つばめのわく谷
1
早くも崖ではツバメが鳴きだしていた。村の男衆には狩りの始まりを告げる声だった。その姿をみて、子どもたちも真似をして喜んでいた。長じて狩人となる少年たちの最初の学習とは季節の理解だったが、今のエスにはツバメも季節も関係なかった。
息をのんで、エスは目を大きく開いていた。「獲物を前にしたら、まず静かに眺めて、相手の特徴、仕草、習性をのみこむのだ」年寄りは初めて狩りへとむかう息子たちに何度もいいきかせた。まだ幼いエスでさえ訓示は頭にしみこんでいた。今こそ、その実践をすべき時だと自然と理解した。
目のあたりにしているのは、ひとつの遺体だった。昨夜から続いた雨のせいで、全体を覆うエナメル材の表面には水が浮き、真下の曲線に従いながら、様々な形で伸縮していた。墜落のダメージと戦ったスーツはすり切れて、脚から腹部にかけてところどころ爆ぜたように裂けていた。まるで堅い殻をもつ熟れた果肉のような、色素の薄い肌をしていた。もっとも派手に裂けていたのは、大きく溢れでている胸で、白く重たい乳房が左右に流れていた。その先端はぼんやりした淡い紅色でエスを見つめ返していた。
こんな女はみたこともなかった。遺体の発見とは別種の珍しさ、美しい甲虫や渡り蝶を見つけたときのような感情がエスの中に現れた。口の中は乾いて舌さえ張りついているのに、脇の下を冷たい汗が滑っていった。
すくうように乳房を掴むと、熱が手に噛みついてきた。エスは思わず声をあげて飛び退いた。「生きてる……」尻餅をついたまま、エスは血の気が引く音を聞いた。なにが起こったのか思い出そうにも、落雷じみたショックは記憶の一部を吹き飛ばした。唯一の証人たる指も痙攣ばかりで話にならない。
後悔と似た感情が立ちこめていたが、それでもエスは這うように近づいていく。恐ろしげな胸部は迂回して、ゆっくりと首から上に自分の顔を横から寄せた。
かすかに開いた薄い唇から、かすかに息が出入りしている。その頬に触れると、今度は冷たかった。エスは両手で包むように女の顔を挟んでみた。そのまま冷たさを感じなくなるまで、エスは女を静かに見つめ続けた。
遠くでツバメが鳴きかわしていた。耳を澄ませば川の流れくだる音も届いた。これほど長い時間をかけて、人の顔を眺めたのは初めてだった。それでも瞬間瞬間に新たな発見があった。光を吸いこんで輝く銀灰色の髪も、葉の細胞のように整った肌質も、尖った耳さえ魅力を累乗させていった。
エスはゆっくりとからだを起こすと、腰から背中にかけてこごっていた筋が音をたてた。エスは周囲に気を配りながら女の背中から脇に手を差しいれて、イーナバルの生い茂るさらに奥へと引きずっていった。「だれかに見つかるかもしれない」不安を払う恰好の仕事だった。エスにとってこれは初めての獲物だった。どれだけ重かろうと、喜びの方が勝っていた。
木の根本が絡み合う場所に女の頭を乗せて、からだに落ち葉をふりかける。くまなく隠すにはまるで量が足りなかったが、かわりの案はすぐに浮かんだ。
エスは村へ飛んで帰った。戻ってくるときにはわずかばかり毛皮と医薬品とを携えていたが、着替えと食料を忘れてきたため、女が目を覚ましてからまた往復した。
翌日、エスは隠し場所を移した。前から目星をつけていたそこは大岩で立ちふさがれているようにみるが、その裏にわずかな入り口が隠れている。中は天井が高く、奥はどこまでも続いていた。人ひとりが隠れひそむには申し分ない。エスはここに落ち着いた。
女はよく食べ、よく眠った。ユチャーブスの薬もてきめんにきいた。生傷の多い男衆が手放さない薬だ。材料である薬草のにおいが刺激的だが、およそ擦り傷から骨折まで、あらゆる外傷に効き目があった。
顔に生気が戻り、自分でからだを起こせるようになるまで、七日とかからなかった。これにはエスも内心で舌をまいていた。薬に慣れてない分、劇的な効果があったのかもしれない。
幾日たっても、女はなにもしゃべらなかった。頼みの傷薬もからだの内側までは手がまわらないのか、エスが話せば反応は示すが言葉らしきものはまるで出てこない。なんとかしなければと心配するものの、苦しそうな様子もない。ふと「声が出ないのは好都合ではないか」と思い至って、女はしゃべらないのが普通になった。
もっと困ったのは女が赤ん坊に戻ってしまったことだ。ひとりではまだ歩けず、手と膝で這う大人の姿は異様だった。目についたクビワナガムシをつかんで振り回すし、手あたりしだいに葉をむしって口いっぱいにほおばっては泣きだすありさまには、エスもほとほと手を焼いた。あるときなど岩の間に挟まるように眠っていて、急に目を覚ましたものだから頭を打って、そのあとはもう手もつけられなかった。
着替えをさせるのも楽ではない。女の服には縫い目がなく、脱がして広げると一枚の布地に戻った。からだに合わせると、生き物のように手足に巻きついて袖や胴に変わるらしいと、エスは理解した。かわりに毛皮をなめしたユチャーブスの衣服を着せると、ずいぶん見劣りがした。なにより女の体には小さすぎて、胸や臀がすぐにめくれ上がってしまう。直してやるたびに女はふざけてわざと巻き上げる。その所作はこどものそれだが、服の下からのぞく乳房は大きすぎて半分も隠せていない。男物の上着があればいいが、数が少ないのでくすねればすぐにばれてしまう。エスは仕方なく、服のすそを直しては、女がそれをめくる遊びがしばらく続いた。
