チャプター 07:「軽業」
かつて商店街であったアーケードから吹き抜けてきた、湿り気を帯びた風を浴び、百合
はうっとうしそうに髪をかき上げた。
既にBクラスのレースが終了し、残すは、百合が参加するSクラスのレースのみ。
彼女の横には愛車であるFC3Sが停車し、他のスターティンググリッドにもバトル相
手のクルマが並ぶ。
バトルの相手を眺めていると、スタートラインに最も近い小守と視線が合う。
子守はいやらしく舌なめずりし、嘲笑する。
「ヒヒッ…………まあ、精々非力なクルマで頑張るんだな。間違っても、俺のクルマにカ
マ掘る(・・・・)んじゃねえぜ?」
いい捨てると、小守は自分のクルマへ乗り込んだ。
何かいい返そうとむっとした百合だが、気持ちを落ち着け自分の車に乗り込む。
ドアにロックをかけると、キーを静かに回し、FCのエンジンを始動させる。
僅かにブリッピングしたエンジンだが、その呼吸は内燃機関を搭載しているとは思えな
いほど静かだった。通電と同時にフロントガラスに専用のHUDが立ち上がり、有機EL
の淡い光が車内を満たした。視界を遮らないように配置されたそれぞれの数値は、百合の
乗るクルマのコンディションを示している。
「シグナルカウント始めるぞ!」
ディーラーの男の大声で、百合はFCのエンジンをあおった。
スタートラインの左側に設置された四連シグナルの一番上、赤い信号が点灯する。
二つ目のシグナルが点灯。
三つ目が光り。
そして。
「レース…………スタート!」
青い信号が点灯するのと同時に、百合はクラッチペダルを離し、アクセルをフロアまで
踏み込む。
ロータリエンジンがうなりをあげ、百合のクルマは前方へ飛び出した。
一速スタートであるため、スピードそのものは伸びないが、タコメータが軽やかに回っ
て行く。三千回転からスタートした百合のFCは、あっという間にレッドゾーンまで吹け
上がった。
「…………ふう」
深呼吸し、気持ちを落ち着けた百合は、アクセルを離し、クラッチを踏み込んだ。そし
て、左手に握るシフトノブから感じるシンクロメッシュの動作を頼りに、ギアを二速へ押
し込む。
他の電気自動車に比べて遥かに騒音の多い百合のFCだが、その加速能力は参加車両の
中で最低だった。理想的な加速をしているのにもかかわらず、参加する他のクルマは、い
とも容易くFCを引き離して行く。
しかし、百合は焦った様子はない。ただ冷静にクルマをドライブする。
「…………来たか」
ポツリと呟き、一番最初のコーナーを静かに見つめる。左へ90度曲がるコーナーだが、
スタートが二車線道路という事もあり、コーナリングの難易度は高くない。
他のクルマが十分に車速を落として曲がる中、百合は未だにアクセルを離そうとしなか
った。
車のHUDはコーナリングの指示と十分な減速を促してくるが、それを無視し、自分の
理想とする場所まで加速を続ける。
「よし………………ここだ」
小さく息を吐き、アクセルを離した。そしてすぐにブレーキを蹴り、前のめりになった
車体が減速を始める。
軽さを突き詰めたクルマだけあり、必要な減速は一瞬で終了する。そして、ブレーキを
わずかに残し、前のめりの姿勢を維持したまシフトダウンを行うと、ハンドルをゆっくり
切っていく。
クルマが一度姿勢を変えると、流れるように旋回を始める。タイヤの持てるグリップ力
を最大限に活かし、スリップアングルの限界を維持したまま、コーナーの頂点へ向かって
スライドする。
強烈な旋回Gにより百合の身体はドア側に引き寄せられるが、クルマの姿勢を崩さない
よう、細心の注意を払いながらコントロール続ける。
フロント左のバンパーがクリッピングポイントをかすめ、出口の幅員をめいっぱい使い
ながら加速を再開する百合のFC。
前を走る他のクルマは未だにはるか先を行くが、FCのコーナリングスピードは他の車
の一つ上の領域にいた。
そして、もう一度訪れた左曲がりのコーナーを処理すると、いよいよバトルの本番がや
ってくる。
コースの序盤は、路面状況が良い直線で占められているが、中盤終盤は曲の多いテクニ
カルなセクションが続く。その上、幅員の狭い道路はライン選択の幅が少なく、舗装状況
も悪いことから、クルマの馬力よりも運動性が威力を発揮する。
そして百合のクルマは、777の中で最も運動性の高い超軽量マシン。
百合が歯を剥いて笑った。
「こいつが、羊の皮を被っていると判らない連中が本当に多い。だが中身は…………最高
の猟犬さ!」
百合のFCが吼えた。
90度の右曲がりコーナー。早くも序盤のアドバンテージを失ったクルマがFCに補足
される。
百合の車より二回りはハイパワーな車だが、アクセルを目一杯踏み込んでも、轍(わだ
