。当時から変わらない天真爛漫でテンションの高い第一声は、今でも健在の様だ。
「同窓会の葉書、来た?」
「うん」
「行く?」
「あ~・・・、私行けないんだ」
「え~っ?なんでや?」
洋子につられて、私もつい懐かしいイントネーションになる。
「母の四十九日や」
「え・・・お母さん・・・亡くなったん?」
「そや」
さすがの洋子も、控えめな音量になる。
「洋子は行くん?」
「磯ポンが行くなら行こうかなって・・・」
「なんでや?」
「なんでって・・・」
口ごもっているほんの少しの隙間から、テレビの音が漏れ聞こえてくる。
「コッシーもあらみゆも結婚しよったしな・・・」
コッシーとは越村塔子、あらみゆとは荒井美憂の事である。その理由を聞いて、すかさず私は言い返した。
「何?それって、私が独身やから仲間を連れてこうとしてるんやろ?」
「この位の歳って微妙やん」
「ええやろ。洋子には仕事があるんやし。胸張って行けばええやん?」
それでも少しぐずる洋子が、急に声のトーンを上げた。
「あ!もしかして、四十九日って事は、あっち行ってるって事なん?」
「そうやけど・・・」
しまった。私は内心急に焦りだす。
「同窓会の日が法事なん?そやったらさ、次の日会わん?」
私の返事が煮え切らないから、洋子が催促する様に付け足した。
「まさか日帰りじゃないやんな?せっかくの機会やし日曜に会おうや」
「日曜が法要やから・・・」
「え~?!じゃぁ、来られるやん!」
「いやいや・・・母の荷物整理しないと、やし」
「そやな・・・。寂しいわぁ、めっちゃ近くにおるのに」
懐かしい言葉で話すと、少し最近の日常から解放された様な心地がする。
「磯ポン、結婚の予定とか・・・あるん?」
「安心しいや。ぜ~んぜん、無いわ」
私があははははと明け透けに笑うと、洋子も後を追う様に笑った。そして私は、ちょっぴり勇気を出して質問した。
「仕事はどうなん?順調?」
「そやな。そっちはバッチリなんやわ」
「凄いやん!」
自分でも気張った声を作る。
「その分、恋愛運と結婚運 底ついてるみたいやわ」
そんな風に冗談で言える洋子に余裕を感じる。
「磯ポンは?アパレル業界でバリバリやっとる?」
「そんなバリバリって程でもないんやけどな」
「またまたぁ、ご謙遜を」
電話を切った後で、私は大きな溜め息を吐く。張っても仕方のない見栄を張ってしまった自分が情けない。そんなモヤモヤした気持ちを吹き飛ばす様に、冷蔵庫から缶ビールを出し、プシュッと開けた。
次の日もまたその次の日も、変わらない日常が巡り続ける。私にとっては苦痛しかない職場になってしまった。営業部の部屋から出ると、無意識に大きな溜め息が漏れる。まるで今まで息を止めていたみたいにだ。そんな私にとってランチタイムは8時間労働をする上で、欠かせない息抜きの時間だ。昔はお弁当を持って行ったり、買って来て食べる事もあったが、今は何とかして外に出る。外回りに出ると、報告を出さなければならないから面倒なのだ。その点、ランチタイムは堂々と外に出られるから、ほっと息をつけるのだ。エレベーターで一階に降りると、そこには外回りから戻ってきた蒼太が立っていた。
「これから昼?」
「はい」
「あっ、じゃあ一緒に行こうよ」
「いえ・・・」
そんな私の返事など聞いていない。どうせ一人で誰かと約束してる訳じゃない事位知っているからだろう。
「何食うつもりだった?」
「私・・・一緒に行くって言ってませんけど」
少し憎まれ口を叩いてみる。
「またまたぁ」
蒼太はこれ位ではビクともしないのだ。私はそれが分かっているから、安心して憎まれ口を叩ける。
「しけた顔してるから、今日はパーッと豪勢にいくか?焼肉とかしゃぶしゃぶとか。ご馳走しますよ」
「結構です。ご馳走して頂く理由ないですから」
「先輩が後輩に昼飯おごるのに、理由なんかいらないでしょ?」