服を与えた代わりに、エスは女の元の服をたたんでしまっておいた。いつか女が正気を取り戻したとき、それを着て帰ってしまうのではないかと恐れて、みつからないよう、ふところの奥へと突っこんだ。
エスの生活に新たな習慣がくわわった。夜明け前に家を飛びだして女の飲み食いの世話をして、森から学舎へと向かった。長い午後にはいくらでも女の元へ通う機会はあった。通うたびに女は全身で喜びを表現するので、エスも日に何度も顔を出した。
シシの干し肉に、果物と飲み物を平らげるのを待って、エスは話し始めた。
「あれはツリツバメの声なんだ」指さす方向に鳥の影はなかったが、人をあざ笑うような気味の悪い声はここまで届いてくる。
「捕まえられるものなら捕まえてみろって、そういってるんだ。まっすぐな岸壁に巣をこしらえて、卵を産む」
女は入り口の岩にもたれながら、エスをぼんやりと眺めて、話に耳を傾けている。
「けど、おれたちは待ってるんだ。卵がかえって雛になって、大人になるのを待つんだ。巣立ちの夜、谷はツバメで一杯になる。そのときだ」
実際に目の当たりにせずとも、ユチャーブスの子はみてきたように話せてしまう。学舎ではもちろん、家でも母親が嬉々として教える。母親自身もみたことはないのだが、ツバメ狩りの様子を語ってきかせるのはなぜか女親の役割と昔から決まっていた。
「大長老が手回しの風琴を回すと、音にツバメたちが集まってくる。それを男たちが片手網で素早くツバメを捕まえていくんだ。ツバメを持ったら、こう腹を割いて、肝の間に隠れた玉を抜くんだ。よく切れる刃で手早くやってのけないと、ツバメの傷口は開きっぱなしになって死んでしまう」
熟練者が処理したツバメは、肝臓から指先ほどの固まりが摘出されたことも気づかず、飛んでるうちに傷跡もふさがってしまう。この玉がユチャーブスに莫大な富をもたらしていた。
「風琴の音は谷の壁にぶつかり合って、わんわんと長く尾を引くんだ。だから大長老も男衆もツバメの巣で作った耳栓をつめて……」
ほかに話題のないエスにはこれが精一杯だった。それでも女は微笑をたたえながら、エスのする話に耳を傾けていた。
子どもの話とは大人には退屈なもので、村ではまともにきく者もない。けれども、明確な聞き手がここにはいて、気がよくなったエスはいろいろなことを、大人が子どもにきかせるように、話していった。
「森は危ないから、ひとりで入っちゃいけない。なにか近づいてきたら穴の奥へ逃げろ」
「川は山からの土が混じっている。山の土は毒だから、川の水は飲んでも入ってもいけない。水がほしいなら持ってきてあげるから」
「他の人間はなにを考えているかわからない。おれ以外と会ったり話したりしちゃダメだ」
歩けるようになってから、エスは女を連れ回った。女と一緒だと、普段見慣れた風景も別物に変わった。
川へ行くと女は目を輝かしていた。「ここでみつけたんだよ」と教えても、それが自分と関係しているとはわからない様子だった。
森へ入ればなおさら女の興味は増した。敷物のような苔に覆われた森で、女は転がって遊んだ。厚い苔が女を受け止めて、その緑毛の海がさわさわと肌をくすぐるのが気持ちいいらしい。もう赤ん坊のような振る舞いはみせなくなったが、直接心身へ届く刺激にはまだ抗いがたいらしい。
そのたびに例のごとく服の裾が上がってしまうが、もう女はそれを自分で直すことを覚えていた。手をわずらわせなくてすむことより、エスは自分の教えたことを女が覚えた事実の方がうれしかった。次はどうしようか考えるのは楽しかったし、おかしなことを教えてはいけない責任感のようなものまで芽生えはじめていた。
けれどもせっかく女のくせが直ったのに、その手で隠されたものが今になって惜しくなっている自分にエスは気づいた。恥じらいさえみせながら衣服を整える姿も、それでも小さすぎる布地からこぼれるようにのぞく肌も、エスの心にさざ波を立てた。いや、心だけではなく、身体にも影響を及ぼしていたがエスが気づかぬふりを貫いた。それが鎌首をあげると息苦しいながらも心地よかった。心臓が打つたびに気持ちが高ぶってくる変化に対して、陶酔にも似た境地にひたっているのが関の山だった。
ある夕方のことだった。
エスはたしかに妙な胸騒ぎがしていたが、それが自分で気づいたものか、まわりに大人のただごとではない様子に触発されたのか、はっきりしたところはよくわからない。しかし風は意味ありげに音をたてて吹きつけて、村のヤマイヌたちはそろって遠きまで響く声音で鳴いた。「なんだっていうのかしらね」女たちが表に出て騒ぎはじめた。
ふってわいた喧噪の隙をついて、エスは村を抜け出した。こんな時間に、自分のためでもなく出歩くのは初めてだった。すでに洞穴の女はエスの身内にも等しい。それをこんな不吉な予感のするときに、放っておくわけにはいかない。知らず知らず、エスは早足になっていった。異変に気がついたのは、川をわたったあとだった。
よく見知った森も、昼間とはずいぶん様変わりしていた。吹きつける冷たい風はヤツデカズラをおびえさせ、背の高い木々は、いっせいにその梢を大きく揺らして異常さを囃し立てていた。いつしか紫色の空に雲がわき、あたりはカバウルシを刷毛で塗りたくったように黒一色でのまれてしまった。もう手を伸ばしても指先がわからない。注意深くやれば触れられそうな闇である。「夜になってから森には入るな」大人たちが戒めていたのはこれだった。まさかこれほどとは思ってもみなかった。
