第13話 母の願い
13.母の願い
年末となり、先日本社と都内3店舗の従業員で 佐田の送別会が開かれた。一軒目焼き肉屋、二次会カラオケ、三次会に残った数名がいつも飲み会の最後を締めくくるというバーラウンジに私も来ていた。本当なら二次会にも行かない様なタイプだが、佐田が最後まで私を帰してくれなかったのだ。酒好きの佐田といつも最後まで付き合う仲間は決まっている。その中に今日は私だ。一体どれだけ飲んだら崩れるんだろうと思う程、佐田は酒が強い。そして佐田のいる宴会はいつも無礼講で、周りも気兼ねなく楽しむ。それは佐田が、周りのテンションや年代に合わせて時々砕けた事を言ってみせたりするからだが、肝心なところではしっかりしている。だらしなく酔っぱらったりはしない。
いつものボックス席に落ち着いた皆は、さっきのカラオケボックスの反動で少し大人しい。その中の一人が言った。
「佐田先輩!寂しいっす!居なくなっちゃうの」
半分目が閉じかけているが、今にも泣きそうな声を出す。
「あ~今井、出た出た。酔うと泣き出すんだよね~。これ始まると面倒なの」
佐田があっさりと突っ込む。しかし続いてもう一人、梅谷が片手を挙げた。
「先輩!ミラノ店出来たら、私呼んで下さい。もう一回一緒に働きたいですっ!」
「皆ありがと。次会う時には、お互い今よりでっかくなって会おうね」
こういう場面を見ると、本当に後輩や部下達から慕われていた事が分かる。先日自分がKSプランニングを退社した時とは大違いだ。自分の人望の無さに改めて閉口しそうになる。
「喜美ちゃんはさ・・・結婚しないの?仕事一筋にやってくつもり?」
今日の焼肉屋での送別会の終わりの方から、佐田が私の事を『喜美ちゃん』と呼んでいる。その質問にどう答えるか、他の皆も興味津々だ。
「一生しないって決めた訳じゃありません。ただ、今は予定なしです。仕事に打ち込みたいって思ってます」
「彼氏は?」
「いません」
「どれ位?」
色んな人が色んな質問を飛ばす記者会見みたいだ。
「2年半・・・位ですかね」
「あ~、第一次結婚ブーム 逃したわけだ」
佐田が笑った。
「マネージャーは・・・結婚しないって決めてるんですか?」
「ううん。一回も決めてなんかないわよ。ずっとするつもりで来てたし。だけどね・・・難しいわ」
「お付き合いされてる方、いらっしゃるんですか?」
私がその質問をした途端、皆の空気がちょっと変わる。
「え?聞いちゃいけない事聞いちゃいました?私」
佐田がふふふと笑って、私を見た。
「喜美ちゃんは、私の失敗談を反面教師にするのよ」
「え?」
誰から言い出すのかを待っている空気が充満している。
「皆さんは・・・ご存じなんですか?」
誰も口を割らないから、仕方なく佐田が曖昧な相槌を返す。
「自分じゃ言いにくいから、ほら、誰か言ってよ」
その権利を部下達に託す。その中でも一番佐田との付き合いの長い友辺が、小さいボリュームで囁いた。
「・・・社長と・・・」
「え?!」
拓磨に紹介されて面接をしてもらったのが、JPの社長だ。ゴシップ感たっぷりの感じに思わず声を上げてしまったが、私は同時に疑問が湧いてくる。確か面接の時、余談で家族の話をした記憶がある。奥さんと娘さん二人がいると話していた。私の頭が混乱する。
「え・・・だって社長・・・ご結婚されてませんでしたっけ・・・?あれ?それがマネージャー・・・?」
混乱している私を、佐田が一人で笑い飛ばした。
「仰る通り。社長は奥様も娘さんもいらっしゃるの」
「え・・・?」
何か嫌な予感がする。私の苦手な不倫とか、そういった可能性がぐっと増す。
「私達が付き合ってたのは、遠い遠い昔の話。社長が独身時代の話」
一瞬ホッとしたのと同時に、社長はその間に結婚して子供まで生まれたにも関わらず、同じ職場で働き続けられた佐田の精神力の強さに驚く。どこか自分と蒼太の未来予想図を見せられている様で怖くなる。
「社長が結婚した時とか、子供が生まれた時とか・・・大丈夫でした?へこみませんでした?」