「でも、いいです。自分の分は自分で払いますから」
それを聞いて、蒼太は鼻で笑った。
結局、駅前にあるカウンターだけの定食屋に入る。回転が早い店だけあって、少々待っている人がいても すぐ席が空く。ここは注文してから出てくるまでも早い。だからサラリーマンには人気の店だ。
二つ並んで空いた席に座ると、セルフサービスの水を二つ私は運んだ。
「おう、サンキュ」
気が利くのではない。黙って座っていたら、何か聞かれそうで嫌なのだ。だから私はあえて、カウンターしかない店を選んだ。隣の人とも近いこの店はゆっくりするには向かない場所だ。じっくり話したい時にも不向きだ。
「喜美さぁ・・・」
私は一瞬身構える。
「取引先、最近挨拶回ってる?」
「・・・・・・」
場所は関係なかったらしい。この場所でこの状況でも聞いて来るのだから。
「大丈夫なの?」
「・・・何がですか?」
「顧客管理だよ」
「・・・メールでやり取りしてますから。呼ばれたら、ちゃんと行ってます」
「呼ばれなくても、用事が無くても、定期的に顔出して挨拶回りしなきゃ駄目だろ?」
「・・・・・・」
「ま、そんなの喜美だって分かってるよな」
「・・・これから気を付けます」
蒼太は はぁとため息を吐いた。
「・・・やる気・・・戻んない?」
「・・・・・・」
「新規開拓、一緒に回ろっか?喜美が入りたての頃みたいにさ」
「主任は新入の大野君の担当じゃないですか」
「大野はもうそろそろ一人立ちした方が良さそうだから、いいんだよ」
「私・・・新規は取りません。だから、大丈夫です。ありがとうございます」
「なんで?また一から新規開拓して、コツコツ繋ごうよ」
「いや・・・いいです」
「・・・浅間店長のとこ切れたの、相当傷深いんだな」
「・・・そんなんじゃないです。もういいんです、あれは」
「じゃ、どうしてよ?」
するとそこへ、蒼太の注文した生姜焼き定食が目の前に届く。私は箸立てから割り箸を一膳渡して言った。
「どうぞ、お先に」
「いいよ、待ってる」
いつもそうだ。付き合っていた時も、絶対に先に食べ始めたりはしない人だった。いつも私の分まで揃ってから、一緒にいただきますをしていた事を思い出す。
「冷めちゃうから、どうぞ、熱いうちに」
「ありがとう」
そう言うが、箸を置いて水を飲む。こういう優しさも変わっていない。不覚にも昔を思い出したりして、私の胸が急に切なくなった。それを自分でごまかす為に、慌てて喉へ水を流し込む。
「私のも もう来ると思うんで、ホント、気にしないで先食べて下さい」
「そうだね」
絶対にこちらの言った事を真っ先に否定したりしない。そんな所も好きだった一つだ。
割り箸を持ってみるが、まだ割らない。味噌汁をふうふうしている。
「熱そうだなぁ」
「猫舌ですもんね」
「あれ?覚えててくれてんの?」
しまった。勝手に頭の中で昔の事など思い出したりしていたら、思わず口走ってしまった自分の失態に、冷や汗が出る。
しかしその場の空気を救う様に、私の注文した白身魚フライ定食が届く。
「あ、丁度来たね」
これも昔、彼から良く聞いていた台詞だ。いかにも待っている素振りをせずに、同じタイミングで食べ始めようとする彼の口癖の様なものだ。
黙々と食べていると、蒼太が急に『あっ』と声を上げた。
「生姜焼き、ちょっと食う?」
「いえ・・・大丈夫です」
「好きだったよね?生姜焼き」
「好きですけど・・・」
「旨いから、食ってみろって」
「ほんと、大丈夫です」
箸でつつき合う事は、もう出来ない。それなのに、全然それを蒼太は分かってない。
「それ、旨い?」
「はい・・・」
「ちょっと、食ってみたい」
私は一瞬躊躇したが、箸の反対側でフライを切った。
「箸なんかいいよ、そのまんまで」
そういう訳にいかない。私の中での線引きがある。
「分かってれば、初めに取り分けたのに。すみません」
