第1話 空っぽの実家
17話の連載です
皆さん、どうぞ最後までお付き合い下さい
1.空っぽの実家
母の告別式の後に、初七日の法要も同時に無事済ませ、兄の哲夫は喪主としての役割を果たすと、大きく一回息を吐き出し ネクタイを緩めた。
「俺明日から仕事やから、これで帰るわ」
「うん。お疲れさま」
「お前、今夜急がんのやったら、少しお袋の荷物 整理してくれへん?」
「・・・・・・」
返事を返せない私に、兄嫁のさつきが気を遣う。
「喜美ちゃんやって、そんなすぐに・・・ねぇ」
「そやけど、そうそう東京からこっち出て来いひんやろ?」
実家は奈良の盆地にある。ここは父方の祖父母の代から住んでいる所で、母は23歳で結婚して長男の嫁としてここに嫁いできた。母の出身は新潟だったから、関西の田舎に嫁いでからは 様々なしきたりの違い等で随分苦労をした様だ。ここで両親を最後まで世話取りし、子供達もそれぞれ巣立っていき いよいよ夫婦二人で第二の人生をと思っていた矢先の父の他界。仕事中の急な発作で、そのまま帰らぬ人となってしまった父の亡骸に、母は暫く現実を受け入れられずにいた。高校卒業後から上京していた私が一報を受けて飛んで帰った時に見た、母のその様子は今でも瞼の裏にはっきりと焼き付いている。それからだった。母が少しずつおかしくなっていったのは。父を失ったショックから塞ぎ込む様になり、家で過ごす日が続いた。このままでは鬱になってしまうんじゃないかと心配していた頃、母の物忘れが気になり始め、それがあっという間に加速していき、認知症との診断を受けた。東京で仕事をしていた私と、京都に住んでいる兄家族、どちらも田舎に帰る決断が出来ず、母を介護施設に入れる事にしたのが約2年前の事だ。仕事の休みを使って時々母の面会に行っていたが、行く度に母の顔つきが病人になっていくのが、きっと兄には辛かったのだろう。兄は月に二回ほど会いに行っていた回数が段々減って、最後の方は用事がないと行かない様になっていた。私は月に一回は、と思いながらも なかなか思う様にスケジュールが取れず、2~3か月に一回顔を見せる位だった。今思えば、日帰りだって何だって、もっと行ってあげれば良かったと思う。きっと母は寂しくて寂しくて、最後まで寂しさを胸いっぱいに抱きしめて逝ってしまったのだと思うと、やはり後悔しか残らない。
その もう誰も住まなくなった築40年近く経つ実家の土地の売却を、兄は考えているらしい。昨日 お通夜の終わった夜、実家に戻ってきた時の事だ。
「お前ももうこっちに戻って来いひんやろ?ほな、ここ処分して残った金を遺産として分けた方が 邪魔臭うなくてええやろ?」
「叔父さん達、賛成してくれるやろか?」
「ええやろ。もう爺さん達もおらんのやし」
正直、私は乗り気ではなかった。家族で過ごした幼少時代の思い出が詰まったこの家が、姿形 全てなくなってしまう。数年後には全く知らない誰かの家が新築されている事を想像すると、やはり切なくなる。そうなったら、どこに両親の面影を辿ればいいのだろう。
私がなかなか快諾しないでウジウジしていたから、兄の哲夫が少しイラッとした顔を見せた。
「ほな、お前ここに戻ってきて住む気あんの?」
それにも返事が出来ない。実はここ半年位、職場を辞めてしまおうか迷っていたからだ。少し嫌な空気になりかけたところで、さつきが言葉を挟んだ。
「そんなん急に言われたって、喜美ちゃんやってね・・・」
一人残った実家で、私は重たい腰を上げて 施設から戻ってきた母の荷物を開けてみる。母の気に入って着ていた服。手編みのベスト。母の日にプレゼントしたタオル。一つ一つにまだ母の温もりが残っている様な気がして、涙がじわりじわりと溢れてくる。