これだけは経験者に聞いておきたい。そんな逸る思いから、つい私も背もたれから離れて身を乗り出した。しかし、佐田は含み笑いを見せるだけだった。そして一言、
「人は何回だってやり直せる」
そう自分に強く言い聞かせてきたんだと納得して、私が椅子に寄り掛かろうとした時、佐田はその後にもう一言だけくっ付けた。
「・・・って思ってきたけど、恋愛はそうはいかないね」
ドキッとした。私の心臓がぎゅっと何かに掴まれたみたいに固まる。そんなしんみりした空気を一蹴する様に、佐田が今度は声高らかに笑った。
「・・・っていう、私の失敗談」
未だに実家の取り壊しの日に立ち合いに行くか、決めかねている。荷物の整理は この間蒼太と一緒に行った時に大分したから、後は年末の休みに入ってから行けば、何とかなるだろう。あの時と違って、今度こそは一人であの家に入らなければならない。最近はあの時に持って帰ってきた母の日記を読むか読まないか、毎晩の様に悩んでいる。
「お母さんがどんな事考えてたか、読んでみたら?取り壊しの前に読んだ方がいい様な気がする。なんなら一緒に読もうか?」
変わらずに優しい拓磨がそう言ってくれるが、もし蒼太の事が書いてあったりしたらまずい。私は、年末実家の片付けに行く時に、持って行ってそこで開けてみようと決心した。
佐田とも別れの時が刻一刻と迫っていた。年内最後の営業日、閉店まであと2時間と言った頃、店に蒼太が顔を出す。一年の挨拶回りだ。佐田が今日までと聞いてこの時間に来るあたり、蒼太らしい。
「短いお付き合いでしたけど、来年からは磯山と宜しくお願い致します」
「こちらこそ。向こうに行かれてもお元気で。またお仕事ご一緒させて頂ける日が来る事、楽しみにしてます」
相変わらず爽やかな笑顔だ。仕事をしている蒼太を見ながら、そんな事を思う。
店を後にした蒼太の後ろ姿を見ながら、どんな正月を過ごすのだろうと気になる。この間言っていたお見合い相手と会ったりするのだろう。もしかしたらお正月に正式に両親に挨拶に行ったりして、来年はいよいよ結婚の準備に進んでいくのだろうか。遠くなる蒼太の背中を見ながら、本当にどんどん遠い人になっていく現実味が増してくる。
「何考えてたの?」
そんな私の肩をぽんと叩いて、佐田が言った。
「来年から、仲良く頼むわよ」
「喜美ちゃん、お正月、うちの実家来る?」
拓磨からの誘いだ。
「店、2日の夜から開けるんだって。初詣客が毎年結構流れてくるからってさ。出来たら、また手伝いに来てって」
「3日の昼間ならお手伝いに行けると思う」
「お袋がさ、お正月一人じゃ寂しいから、うち泊まりにおいでだってさ」
店の手伝いはいい。でも、お正月に泊まりで行くのは、やはり駄目だ。何故かは言葉で上手く説明は出来ない。でも、やめておいた方が無難な気がする。勘違いの元になる。
「お気持ちだけ、ありがとうございますって、伝えて。4日はもう予定が入っちゃってて」
こんなありきたりな嘘、いつまで続けなきゃいけないんだろうと自分に問う。
「拓ちゃんは?年末年始は実家に帰ってるの?」
「う~ん、まだはっきりとは決めてない。喜美ちゃんと初詣も行きたかったし」
また私の頭の中ではありきたりな嘘を考え始める自分がいるが、それにストップをかける様に、拓磨が間髪入れずに言葉を繋いだ。
「実家の店の近くにさ、神社があるの。三日、そこにちょっとだけ行こうよ」
こんな言い方されたら、断りにくい。
「商売繁盛の神様だからって、親父達はいっつも新年明けて早々にそこにお詣りに行くんだ。喜美ちゃんも、仕事上手くいくようにお願いしに行こうよ」
尚更断れない。くさびを打ち込まれた気分だ。これが電話で本当に良かったと思うのだった。
私は母の日記を鞄に忍ばせ、両親の墓参りに来る。大して汚れてはいないけれど、墓石を無心になって掃除して、周りの落ち葉を集める。花を生けて、両親や祖父母の好きだった日本酒と焼き団子を供える。線香の煙が立ち込める中、暫く手を合わせていると、また前と同じ木の枝がカサカサと揺れた。風はない。鳥でも止まっていたのかしらと木を見上げるが、その姿は見えなかった。