蒼太が白身魚フライを一口口へ放り込んだ。
「このタルタルソースが旨いんだよな」
呑気なものだ。そう思っていると、蒼太が今度は箸の反対側で生姜焼きを一口取って 私の皿によこした。
「じゃ、お礼。食べてみて」
私の中に戸惑いが無いと言ったら嘘になる。こんな食べ方、他の後輩や同僚ともするのだろうか。だから私は店を出た後、聞いてみる事にした。
「大野君とも・・・ああやって、交換したりして食べるんですか?」
「大野とはしないなぁ」
やっぱり。私はそう思うと、さっきの光景を思い出し後悔の念が押し寄せる。すると、蒼太が言った。
「だってアイツ、何でもマヨネーズ掛けちゃうんだもん。せっかく旨そうだなって思っても、気が付いた時にはもうマヨだらけだから」
大野の顔とそのエピソードを想像して、私は思わず吹き出してしまう。そんな気持ちが緩んだ隙に、蒼太がさっきの話題を持ち出した。
「喜美が、もう新規開拓しないって言うの、なんで?」
「・・・いいですって、もうその話は」
「良くないよ。また生き生き仕事してる喜美、見たい」
「・・・・・・」
「俺のプロポーズ断った時、何て言ったか覚えてる?」
「・・・・・・」
「今はとことん仕事に打ち込みたいって」
返す言葉もない。もうそれを出されたら、こっちは手も足も出ない。
「誰だって挫折もスランプもあるよ。でもそこ超えたら、もっとデカい仕事出来る様になるんだからさ」
励ましてくれる言葉も、今は耳を素通りしていく。そしてそれが悲しくもあった。
「今の私にエネルギー使わないで下さい。その分、他の子達の育成に力入れてあげて下さい」
それから数日程経った日の出来事だった。会社のトイレに入っていると、二人組の話声が聞こえてくる。端の個室に私が入っているのに気が付いていないのだろう。誰もいないと思って、油断した噂話が聞こえてきた。
「金子主任と磯山先輩、ヨリ戻ったって事あるかな?」
「私も思ったぁ。最近またよくツーショット見掛けるよね」
「磯山先輩が仕事への熱冷めたから、もしかして結婚なんて事もあるかもよ~」
「なんかさぁ、職場で内緒で恋愛とか、めっちゃドキドキしそう。スリルあるわぁ~。ちょっと憧れるわぁ、社内恋愛」
「わかるわぁ~。でもさ、あの二人の事今やもう皆知ってるじゃん。誰が言い出したか知らないけど、噂って怖いよね~」
「まぁね。あの二人は普通に仕事の関係を貫いてるって感じだけど、たった一人の軽い口で、一気に広まっちゃうんだもんね」
「人の噂話って皆好きだしね」
そう言って二人はきゃははははと笑った。
「私なら、もっと上手い事内緒にして そのドキドキを楽しんじゃう」
「誰かいる?その対象になりそうな人」
「それこそ主任かっこいいなって思うけど、元カノ知ってんのはキツイっす」
「だね~。しかも、同じ職場で毎日顔合わすの、見張られてるみたいで かなり気まずいよね」
「そうなると、営業部には居ないかな。でもこの前、総務課に行った時ね・・・」
話が弾んでいる様子で とても終わりそうもないから、私はジャーと勢い良く流して、ドアを開けた。すると鏡に映った私を見て、口を開けたまま固まっている営業部の後輩達が突っ立っていた。
「どうも」
私はそう挨拶をして、手を洗った。気まずい空気がトイレ全体を包んだので、私は手を拭きながら鏡越しに後輩に言った。
「主任とヨリ、戻してないから。誤解しないでね」
そう言い残して、私はトイレを出た。
嫌な事は続くものだ。何故だろう。負のスパイラルに完全にハマっている自分を、何故かちょっと他人事の様に思う。不思議だ。怒りとか悲しみとか憎しみとか、色んな感情に疲れると、人は一回その感情を手放す様だ。だから当然喜びの感情も薄くなる。今までは、家でバラエティー番組を見ながらゲラゲラお腹を抱えて笑っていたが、そんなテレビさえどうでもよくなりつつある。私は本格的に転職を考え始めたのだった。