「ごめんね・・・お母さん」
そして私は、荷物の入った段ボールの蓋を閉めた。
その晩、東京行の新幹線の中で、私は兄の哲夫にメールを送る。
『実家の荷物の整理は、また近い内に行ってやります』
休み明け、会社に出勤した私は京都駅で買ったお土産の八ツ橋を皆に配って回る。そして同じ部署の先輩である金子蒼太が煙草を吸いに部屋を出たのを見計らって、後を追う。誰もいない喫煙所で、私は紙袋を差し出した。
「お心遣い、ありがとうございました」
香典返しだ。
「大変だったね・・・。大丈夫?」
「はい」
気丈に返事を返すが、到底笑顔にはなれない。すると、蒼太が言った。
「前お会いした時は、お元気だったのにね・・・」
「・・・・・・」
実はこの蒼太と2年前まで付き合っていたのだ。その当時、一緒に実家に帰った事がある。父が亡くなって、間もなくの頃だった。何とか母に元気を出してもらおうと、結婚を前提にお付き合いしてますって挨拶に行こうと 蒼太の方から言ってきてくれたのだった。
「俺・・・行かなくて良かったのかな・・・」
「親戚やお兄ちゃんの手前、面倒な事になるからいいんです。今は、何でもないんだし」
蒼太は、少し考えてから また口を開いた。
「今度喜美が行く時にさ、一緒に連れてってよ。お墓参りさせてもらいたいし」
「ありがとうございます。四十九日の法要が終わって納骨済ませたらで。気に掛けて頂いて、ありがとうございます」
深くお辞儀をして私が戻ろうとするところへ、後ろから蒼太が呼び止めた。
「俺にできる事あったら、何でも言って」
私の胸はきゅっと一瞬痛くなる。しかし私はほんの僅かの笑顔を作って、振り返った。
「お気持ちだけ、有り難く頂戴します」
再び頭を下げて、私は仕事へと戻った。
定時の5時を合図に、私はデスクから立ち上がる。
「お疲れ様でした。お先失礼します」
すると、周りの人達が手を動かしたまま『お疲れ~』と返事だけ返す。私もいちいち人の顔など見たりしない。9時から5時まできっちり仕事をこなして帰る。ただそれだけだ。ここ半年位、そんな生活が続いていた。だからといって、帰りに寄る所がある訳でもない。もちろん習い事も始めてなんかいない。大学を卒業して、憧れていた服飾関係の会社の営業職に就いて7年。寝ても覚めても仕事の事を考えている位、自分の精一杯を費やしてきた。この7年の間には、その情熱を買われてプロジェクトリーダーに抜擢された事もある。しかし約半年前のある出来事から、私の心にはすっかりシャッターが下りてしまって、情熱をぶつける先を見失っていた。
母の葬儀から戻り、一週間程した ある日、いつもの様に定時きっかりに仕事を終えて営業部を出たところで、喫煙所で煙草を吸い終わった蒼太が声を掛けた。
「これから、どう?飯でも行かない?」
正直、私の中に躊躇する気持ちがいっぱいある。
「終わったんですか?もう仕事」
そんな返しで、返事をせずにごまかす。
「バッチリ!」
親指を立てて見せる蒼太。あとは私の返事次第だ。
「今日・・・」
言い訳を必死で考えていると、蒼太の方が一歩早く言葉を出した。
「何もないだろ?行こ!」
会社から割合近くに出来たうなぎ屋だと案内され、のれんをくぐる。4人掛けの掘りごたつタイプの個室が幾つもある店内で、照明は少し抑え気味で落ち着いた雰囲気だ。向かい合わせに座りおしぼりで手を拭いて、メニューを見る。会話はない。自分から話題を作る気持ちにも、正直今はなれなかった。先に口を開いたのは蒼太だった。
「土用の丑の日、うなぎ食った?」
「ううん」
「だろ?うなぎ食って、元気出そうと思って」
明るく振る舞ってくれる蒼太に、今は建前の笑顔を出すのもしんどい。