エスは歩き続けた。腰を下ろして落ち着いてもよかったし、不安に耐えかねて走っていってしまう方法だってあった。けれども、すでにエスは落ち着いていたし、同時に不安でもあった。どちらに舵を切っても、洞窟はおろか二度と村に戻れない気がして、エスはとぼとぼと歩き続けるのを選んだにすぎなかった。飛び立つなにものかの翼のはためき。低い鳥の声と、高い虫の音がこだましていた。目がきかないだけ、聴覚が限界まで引き上げられているようで、森のささやきは昼間よりも賑やかでさえあった。だからそれほど怖くなかったとはならない。未知への恐怖はずっとエスの全身を縛りつけていた。いつしか村を飛びだしたことを棚にあげて、自分をこんな目に遭わせた洞窟の存在自体を憎みだしていた。まぶたに浮かぶのは洞窟の入り口で、数ある穴のなかでもそこは特別だった。その奥には女がいる。女の存在だけがこの無明に許された灯火だった。灯火は透明で、実際に目前を照らす役には立たない。それでもないよりずっといい。
女の手がエスを捕まえなかったら、それこそ動けなくなるまでさまよっていただろう。
掴まれたときはエスは飛び上がったが、においが駆け出す気持ちをやわらかく包んだ。エスは振り返った。振り返ってわかるほど、森の夜は薄くない。けれども、そこに女がいると、エスにははっきりとわかった。
手を引かれたまま歩いていくにつれて、じょじょに女のにおいが濃くなっているような気がした。エスは顔をあげた。すると、わずかながら後ろの闇とは違う色が形をなしていた。色味が人の形をとり始めると、女がいつもの微笑でエスを見つめていた。
指をさすと、洞窟の前がぼんやりと明るくなっている。星灯りよりも弱い、白くて淡い光だったが、群生しているせいで暗さに慣れた目には十分だった。目をこらしてみれば、それは茸だ。茸が笠を重ねていて、その裏が光っている。息を吹きかければ消えてしまいそうだが、そのおかげで洞窟の入り口がありありと照らし出されていた。
ずっとまぶたに浮かんでいた入り口と、寸分違わないものが目の前にある。底まで乾ききっていたエスの器に、喜びが滝のように注がれていった。エスは逆に女の手を引いて、先に奥へと入っていった。
中は表よりも明るかった。天井には星々の輝きがあった。エスはつま先立ちでそれを眺めたが、ちらちらとまたたく様子や隣の星にそっと寄り添う姿は、他のものとは思えなかった。けれども、その星の配置は、普段見慣れたものとは著しく異なっていた。
洞窟に住むコケバエの幼虫で、青白く発光に招かれた小虫は垂れ下がる粘液の鳥もちに引っかかって、絡め取られてしまう。この幼虫の漁り火が天井全体を覆って、洞窟の形をなぞるように奥まで続いていた。そんなこととは知らないエスは、初めて目の当たりにする自然現象に、震えるような感動を覚えていた。神がかった美しさは、畏敬の念を呼び覚ます。一歩二歩とたたらを踏んで、その場でかしこまらなかったのは、ひとえに背中を女が支えていたおかげだった。
女は横座りになると、毛皮のなかにエスを誘った。ここで一晩を過ごさねばならないことに、エスはようやく考え至った。
もちろん今から村へは戻れない。たとえ戻れたにしても、かばい立てしてくれる大人はあるまい。どうせ怒られるならば、とエスは身の振り方をみずから決した。なにより一晩中、女のそばにいられる喜びが大きかった。
不思議な光にてらされて、間近でみる女の顔は、いつもと違ってみえた。髪は初めて出会ったときよりもずっと伸びていた。ユチャーブスの村にはいない白い肌も、もはや恐れるものではなくなって、エスだけが触れるのを許された宝玉のようだった。やさしさをにじませる明るい緑の双眸にも、わずかに突き出された口元にも手を伸ばしたかった。おそらく女は許すだろう。しかし触れてどうしたいのか、まだエスにはよくわからなかった。わからないのに、衝動だけが宙づりになって揺れていた。
ひとつの毛皮に入っていると、ずっと暖かかった。毛皮以上に女の体温が直接エスにしみこんでくる。わざとからだを押しつけると、沈むような弾力があった。エスの両腕を捕らえる肌から、その奥で震える鼓動まで、あたかも自分で育てたような満足感で占められていた。たしかに食事を運び、貴重な水をかすめてきたのはエスだった。けれども今、こうして頭を幾度もなでられている姿は、逆に介抱されているようで、飼育者になんの威厳もありはしない。拒まれないのをいいことに、エスはさらにからだを密着させた。ふくよかな胸元に顔を埋めると、天井をてらす灯りもみえなくなった。ふたりの間で汗が空気に溶けだしていく。そのにおいのなかで、エスは足をよじって下履きを脱ぐと、直接に相手の腰回りにすりつけた。身のうちに猛る熱を解放できないエスは、それでも全身をけだるくさせる新鮮な感覚に、かたく冷えきっていた心が崩れだしていた。夜の森が締めあげた鎖のひとつひとつが、女のにおいに、肌に、ほどけていった。
エスが楽になっていく様子は、女にも通じていた。エスの世話で今がある。その恩人にいい目をみせてやりたい。それかなった満足感が、女の側にももたらされていた。すでにエスの体温も安定して、もう女よりも暖かい。女は足を絡めて、その暖かさを抱えながら、毛皮を引き上げて眠った。