ち)が多く舗装の悪いコーナーでは、電子制御の介入により十分なパワーを発揮できない。
コーナー入り口におけるブレーキング勝負に勝利した百合は、有利なラインを獲得し、
いとも容易く一台目をパスした。
次のコーナーも綺麗に処理し、安定した状態で追撃を続ける百合。そして、バトルを行
いながら凛の発した一言に納得し始めていた。
「なるほど。これは…………凛の言う通りなのかもしれない」
その声色には嬉しさが混じっていた。先ほどパスしたクルマも、その一瞬に複雑な攻防、
駆け引きがあった。自分のテクニックとの相談や、相手への信頼。
百合は気分を高揚させ、FCを追い立てた。
喜んでいるのか、苦しんでいるのか。
車は主の要求に応え、加速する。
「さて。次だ」
クランクコーナーの出口で、次の獲物を捕捉する百合。獲物は最初と同じ、TTVのス
ポーツスタンダード。裕福な若者向けに設計されているだけあり、乗り味はスポーティー
だが、本物のスポーツにはかなわない。その自由度の低さと車体の重さにより、百合が一
度購入し、手放したクルマ。
「流石に立ち上がりは…………速いな」
旋回速度こそ百合のFCには及ばないものの、馬力の点では電気自動車に利がある。追
い詰めたテールランプが一度は離れるも、静止状態からの加速勝負ではない為、コーナリ
ングスピードに勝る百合との差は縮まっていた。更に、そのセクションはホームストレー
トや直後の長い直線と違い、ストレートと言えど舗装の痛みが酷い。電気自動車には頻繁
に駆動力の制御が入っているのか、コーナー脱出の勝負はほぼ互角になっていた。
そして、運動性に難のある電気自動車が百合に捕捉されているという事は、次のコーナ
ーで逃げ切れない事を意味している。
舌を噛まないよう、百合が舌なめずりする。
「さあ…………貰ったぞ!」
百合に抜かれる事を危惧したのか、有利な走行ラインをブロックしようと前方のクルマ
がイン側へ車体を寄せる。
相手の対応を見た百合は、笑みを増した。
「残念。そっちはハズレだ」
百合はクルマを目いっぱい外側へ寄せる。そして、相手が減速を始める遥か先まで加速
を続け、ギリギリのタイミングでブレーキを踏み込んだ。
シフトダウン。
百合のクルマがコーナーの頂点を越えたタイミングで、抜いたライバルのクルマがよう
やくコーナーを曲がり始める。思うようにクルマが動かないのか、バックミラー越しのラ
イバル車の挙動には、苛立ちのような感情が垣間見えていた。
続けてやってきた左曲がりの直角コーナーを抜けると、遂に最後のライバルが視界に入
る。
小守のクルマ。
「友人を好きにさせるわけには行かないんだ。悪いな、小守?」
普段は冷戦沈着でぶっきらぼうな百合だが、ハンドルを握ると攻撃性が顔を出す。更に
コーナーを二つ抜けると、相手のバンパースレスレまで迫る。本来ならば非常に危険な距
離である。相手がブレーキをかけた途端衝突し、クラッシュを誘発する。
限界を超えた距離。
しかし、今日の参加者の内で小守が一番上手いドライバーである事を、百合は知ってい
た。FCのヘッドライトで小守のクルマへプレッシャーを掛けながら、ミスを誘う。
二トン近い大きな車体の陰に隠れている事から、FCのエアロダイナミクスにも影響が
出ていた。相手の引き裂いた大気の隙間に入る事により、馬力のハンデは更に小さくなる。
そして、ホームストレート二つ手前のコーナーで、百合が仕掛けた。
「クククッ…………ハハハハハ! やるじゃないか!」
オーバーテイクを仕掛ける百合だが、小守がこれを巧妙にブロックする。確実にライン
が干渉するであろう場所に車体をねじ込み、加速に分の有る自分が有利な状況を作り出し
ていた。
残すのは、短い直線の後に控える、最後の左曲がり。百合は呼吸を整え、ブレーキング
に備える。
しかし、戦況に変化が起こった。
小守のクルマより先に、百合が減速を始めたのである。
それだけではない。百合が小さく苦笑したのである。
「やってしまったな。小守」
百合がぽつりと呟いた直後、小守の車が減速を始めるが、既に遅かった。電気自動車の
体躯では減速するだけの距離がなく、必要以上にブレーキを踏まねばクラッシュしてしま
う状況に追い込まれていたのである。ステアリングをこじり、無理に旋回させようとする
姿が映るが、車体は全く言う事を聞かず、小守の意に反して、みるみる外側へ膨らんで行
く。
そして、小守の横を余裕を持った速度でパスした百合は、スタートラインへ加速を始め
る。
最終コーナー脱出後には、百合が先頭を走っていた。僅か一周で、現アトラス最高クラ
スのライバル達を下したのである。
その上、レースは三周。その後、百合に追いつける者など、いる筈がなかった。