蒼太が見繕って注文した新潟の地酒八海山の冷酒が、まずテーブルに届く。ガラスのおちょこを一つ、蒼太は私の前に差し出した。
「私、飲まないよ」
私は別れた元カレとは絶対に酒は飲まないと決めている。いつの頃からだか覚えてはいないが、酒なんかのせいで間違いを犯したくないからだ。そのせいでこじれた話も沢山聞いている。だから、これだけは絶対に守り通してきているのだ。
「分かってるけど、これお母さんの分だと思って、今日は一杯だけ付き合ってよ」
蒼太が冷酒の瓶を傾けた。それでも私がおちょこの口を伏せたままでいると、蒼太はそれを手に取って、並々と注いだ。
「お母さんと一緒に、八海山飲んだなぁ」
そう言いながら蒼太は、自分の方にも同じく注いだ。おちょこを手に取って掲げてみせるが、やはり私はそれを手にも取らずにいると、蒼太がおちょこを私の手に握らせた。
「乾杯くらい、してよ」
無言でグラスを合わせる。鈍い音が小さく二人の空間に響いた。蒼太が一気にそれを飲み干すのを見て、私はグラスに口をつけずにテーブルに置いた。
「むこう、暑かった?」
「うん。雨だったから蒸してた」
「そっか・・・」
天気の話は無難だ。困った時は天気の話に限る。
「次また向こう行くのって・・・」
「納骨の時。9月」
私は空になった蒼太のグラスにお酒を注ぐと、水を一口飲んだ。
「俺が前行ったの、確か8月だったよね?」
「うん。お父さんの新盆だったから、夏休みに2泊3日で行った」
「そうそう。お盆の時期でめちゃくちゃ混んでたんだ」
「あっちは、お盆行事が盛んだからね」
そう話していると、瞼の裏に浮かんでくる母の映像がまだ鮮明で、亡くなった実感が湧かない。
「確か、お墓も家から近かったよね?」
「うん」
「じゃ、お母さん寂しくないね。お父さんの所に行けたんだし、いつも見てた景色とそう変わらない風景に囲まれてさ」
「・・・そうかな・・・」
私の表情がきっと凄く重たい色を醸し出していたのだろう。蒼太はすぐには何も言わずに、私の様子を窺ってから言った。
「また兄弟で実家に集まってあげればいいじゃない。お兄さんとこ、チビちゃん達いるんでしょ?」
私は少し話すのを迷ったが、目の前の蒼太の顔を見ていたら、何だか自然と口が動いてしまった。
「あの家、処分して売っちゃおうかって」
煙草を吸おうとしていた蒼太の手が止まった。
「・・・そうなんだ・・・」
「うん」
「・・・喜美も、賛成?」
私はゆっくりと首を傾げた。
「仕方ないかなとも・・・思う」
さっきつけようとしていた火を、ようやく蒼太は煙草につけた。
「でも・・・あっち戻ってもいいかな、とかも思ったりして」
蒼太の左の眉が反応した。蒼太の無意識の癖だ。
「喜美が?」
「まだ、お兄ちゃんにも言ってないけど」
「・・・そうか・・・」
「でも、処分して残ったお金を遺産分けするなんて言ってたから、私が住む事にしたら分けられないか」
「財産分与も色んな形があってさ、例えば喜美が家を相続して、お兄さんは預金とか・・・」
「多分、預金は殆どないと思う。母が施設に入る時の費用や毎月の支払いと、葬儀代諸々引いたら、大した額にはならないんじゃないかなぁ」
「じゃ、土地の名義を兄弟二人にしたら?」
「・・・処分したお金、当てにしてたとしたら、悪いよね・・・私が住むなんて言っちゃったら」
蒼太は煙草の火をもみ消しながら言った。
「喜美はさ、なんであっちに戻ろうと思うの?」
核心に触れてくるから、私は一旦おしぼりで手を拭いて自分を落ち着けた。
「そりゃ思い出が詰まってる家だし、無くなっちゃうの寂しいし。すっごい古いけど、あそこがあれば、いつでもお父さんやお母さんの事思い出せる気がするから」