天井に瞬くコケバエの灯りが遠のいて、互いを求め合う彫像は降りつもる暗闇に覆いかくされていく。洞窟の入り口をてらす菌類の発光は、本物の曙光が森に一撃をくわえるまで続いた。エスがさまよった木々の間も、初めに女がいきだおれていた淵も、今はまだ深い夜陰の底である。ゆえにその雑音は微小ながらも我が物顔に際立ち、およそ耳を澄ますあまたの生き物に等しくメッセージを送っていた。
「連絡せよ、こちらの準備はすべて整っている、合図を……連絡せよ」
雑音が求める相手は、そこにはいなかった。音もなく飛び立ったジャコウフクロウの爪にかかり、どこかで小動物が餌食になった。するともう、さっきまで雑音はかき消えてしまって、どこから発していたのかもわからない。
2
ひながかえったあとのツリツバメは森や川面でエサ集めに奔走する。特徴的な鎌形の翼と二股の尾。崖から飛びたつと、人里だって恐れない。どれだけのツバメ捕りの達人でも、飛んでるツバメにはなすすべがない。それを知ってか、ときに人の顔のすぐそばをかすめていく。おどろいて尻餅などつこうものなら「ツバメになめられた」と烙印を押されて、大人でも仕事にさしさわる。
けれども、後ろ指をさすのが習慣とはいえ、相手が悪かった。口さがない子どもの群れも、水を打ったように静まりかえっていた。
その女はおっくうそうにからだを起こして、尖らせた口元から細く長く息をついた。
「おい、ヒーンが……」と声をかけた少年は、その日もっとも運がないひとりだった。駆けよってきた女から張り手を二枚ばかり食らい、三発目の前にようやく他の子どもたちに守られるように退却した。女もそれ以上は追わず、手を振り上げたまま見送った。
今年、ヒーンは十二歳を迎えていた。もう子どもの年齢ではないが大人ともいえない。仕事を任せても投げ出すし、叱れば逆に噛みつき、大の字に寝そべって泣きわめいたりと手に負えず、まわりはもちろん親さえなにもいわなくなった。限度を超えた傍若無人さをたてに、ヒーンは気のむくままに暮らしていた。
あたりを警戒しながら村を出るエスをたびたび目撃していたのもヒーンだった。エスが行方をくらまして翌朝に戻ってきた日、ヒーンは村の大長老に呼びだされていた。大長老が個人を呼びつけるなど珍しく、ヒーンも興味を惹いた。見物半分、その召喚に素直に応じた。説教を始めだしたら蹴りとばせばいい。
「存外早かったね」大長老は四十を超えても声にはまだ張りがあって、のびのびしていた。長寿祝いだか魔物払いだかで幾重にも巻きつけられた着物のせいで、すでに人の形を失い、三角形に移ろうとしていた。その頂点では剃り上がった頭部が汗で鈍く輝いていた。
「ヒーン、エスのことなんだけどね」大長老は本題を待たなかった。「しばらく、あの子から目を離すんじゃないよ」
ヒーンは怒ったふりをしていった。
「どうしてわたしに頼むの」
「だって、村でひまそうな間抜けはあんたしかいないじゃないかい」
「忙しいわ」
「じゃあなぜひとりなんだい、学舎でも村でも」大長老は物言いはやわらかいが、その目はヒーンの胸を貫いて、影さえ縫い止めんばかりに冷淡だった。
「まわりと同じものをみて、同じように感じる訓練を、あんたは怠っている。その責めを受けているのに、逆にあんたはまわりを見下して得意になっている。いいや、得意になるのはかまやしないが、得意の代償をなにも払っていない。それをあたしはとがめるんだ」
普段は置物のような大長老がこれほど流暢に話している。あまりの出来事にヒーンは反抗する気も消しとんで、完全に飲まれてしまっていた。
「ヒーン、あたしはまだ覚えているよ」大長老はさらに小娘を追い続ける。「いつか星を出ていくといったね。たしか星間連合のような場所で働くんだったか」
ヒーンにとってははるか昔である。大きくなったらなにをするか。大長老の前に並んで話す儀式だったから、およそ五年以上はたっている。しかしよりにもよって星間連合か。ヒーンは恥ずかしさに吐きたくなったが、大長老は矢継ぎ早に言葉を詰めた。
「そのために今日なにをした。なにを学び、なにができるようになった。森をさまよい歩き、男衆のツバメ捕りのまねごとをして、星間連合とどう結びつく?」
ヒーンの顔は真っ赤になっていた。もう恥ずかしさより怒りが勝っていた。耳はよくきこえなくなり、ごうごうと猛る風がこもったような音が渦巻いていた。とりあえず落ち着いて言い返す言葉を考えたかったが、「もしここで座ったら二度と立ち上がれない」不安がよぎって、くたびれていた足に力を込めて姿勢を保った。
「それでも……!」そうやって絞り出した反論は、とても太刀打ちできないとわかっていたが、素直に言い含められるよりずっとましだった。食いしばった歯の間から言葉がにじみ出た。「それでも、他の連中みたいに木の実捕りや針仕事なんて、死んだってイヤ!」
「だからさヒ-ン。行くべき場所がわかってるのに、行こうとしない奴を間抜けってんだ」
叱るのでも、なだめるのでもなく、大長老はヒーンの思ってもみない答え方をした。
「あんたは他の間抜けと比べたら、ちったあマシな間抜けだよ。あんたには概念がある。明日は違う自分になっているという概念が」
「よくわからないわ」
「夢ってことさ。間抜けはそんなもんみようともしない。持とうとも思わない。今日一日を無事に暮らせればいいって手合いさ」
そういうと大長老は袖から手を出して、取りだした長い煙草の先をあぶって吸い込んだ。そして大穴のような口を開けると、部屋は一面が煙で真っ白になり、勢いにまかれてヒーンはひっくり返ってしまった。煙のせいで上も下もわからず、大長老の言葉は右から左からヒーンの聴覚をかき回した。