『お母さん、ここに居るんだ』
この前蒼太が言った言葉が、耳の傍でもう一度聞こえた気がした。
「お母さん・・・あの家・・・なくなるんやて・・・。ごめんな」
少し声に出して話してみる。
「私会社辞めて、今な、新しい会社入ってん。もう一回頑張ってみようって思うてる」
すると、また木がカサカサと音を立てた。
「・・・応援してな」
その時、12月にしては珍しいふんわりとした風が高台を吹き抜けていった。私は、まだ続けた。
「日記・・・読んでもええかな・・・」
鞄から母の日記を取り出す。
「読むの・・・怖いわ」
し~んと静まり返っている。私は恐る恐る表紙を開けた。母の温かい筆跡が懐かしい。それだけで、これを書いている母の姿が想像出来る。
兄も私も実家を出た後の、両親二人での生活の様子が綴られていた。決して派手ではないけれど、小さな小さな幸せを地道に積み重ねた様な暮らしが 手に取る様に分かる。父も母も言いたい事を言い合って、仲良く気兼ねなく暮らしていたんだなぁと知る。中には、決して子供達には見せない父のお茶目な一面も書かれている。お互いがお互いを、本当に必要とし合って暮らしていた事が見える。そう感じると、不思議と母の死も受け入れられそうな気がしてくる。父に先立たれ、失望の中を過ごした母だったから、ようやく父の所に行けたんだと思えてくる。
「お母さん・・・もう寂しくない?」
そう墓石に呟いて耳を澄ます。風も木のカサカサもない。しかし少しすると、どこからか鳥がついばむ可愛らしい声が聞こえる。少し安心して、日記のページをめくる。
父を失った失意の日々が毎日毎日延々と綴られている。母の字体も弱々しく変わっている。読めば読むほど胸が苦しくなる。そんな中に急にしっかりとした字が戻ってくる。私が蒼太と一緒に帰省した日だ。
『今日は喜美が素敵な青年を連れて帰ってきた。なんでも、結婚を前提にお付き合いしてるのだという。お父さんが生きとったら、どんな顔したかしらと思いながら彼と話をしたけど、なんとまあ 素敵な好青年で安心した。喜美にはきっとああいうゆったりとした人が合うんやと思う。ちょっと、お父さんと出会った時の事を思い出してしまって、恥ずかしくなったけど、それ位お父さんの若い頃に似とる気がした。この結婚、上手くいってくれればいいなと思う。久し振りに、明るい我が家に戻った日でした』
私はそこで日記を閉じた。後から後から溢れてくる涙を止めたくて、私は瞼をぎゅっと閉じた。
「ごめんな・・・お母さん」
そう独り言を私は何度も繰り返す。気が済むまで・・・そう思ったが、何回繰り返せば私の気が済むのだろう。そう思う程、何回も何回も呟いた。すると又木の葉のカサカサが聞こえる。母は何と言っているのだろう。私の最後に出した決断に、母は納得してくれているのだろうか。それとも『あほやね』と言っているのだろうか。
「あほやな・・・私」
カサカサが強まった様に感じる。
「でもな・・・もうやり直せへん・・・」
一瞬びゅっと冷たい風が吹き抜けていった。と同時に、足元のごみ袋が飛んでいきかける。それ程の強い風が高台を抜けて行った後、再びし~んと静まり返った。母に喝を入れられた様に感じる。
「もう皆、前に進んどるんやで。あの家やって、蒼太やて」
何の音もしないから、私は話を続けた。
「蒼太ね、お見合いしたんやって。蒼太も34やし、ご両親も心配しとるって。で、お相手の方が良い人やってん・・・近い内結婚するかもしれへん」
木の葉の音も鳥のさえずりも風の音もしないままだ。
「私は・・・今の仕事精一杯して・・・ほんで・・・」
そこまでしか言えない。そこまでしか決まってないのだ。頑張る頑張ると言っておきながら、何の将来のビジョンも無いのだ。
「私・・・拓ちゃんの事・・・嫌いやないよ。そやけど・・・結婚ってピンと来いひん。お父さんもお母さんも凄く良い人やし、あんな家族に入れてもろたら幸せやなって思うけど・・・」