不覚にも目の奥にじ~んと熱いものがこみ上げてきてしまったから、私は慌てて立ち上がった。
「ごめん。トイレ行ってくるわ」
泣きそうになったから席を立った事くらい、きっと蒼太にはわかっている。長い付き合いだから。
席に戻ると、うな重が来ていた。蓋を開けると、湯気と共に甘辛のたれの香りが鼻をくすぐった。
「美味しそう」
一口 口に運ぶと、その途端6月に最後に母に会った時に『うなぎ食べたいなぁ』と言っていた事が思い出される。結局食べさせてあげられずじまいで終わってしまった事に、後悔が残る。
「どう?旨い?」
私が何も言わないから、蒼太が私の顔を覗き込むように感想を聞いた。
「うん・・・」
そう返事を返すのが精一杯で、私は溢れてきてしまった涙を隠す様に俯いた。黙々と食べる私の方へ顔を向けずに、蒼太が言った。
「向こうで泣いて来なかったんだろ?」
「・・・・・・」
「ちゃんと一回、思いっきり泣いた方がいいよ」
こんな時に、優しい言葉はやめて欲しい。反則だ。全然うなぎの味が分からなくなってしまうではないか。私は心の中でそう叫びながら、箸を口に運び続けた。
店を出て、駅まで歩きながら蒼太がさっきの話の続きを持ち出す。
「向こう帰ったら、仕事どうすんの?」
「そりゃ、再就職よ」
「当て、あんの?」
「ある訳ないでしょ。また一から出直し」
こういう肝心な言葉を聞き分けて、蒼太は私の横顔から真意を読み取ろうとしている。長年の付き合いだから、きっと嗅覚が働いてしまうのだと思う。
「今の職場、・・・もう限界?」
私は無表情のまま前を向いて歩き続けた。
「なんで?私、なんか言ったっけ?」
「い~や、何にも」
「じゃ、誰かから何か聞いたの?」
「そうじゃないよ。見てりゃ分かる」
「・・・じゃ、見なくていいよ」
「見ようとしなくても、見えちゃうんだよ」
私の胸が少しきゅっと縮んだ。
「小さい会社の同じ部署だからね」
私はそう言ってから、もう一つ言葉を足した。
「そういうのも、あっちに戻ろうと思う理由の一つかな」
「・・・俺?!」
「正直、やっぱやりづらいわ」
「なんでよ?職場の仲間として、この2年上手くやってきたじゃない」
「・・・・・・」
蒼太の選ぶ言葉に、いちいち胸が切なくなる。私は大きく息を吸い込んでから言った。
「そういうんじゃなくてさぁ。・・・私なんかの心配してないで、早く誰か結婚相手見つけなさい。もう34なんだから」
「それと、喜美が会社辞めるのと、何が関係あんだよ?」
「そりゃそうでしょ?このまんま居て、元カレの結婚のお祝いなんて、私は良くても周りが気使うでしょ」
「随分先の心配するんだね」
「先じゃないわよ。いつ何がどうなるかなんて、分かんないじゃない。それに反対のパターンもあるからね。私が結婚しますってなったら、それもそれで気まずいでしょ」
「・・・そういう人、いるの?」
「・・・今はいないけど・・・」
私は呟く様にボソッとそう言った。
「でも、心機一転したい気持ちもあるの」
「・・・そうか・・・」
駅の煌々とした明かりを目の前に、私は立ち止まった。
「コンビニ寄ってから帰るから、ここで」
蒼太と私は同じ方向だから、一緒の電車に乗ったら 30分また共に過ごす事になる。私はそれを何とか回避したかったのだ。
「待ってるよ」
「明日もあるんで、どうぞ先輩お先にお帰り下さい」
私が会社モードの話し方に切り替えると、蒼太はそれを察して、一人駅の中へ入って行った。
第一話、お読み頂きありがとうございました。
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