「あんただけだよ、あたしの前で夢を語ったのは。他はありきたりの仕事ばかりで、おもしろくもねえ。だからあたしは覚えている。『ああ、こいつはバカなんだな』って年甲斐もなくうれしくなっちまってね。だからそのバカを見込んで頼むんだが」
背中が床について、からだは静止した。しかし目の前では煙がふわふわ揺れているせいで、まるで心は安まらない。そんな気も知らず、大長老の本題はようやく終わりにさしかかった。
「エスはなにか隠している。まあ、たいしたものを隠しちゃいないだろうが。それを暴いておいでヒーン。あんたがいいようなやり方でね」
わたしの責任ですべてやれってことだ。煙幕に写る自分の影に向かって、ヒーンはいいきかせた。もしそれで取り返しのつかないなにかが起こったとしても、このババアはきっと同じように煙草を吹かしているにちがいない。けれども、その突き放し方があまりにあんまりだったせいで、思わず相好を崩してしまっていた。うれしいなんて気持ちは、この数年にわたって覚えがない。
ヒーンは大長老の依頼を受けると決心した。どうしてこのババアが村のまとめ役などしているのか、わかったような気さえした。
村を出て崖とは反対側へ進むと、しだいに道は下り勾配を帯びていく。全体によく日が当たるので、果物の生育がいい。親に連れられて娘が木の実捕りを覚える場所だった。その先はより開けて、植物の丈は短くなり、広い空にはツバメが何十となく走っていく。ツバメの餌は虫だ。森にも虫はいるが、鳥はもっと先を目指す。緑が切れるとそこには土を固めた堤防が盛りあがっている。ツバメに負けじとヒーンも駆けあがると、視界がさらに広がった。
川は幅だけで村をのみこめるほど大きかった。雨期を前に水位は低いが流れの勢いは衰えていない。さらに河口まで厚い泥が底に堆積していて、そこに有害な化学成分が含まれている毒の川だ。星から鉱業がなくなっても十数世紀たらずでは浄化にはほど遠い。
死の川でも鳥には無関係だとばかりツバメたちは川面にわく羽虫をすくい取っていく。虫にも微量の毒素が含まれ、それを雛のうちから体に蓄えていき、じょじょに肝に玉をなす。これを集めて星外に売って、ユチャーブスは莫大な外貨を稼いでいた。つまり毒の川がなければユチャーブスの民は生きていけない。必要な水は星の外から買った。どれだけ法外な額でも、ツバメの肝がもたらす富の足下にも及ばなかった。
大量のツバメの間を縫うようにヒーンは橋をわたっていった。この吊り橋をわたった先が、エスがなにか隠していると大長老が目算をたてていた場所だった。
人の立ち入らない森をヒーンは刃物で幹に傷をつけてながら進んでいった。地を這う苔の一部が痛んで枯れ始めていた。その手がかりを慎重に辿りながら、獲物のあとを追っていく。
森の奥の洞窟を目の当たりにしたのは初めてだった。「百年の何倍も昔、人間どもが鉱山を開いたあとさ」大長老がいれば、そう答えただろう。
とうとう行き着いた洞窟の入り口に、ヒーンの目は釘付けになっていた。
見たこともない人間だった。蔓で留めた後ろ髪はたっぷりの陽光を受けて輝いていた。自分の色がくすんでみえるほど、肌は白くきらめいていた。着ているものはユチャーブスのそれでも、背丈も手足もなにもかもが別次元の造形物で、うらやましい気持ちすら起きなかった。
「外の人間……」そう結論づけるしかない。
木陰に身を伏せていると、ついにエスが洞窟から出てきた。ふたりは言葉をかわしていたが、なにを話しているのかまではきこえない。
はじけるように笑う女はみずみずしく幼子の風だが、成熟したからだはヒーンの知るどの大人よりも美しかった。すなわち大きな背丈をバランスよく保つ筋肉質な全体像、それでいて肉付き豊かな乳房や臀部は生殖の可能な年齢に達していることをみるものにアピールしてやまない。現在、その間近にいる異性はエスだった。両者が互いのからだを抱きかかえたときは、「このまま交合がはじまるのではないか」と気が気でなかったが、ふたりは唇を触れあわせただけで別れた。ツバメが飛びたつようにエスは森へと帰っていった。その後ろ姿を女はじっと見送っている。
ふたりの距離が不安定になって、ヒーンは気づかれた間抜けぶりに舌打ちした。地を這うような慎重なやり方を脱ぎ捨てて、苔むす倒木の上へ身を躍らせる。木々の間を縫いながら追う様はヤマイヌの狩りそのものだった。全身がしなり、着地の衝撃がそのまま次の跳躍につながる。双眸は標的だけを中心におさめて、ともすれば噛みついてでも取りおさえる構えをみせる口元にはとがった牙さえのぞいていた。山林になれたユチャーブスの民でも追跡者、特に獲物を発見してから捕らえるまで瞬間的な力に限れば、この時のヒーンはだれよりも早かった。
エスもよく逃げた。身の丈にあった道を見つけて転がり込む方法は存外に奏効し、急接近するヒーンのあぎとに幾度も遠回りをしいた。
そのたびにヒーンはわざと木の幹に頭部をぶつけて、ふがいない自分を罰した。こめかみから直接脳髄を刺激する痛みは熱へ変わり、もっと早く駆けよと鼓舞する鞭になった。 ついに森は切れて、エスの身を隠すものはなくなった。先に横たわるのは大河と、一本道の吊り橋のみだった。勝利を確信したヒーンはさらに勢いを増す。
その時、獲物は最後のあがきに、橋のたもとで左に舵を切った。それが追い詰められたエスの絞り出した、あまりにも無謀きわまる策だった。