私はしゃがんで、再び話し始めた。
「お見合い結婚って、こんな感じなん?好きとか愛してるとか そんな感情は薄くても、この人と生活していくんやって思えたら・・・大丈夫なん?」
勝手に自然の声と母の声を重ねているのに、今の話題になったら急に母からの返事はない。
「お母さんってば!」
私は空に向かって、少し大声で叫んだ。
「もっといっぱい話したかってん。もっといっぱい話聞いてもらいたかったんやで。もっといっぱい一緒におりたかったんやで。私だけ置いて行かんといてや。一人になってもうたやないの!」
溢れる涙が後を絶たない。
「こんなん、誰に相談したらええの?誰もいないやん!お母さんおらんくなったら、誰も相談できる人 おらんのやで」
さっきまで煙っていた線香も、もう燃え尽きていた。今日は曇りでお日様も出ていないから、時間も分かりにくい。暫くぼーっとして頬が乾くのを待つ。時計を見ると、3時を過ぎたところだった。私は立ち上がって、もう一度最後に手を合わせた。お墓の前を立ち去る直前で、また木の葉がカサカサと音を立てた。思わず足を止めて振り返ると、再びふんわりとした風がゆっくりと私を包み込んだ。
実家への坂を下る。今日はこの間と違って蒼太はいない。一人だ。だからやはり勇気がいる。実家の前に来るが、門に手を掛ける前に私は深呼吸をした。もうこれからは一人だ。一緒に付き添って入ってくれる蒼太はいない。後ろで『大丈夫だよ』と言ってくれる人はいないのだ。蒼太も前に進み始めた様に、私も一人で歩き始めなければならない。そう思って自分にエンジンを掛ける。
門の前でじっと立っていると、後ろから声がする。
「喜美ちゃん?」
振り返ると、そこには近所の仲さんの奥さんが立っていた。
「この家、売ってまうんやて?」
「あ・・・はい。色々お世話になりました」
「寂しゅうなるわ」
私は軽く会釈をした。
「喜美ちゃん、こっち帰ってこうへんの?」
「・・・帰りたかってん・・・仕事しとるし・・・」
「そやなぁ・・・」
仲さんの奥さんは、私をじっと見て 口をもう一度開いた。
「お母さんなぁ、いっつも喜美ちゃんの事、心配しとったで」
「・・・心配?」
「そや。『喜美は女の子やから、東京の一人暮らしは心配や』って」
「母、そんなん言うてました?」
「言うとったで、会うたんび。『喜美はしっかりしとる様で、もろい所ある子やから、周りの人に恵まれたらええんやけどな』って」
今になって聞く母の本音が、私の胸に突き刺さる。親がどれだけの思いで遠くから見守っていてくれていたかと思うと、瞳の奥がじ~んとする。
「そやからお母さん、今でも喜美ちゃんのずっと傍におるで。寂しくなんかないで」
まるで母の声の様に聞こえる。私は深く頭を下げて、実家に入った。
し~んと静まり返った家の中は、やはり辛い。しかしあえて声を出してみる。
「ただいま」
もうこうやって帰る事が出来なくなるのだから、今のうちに言っておこう。
居間を覗くと、母の大好きだった縁側にさっきまで本人が座っていた様な気がする。先日帰った時のまま動いていない座布団を見ては、蒼太が枕にして眠っていた姿を思い出す。私はもう一度自分に気合を入れて階段を上がる。母の部屋のふすまを開けるのも気が重たい。この間は下に蒼太が居てくれたから、どこか心強かったが、今日は本当に一人だ。だから私はあえて、また声を出した。
「お母さん、入るね」
ふすまを開けると、そこはこの間来た時のままになっている。アルバムは全部家に持って行こうと、段ボールに先日詰めたのだ。蓋はまだ閉めていない。もちろん中を見る勇気はない。この間見られなかったんだから、今日はもっと無理だ。きっとその内大丈夫な日が来る。そう信じて家に保管するのだ。私は持って来たガムテープで封をすると、宅配便の送り状を貼り付けた。