ヒーンは森の中で捕まえるべきだった。川の前に出してはいけなかった。
エスはそのまま流れへと突き進んだ。幼いだけ、まだ恐怖が身に染みていない。だからユチャーブスの誰もが恐れる毒の川は、エスだけに見えた唯一の脱出口だった。魚を真似て体をよじり、手でかき分けて先へ先へと進む。振り返ってみたのは「逃げ切った」と快哉を叫ぶための確認にすぎないはずだった。
しかし、エスは知らなかった。追跡者も輪を掛けて無謀だった事実を。
ヒーンの泳ぎはさらに早かった。太い流れの渦さえその加速度を阻む障害になりえなかった。かつて泳いだ経験があったのだろうか。いや、正真正銘、ヒーンは今、初めて川の水に触れていた。しかし追いつく目的だけに集中していたヒーンは、すぐに水の特性を理解し、それをからだの動きに反映させた。上手く浮かない、前に進まない、そのためにどうすればいいかを考えて、すぐに実行した。泳げている現実は、わずかなすきにおびただしく累積させた試行錯誤の結果にすぎなかった。
ユチャーブスでは学舎を作り、そこで大人から知識を次世代に受け渡される。そこで川について聞かされていた子どもなら、岸辺であきらめていただろう。ヒーンだけがそんなことは考えない。たとえ川が崖であっても、ヒーンはそのまま飛びこんだはずだ。
生き物が群れて暮らしていると、必ず変種が現れる。他と姿かたちが異なるせいで成長しにくい変種は、同時に種の袋小路を打破する可能性を秘めている。
まさにヒーンは白いツバメだった。ここに大長老の読みは的中した。
「エス!」ヒーンは水をかぶりながら、ついに獲物の襟首に手を掛けた。腕の中に巻き込んでもなおも逃げようとするエスに頭突きを喰わせながら、岸へ戻ろうと振り返った。
川の向こうはぞっとするほど流れていた。川は幅に比例して、中央の流れは速くなる。まして水中で足の浮いた子どもが、どうして助かるだろうか。勢いに飲まれて溺れるか、体力と体温を失って溺れるか、そのどちらかしか選べない。もちろんどちらも選べない。
すぐさまヒーンは息を深く吸って、潜水した。千々に荒れる波頭は避け得たが、底には遅く太い流れが目に見えるようだった。小さな子どものからだは落ち葉ほどの力もない。しかしヒーンはツバメだった。服を脱ぐ妙案は滑空するツバメの姿から想起した。風に帆を上げる船のように底流の力を利用しようと画策したが、子どもの衣服では小さすぎて帆に向かない。筒袖も流れが逃げて非効率だった。
その時、エスの懐には黒い布地がくしゃくしゃになって突っ込まれていた。それを引ったくって広げると、まさに大きな一枚布が流れの前を遮った。ふたりを押し流す速度は一気に倍増した。
それは、女が巻き付けていた着物だった。袖や胴を作らない、ただの一枚の布地を着ける星外の風習が役立った。いや、本当に役立っているのか、今の時点ではまだわからない。ツバメのように鎌形の翼で流れに乗る姿を想像していたのに、むしろ逆とさえいえた。優美さはかけらもなく、やはり落ち葉と変わらない。
しかし、その落ち葉は操縦ができた。右腕を引けば流れが左に逸れて、ふたりを右手へ押していく。舵を器用に切れば、このように顔を水面まで上げられた。胸にしがみついたエスの重量のおかげで安定している。その表情には余裕さえ浮かび始めていた。再び底へ潜ると、馴染みの流れに乗る。すでにどうすれば岸へ着くのか、岸へ上がったらどうするのかが手に取るようにわかった。あとはその軌跡をたぐっていけばいい。何度も練習した狩りを本番で同じようにやる安心感と似ていた。
上陸する場所は村よりずっと下流のはずだから、どうやって大長老のところまで戻るかを考えていたヒーンの目から火花が散った。視界の端で信じられないほど大きい流木が、ゆっくりとヒーンの肩にめりこんで、離れていった。支配を失った布の片側は激しくはためき、エスとヒーンを再び無力な落ち葉へ戻した。不思議と痛みはなかった。ただなんの考えも浮かばない脳裏で「どうやってエスを村へ届けようか」ばかりを繰り返し思い描いていた。
落ち葉はきりもみしながら、主従逆転した流れにもてあそばれるばかりだった。
想像上の上陸地点はとうに超えて、じきにみえなくなった。
ヒーンが目を覚ますと、すでに魔の川はあとかたもなかった。
「おはようヒーン」右手には大長老がそびえていた。「もう夜だよ」
悲鳴をあげて跳ね起きてみたものの、すぐに首から下の内蔵がどろりと溶けたように渦をまき、崩れるようにヒーンは倒れ伏した。
「崖で若い衆が見つけて運んできてくれたってわけさ」巨大な三角形が目線をおとすと、ヒーンは死ぬ間際の虫のような思いがした。
「川に入ったね」
その一言で、ぼんやりしていた頭に電流が走った。自分がしたことが妙な空隙を挟んで思い出されていく。雲を踏んでいるように記憶に実感はなかった。けれども全身を包むけだるさ、吐き気さえ伴う倦怠は恐ろしい川の毒のせいだとわかった。するとじょじょに群雲は晴れていき、自分が追い立てたせいで「幼いエスを危険な目にあわせた」新鮮な罪悪感でヒーンは息ができなかった。
「死なねーよ、やかましい」そういって大長老はヒーンの頭をはたいた。「そりゃ川の水は毒さ。でも一度くらい浴びたって死にはしない。毒で死ぬにもこつがいるのさ」
そういうと大長老はかたわらの盆から小鉢を取り上げると、ヒーンの口元に押し当てた。ところどころ固まって飲みにくく、ほこりっぽいにおいがした。
「ツバメの生き血だよ、男の精力剤だが女にも効く」
「……エスは」
「ほうほうほう」と大長老はいやらしい笑みを浮かべると、再び向き直った。
「若いうちの苦労はしてみるものだね」
「エスはどうしたのってきいてんのよババア」
「少し水を飲んだだけだ。そう深刻な顔することはないよ。ところで……」大長老はぐいとからだを倒すと、ヒーンの顔すれすれに目を近づけた。「報告の方をきこうじゃないか」
視界いっぱいのババアに圧倒されて、ヒーンはぽつりぽつり語りだした。話をはじめると、しだいに気分ものってきて、終わる頃にはおのずとからだが起き上がっていた。
「やはりね」大長老はいった。
「エスはどうなるの」
「さてね、親には叱られるだろ」
「村の秘密をしゃべったのよ」大長老の鼻にもかけない態度が癇に障った。「ツバメ盗りの女に」
「あのな、ヒーン」大長老は煙草を取りだして、枕元の灯りから火をかすめた。軽く一服吸いつけると、舌打ちしていった。
「ガキが漏らせる程度の秘密は、秘密っていわねえんだ」
そうして大長老は、老獪さと意地の悪さを交ぜ返した顔をゆがませた。
「そうさな。ヒーンはあと二年待ちな、十四になったらユチャーブスの真の姿を教えてやる。なにが内緒で、なにが内緒じゃないか。それまでは、まだ内緒だ」
「ふざけんなババア」
「だけどあたしは大長老だ、もうひとつだけ内緒をバラしてやる」
大長老はヒーンの肩を抱き寄せて、頬をくっつけた。その表情はみずみずしく、ヒーンの小鼻は同い年のにおいに戸惑った。
「若い連中はわからねえだろうが、てめえらくらいの大ピンチはよ、ユチャーブスはずっと乗り越えてきたんだ。初めてじゃないんだ。なんでもねえことなんだ」
「だからさ、自分を責めることはないのさ」とささやき、大長老はヒーンの背中をやさしく二度叩いた。そして、ままならない両膝をののしりながら、部屋を出ていった。
涙がおちるまで、ヒーンは嗚咽していることに気づかなかった。歯を食いしばっても爪が食いこむほど指を握りしめても、あとからあとから涙はひっきりなしに出続けた。なのに声だけが漏れてこなかった。
通り雨のような涙がやむと、自分の身に起きた不思議に「どうしてあんなに泣いていたのだろう」と首をかしげた。十二年もつきあってきたのに、まるで仕組みがわからない。胸にわだかまっていた思いはさっぱり消えていた。あたかも残っていた川の水が、目から吐き出されたみたいな気がした。
(まだまだ自分の知らない自分がある……)
そう思うと、大長老の言葉がすんなりと腑におちて、ヒーンの奥で妙な収まり方をした。
けれども、それを認めると大長老がしてやったりな顔でのさばってきそうだったので、ヒーンは荒々しく袖口で顔をこすりあげて、腹立たしい幻影もろともぬぐいすてた。鼻水が白い橋をかけて、たまらなく気持ち悪い思いをした。どれもこれもババアのせいだと、ヒーンは毒づきながら寝床の脇にそれを押しつけた。
ヒーンに嗅ぎつけられて、エスの秘密はなくなった。それと同時に女も行方をくらましたと、大長老が伝えてよこした。洞窟にはだれかがいた形跡さえなかったという。それが妙に不気味で、胸の奥にしこりが残った感じがした。
女のもたらした不安は消えることなく、次の新月に現実化した。ヒーンはすでに回復し、普段の生活を取り戻していた。騒ぎが起きたときは、眠らずに村をうろうろして、酔っ払った男衆から悪趣味な地口でどやされているさなかだった。
長老の社の裏手に鐘がぶら下がっていることさえ、長い間に忘れていた。それが今、なかに棒を突っこんでかき回される音は、初めて目の当たりにするヒーンの心中にも嵐を呼んだ。泥酔で沈没しかけていた男たちはすぐに支度に取りかかるため、四方に走って散っていった。そんななかで突き飛ばされて、本気で怒鳴られている子どもがいるので「こんなときにどんな間抜けが」と目をやればエスだった。ヒーンは間抜けをたぐり寄せると、どこかへ投げ入れてやろうとあたりを見渡したが、どこも火がついたような騒ぎで、子ども一匹だって受けつけてもらえそうにない。仕方なしにヒーンは乱暴にエスを連れて、村で唯一、戸のついてない鐘の根本へと足を向けた。
社にいつもの三角形の姿はなかった。大長老もまた今夜の騒ぎに、なにかしらの役目を帯びて出ていったのだろう。まんまと屋根のある場所に潜りこめた今では別にどうでもよく、口うるさい大人がいないのはむしろ好都合ともいた。
ツバメの糞を固めた灯りが揺れる中で寝床を敷いている間も、エスは手伝おうともせずに、じっと窓から空ばかり眺めていた。低い雲で押さえつけられたユチャーブスの天井は、月がないと目を閉じているのとあまりかわらない。けれどもエスは指までさして、ヒーンになにかを伝えようとしている。
「いいから寝なさいよ」と布団に引っぱって横にさせたが、あたかも糸でくくりつけられているようにエスの顔はまだ窓の外から離れなかった。
そのまま「ねえヒーン」とエスはいった。
「ぼくはね、本当は助けたかっただけなんだ。その間になんだか変なことになってきちゃったんだけど、はじまりのはじまりは、ただ助けなきゃって、それだけだったんだ」
ふたりの間で、あの事件は禁じられた話題だった。もし昼間にエスが話しかけてきたら、ヒーンはもちろん叩いて黙らせていただろう。けれども今、いつもとは少し違った深夜では、ヒーンの態度も精彩をかいた。ましてや、さっきからエスの調子はどこかおかしい。「信じるよ」