台所の食器棚を遠巻きに見る。生前両親が使っていた茶碗や箸が並ぶ。懐かしい食器類を見れば、そこに盛られた母の料理まで思い出す。子供の頃の食卓が賑やかに頭の中で再生される。食器棚の奥からは、兄と私が子供の頃使っていた茶碗まで出てくる。私の茶碗に入ったひびを見て、25年前の映像が思い出される。私はおままごとの様にお手伝いをしたくて、母がよそってくれたご飯を配っていた時だ。
『しっかり持ってな』
と言われた言いつけを守って、両手で茶碗を包むように慎重に運んでいたのだ。しかし炊き立てのご飯が熱くて熱くて、茶碗を持つ両手が火傷しそうで私は思わず床に落としてしまったのだ。お手伝いが上手く出来なかった悔しさと、お気に入りの茶碗が真っ二つに割れてしまった悲しさで私は大泣きしたのだった。そんな私を母が優しく慰めてくれたのだ。真っ赤な手の平を見て、母が氷で冷やしながら、頭を撫でた。
『ごめんな。お母さんがしっかり持ってなって言うたからやな。お母さんがあかんかったな』
『新しいお茶碗買うたるわ』
と言ってくれた母に、私は頑として受け入れなかった。
『喜美、これが好きや。これでなきゃご飯食べへん』
当時から私は頑固だったんだなぁと改めて思う。しかしそんな無茶な言い分を母は聞いて、くっつけてくれたのだった。そのお茶碗を懐かしく取り出すと、私はタオルに包んで鞄にしまった。
居間に来て縁側の窓を開ける。先日蒼太と来た時に咲いていた金木犀は、当然のことながら今はもう葉だけになっている。日も暮れ始め寒くなってきた風を遮る為に窓を閉めると、私は母が一番好きだった縁側に腰かけて日記の続きに目を通してみようと決心を固めた。
物忘れが酷くなり始めた時期に入ると、めっきり日記を書く回数が減っている。月に何日かしか書かない時もあれば、一日に何回も書いている日もある。介護施設に入所後も日記は続いていた。やはりここでも母は父の帰りを待っていた。父は遠くに単身赴任をしているとでも思っている様な内容が書かれてあったりする。父の死を受け入れられずに心が崩壊してしまった母を思うと、やはり日記は辛い。しかし私はもう少し読み進む事にした。すると、施設に自分が会いに行った時の事が書いてあるページを見つける。新しい記憶はすぐに忘れてしまうのに、この日は私が帰った後も訪ねた事を覚えていたという事だ。
『今日、喜美が会いに来てくれた。最近の私は、何だか覚えとる事が曖昧でどうなってしまったんやと心配や。しかし喜美と話しとるとそんな事忘れてしまう。でもその喜美が今日、元気がなかった。前に会った彼をまた連れてきてと言うと、もう連れて来られへんと言って凄く悲しい顔をした。別れてしもたと言う。どんないきさつかは話してくれなかったけど、もしかしたら私の心配をしたのかなと思う。喜美に言いたい。自分の幸せを一番に考えるんやでって。いつかは私もあの世に行ってしまう。きっと喜美より先や。そやから、私が居なくなった後も、寄り添って励まし合いながら生きていける人を手放さんといて欲しい』
この一ページを読んで、私は日記を閉じた。もうこれ以上読むのは無理だ。今は無理だ。放心状態になりそうな自分を必死に保ちながら庭に背を向けると、先日この居間で蒼太が二回目のプロポーズをした事を思い出す。そうだ。きっと蒼太はこの日記を読んだのだ。私が別れを選んだ理由も、きっとこれで察してしまったのだろう。もしかしたら最後に母が繋ごうとしてくれた 蒼太との縁だったかもしれないのに、なんて私は馬鹿なんだろう。今更もうどうしようもないのに、後悔しかない。もし母が生きていたら、やはり今の状況を残念に思うのだろう。営業部長とそれなりにでも上手くやれるよと励ましてくれただろうか。今思うと、あの時会社で味わった上司とのいさかいも、当時思っていたよりも小さい事の様に感じてくる。時間が経ったからだろうか。それともあの環境から飛び出したからだろうか。この蒼太との結婚を諦める程、譲れないものだったのだろうか。今となっては、もう当時の自分の本心さえも分からなくなりつつあるのだった。