そういってヒーンも顔をあげてみるが、エスの気を引くものは発見できなかった。あるいはエスにしかみえないなにか、たとえばあの女のまぼろしでも浮いているのか凝視してみるが、まぼろしは目を細めてみるものではない。
するとエスはボロボロと涙をこぼして、両手でそれをすくいあげるようにぬぐっていた。
ヒーンはその秘密をついに理解し得なかった。エスの秘密とは女をかくまっていたことではない。女を隠すことに決めた、そのきっかけこそが隠匿すべき事実だった。それがどれだけ重大だったか、おそらくは大長老でさえ洞察はかなわない。エス自身も明確に説明はできなかった。けれども解放された今、子ども特有の頑迷さで覆われた鎧は音をたてて脱落し、無力な泣き虫へと戻っていけた。
手足を縮めてうなだれながらむせび泣くエスの様子は、ヒーンをひどく慌てさせた。ほかに呼んでくる大人もいない。だからせめて空をみなくていいように、ヒーンは胸の方へと抱き寄せた。じょじょに引きつけが落ち着いていくと、静かになった。気づくとエスはヒーンの乳首を服の上から探り当てて、口に含んでいた。からだにしがみつくエスは小さくなって、乳児の気配さえ帯びだした。反対にヒーンは自身が大きくなったように感じられて、赤子を抱く母親のような雰囲気に支配されつつあった。あたりには蝋燭の独特な臭気がみち、エスの吸う音ばかりが際立っていた。吸ったところでなにが出るわけでもなく、むず痒いだけだった。けれども、それでエスが落ち着いているのなら、とヒーンは留め具を外して、その間に乳児の頭部を押しあてた。丸い唇が本当の乳首に辿りついてその口中に完全に収めると、耳障りなしゃぶる音はまったくなくなった。
ヒーンはエスのなすがままにさせて、視線を窓へとやった。すると、なにもなかった夜空に光が走った。黒い画布に鮮やかな朱や黄色の線が描かれていく様子を眺めていると、ふいに火の玉のひとつがおちて、空を明るくてらした。遠くの崖が縁取られるほど爆発は、天空がみせる大きな流星となにもかわらなかった。大人が賊を退治する支度と併せて考えれば、あの炎に人の命が溶けて、虚空に四散していくのだとわかるはずなのに、なぜだかヒーンにはその原因と結果が結びつかなかった。頭に浮かんでいるのは、エスが助けた女の後ろ姿だった。あの女はどうしただろう。偵察の任を終えて宇宙へかえったのか、それとも今まさに火の玉になっておちていっているのだろうか。
「ねえ、どうなの」ヒーンは声に出して尋ねたが、すでにエスは乳首に吸いついたまま寝息をたてていた。頬をつついても起きる気配がまるでない。
ヒーンも女の姿を目撃したが、実際に触れたのはエスだけだった。そもそも本当に女なんていたのだろうか。いたとすれば、どうやって仲間と連絡して、合流したのだろう。大長老にきけば教えてくれるかもしれない。帰ったら訊いてみようと心にとめると、急に夜空が落ち着いてきた。色彩の光線は遠のき、爆発音は遠雷より弱くなっていた。「もうみえないや、わたしにはもう……」エスの額に自分のを押しつけながら、ヒーンもまた粘つくまどろみに捕らわれながらおちていった。その奥の奥で、わずかな鈍痛が重く低く、からだの内面に響いていた。危急を知らせる村の鐘だとヒーンは思った。
3
あの日から五年を待って、エスは大人の仲間入りを果たし、ヒーンを妻に迎えた。ふたりの間には六人の子が生まれたが、エスは三十の手前でツバメの巣をとっているさなかに滑落した。
ヒーンは四十で大長老に任ぜられた。狩りの季節は良人を亡くした崖で風琴を回し、ここで死んでいった人の魂のようなツバメの群れを導いた。孫のような年齢の少年は、初めて自分の手で処理したツバメの肝を見せると、白い歯をみせて笑った。そういう瞬間に立ちあうと、ヒーンは胸の内側を暖かいものが広がっていく感じがした。
大長老になってから、宙賊は一度だけやってきた。このときもエスのような少年と、自分のような少女が先に気がついて、大人たちは前もって準備に取りかかれた。それを今度は大人側から体験したわけだが、かつてのような感傷はまるで起きなかった。ツバメの肝で買った最新鋭の武器は面白いように宙賊を焼きはらい、片っ端から流れ星にしていった。ツバメの狩りより簡単だった。事件は一晩で片がつき、大人たちは翌朝から日常に戻っていった。あまりにあっけなかったせいで、かつての自分の場合もこうだったのかと首をひねるばかりだった。
けれども困惑ばかりしていられない。大長老のなすべきことはまだ残っていた。
一番槍といえる功績をあげたふたりを呼び、前の大長老がしてくれたようにいいきかせた。波風の少ないユチャーブスにとって、宙賊襲来はたしかに珍しい。初めて目のあたりにする子どもにとっては、天地がひっくり返るくらいの大事件だと、ヒーンも幼い昔にはそう感じたものだった。だから、ふたりの動揺をなぐさめる言葉はどこか気恥ずかしいものの、仕事は最後まで勤めあげた。
その言葉はふたりの世代、その次の世代でも変わらずに老人から子どもへ手渡されていくのだろうと、瞬間的にヒーンは理解した。
そうして、今までの大長老と同じ台詞で、ヒーンは次の村の担い手を送りだしたのだった。
「安心おし。これくらいの大ピンチはな、あたしらは何度も乗りこえてきたんだよ。初めてじゃないんだ。だからなんでもないのさ」
このババアはなにをいっているのだろう。担い手たちにはさっぱりわからなかった。
(了)