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チャプター 05:「キー」

 レンタルガレージ。

 アトラス外周部に設けられた、浮遊島のデッドスペースを有効利用する事を目的とした

個人用の空間貸し出しサービス。これらのガレージから、貨物輸送用車両が通行する外周

道路を利用し、若者達は夜の世界へ繰り出して行く。


 工業区画が割り当てられた浮遊島の外円部に、凛達が借りるレンタルガレージがあった。

通常、個人が借りるガレージのサイズは、車二台を駐車すると人が中に居られない程度し

かないが、凛や光、百合の車が並び、更に大きなゆとりのあるこの空間は、アトラス内で

も屈指の広さを持つガレージである事が見て取れる。

 利用料金は広さに比例するため、椅子や茶器の入った食器棚、外から持ち込んだピンボ

ール台などのスペースは無駄と言えるが、支払っている凛が、その額を気にした様子はな

い。

 彼女にとって、その程度の出費は吹けば飛ぶような額だった。

「ようし…………これでオーバーホール完了だぜ、光嬢ちゃん。ひとまず、三千キロ程度

は慣らしてくれよ? ブーストを掛けすぎると、エンジンに変な癖がついちまうからな」

 光のクルマを整備していたらしい中年の男が、ボンネットをそっと閉める。

 視線の合った光は、祈るようなポーズで男に感謝する。

「ほんっとうにありがとう! 久司さんの整備なら、SA22(この子)も凄く良くなった

に違いないわ!」

 黒川自動車からやってきたらしい、久司と呼ばれた角刈りの男は、頭を掻いて照れて見

せた。

「ははは。そういってくれると俺も嬉しいが…………今回は持って来てくれたローターが

良かったんだ。それ以外のシール類も、工具も完璧に揃ってたわけだしな。これだけ用意

してもらって組めないようじゃ、クルマ屋廃業だぜ?」

 久司はそう言いながら、自分の黒いFDにケーブルを繋ぎ、調整する凛へ目を向ける。

 そして、その視線に気がついた凛が、ノートパソコンから顔を上げた。

「うん? どうしたの?」

「いいや? 作ったローターを選んだのは凛嬢ちゃんなんだろ? 大した目利きだと思っ

てな。まだクルマを触り始めてそんなに経ってない筈なのに」

 ぼんやりと台詞を反芻した凛は、久司に褒められた事に気がつき、ニンマリと笑ってみ

せる。

「エヘヘ。クルマだけは、おっちゃんにだって負けないよ。わたしの一番得意な事なんだ

から」

 胸を張る凛の姿に、光は顔をしかめた。

「あーはいはい。おっちゃんも程々にね? 凛は、クルマ以外てんで駄目な残念女なんだ

よ? 調子に乗られると改善の意思が無くなっちゃうんだから!」

「そんなぁ…………」

 光の心無い一言に凛は大きなショックを受けた。視線を落とし、朗らかだったオーラが

陰鬱なものへと変わる。セッティングを行う手元のコンピュータを操作する手つきも、重

々しい動きになっていた。

 暫く観察していた光だが、久司から向けられた視線に、肩を落とす。

「…………ああ、その、ゴメン。ちょっと言い過ぎたわ。アンタのクルマに対する情熱は

本当に凄いって私も思う。いろいろお世話になってるのに、あたしも無神経すぎた」

 光の謝罪へ、久司も追従した。

「そうだぞ凛嬢ちゃん。旦那と一緒に弄ってたとはいえ――」

 久司の零した一言に、凛は弾かれたように久司へ視線を向けた。

 凛の視線には、「それ以上話さないで」と懇願するかのような感情が込められていた。

「うん? おっちゃん、旦那って?」

 光の疑問へ、尚も凛からの視線を受ける久司が、頭を掻いて誤魔化した。

「ああ、いや。凛嬢ちゃんは…………関係なかったか。昔、うちのお得意さんがえらくク

ルマに詳しくてな。それをふと思い出しただけだ」

「ふうん…………」

 訝しげな視線で自身を見る光に、久司は苦笑する。

「それよりも、だ。その歳で、クルマの整備と改造がここまでできるのは、本当に凄いよ。

これは天性の才能だ。確かそのクルマのターボシステムは…………凛嬢ちゃんが考えたん

だよな?」

「えっ、ウソ…………そのFD(クルマ)、オリジナルのターボなの?」

 久司の賞賛と光の驚きに、凛が微笑する。そして、手元で動くパソコンを持ったまま、

光を手招きした。

 小柄な光が凛の隣へやってくると、画面を指差しながら説明を始める。

「このクルマについてるターボチャージャー自体は、普通のRX-7に搭載されているも

のと同じ。でも、コントロールするコンピューターが違うの」

 頷き、続きを促す光。

「…………普通は、水温や油温、エンジンの回転数に応じて燃料の量とブースト圧が変わ

るんだけど、このクルマはそれだけじゃないの。加えて、車速とトランスミッションの選

択ギアによっても出力特性が変わる。一番綺麗なパワーカーブに調整できるようにね。だ

から、どの回転域、車速からでも最適なパワーが出るし、応答速度も最速。厳密にはもっ

と細かい所が違うんだけど…………大体、そんな感じ」

 顔を上げ、微笑する凛。光は数瞬固まっていたが、ふと、興奮した様子で身を乗り出す。

「す、凄いじゃないの! アンタにこんな特技があったなんて全然知らなかった! 凛っ

て、本当に凄かったのね! もしかして、そういう技術でお金持ちになったとか?!」

「う、うん。でも、そういうのはナイショだよ? あんまり有名になっちゃうと、その…

…いろいろあるから」

 尚も興奮する光に、凛は後ろめたい気持ちになった。実際に、小さな家電製品の設計を

幾つか行っていた凛だが、彼女の資産は、その殆どが父から譲り受けたものだったからだ。

 しかし、凛の心中を知りえない光は、凛へ尊敬の眼差しを向けたままだった。

 そして、脇に止まったもう一台のクルマに視線を向けると、光は凛を見る。

「そ、それじゃあ。もしかしてこのFDも?」

 光からの問いに、凛は微笑を溜めたまま目を伏せ、静かに首を振る。その心には、懐か

しさが湧きあがっていた。

 目を開けた凛の視線が、隣に停車するブルーメタリックのFDへ向けられる。

「…………その車はね。父さんから譲り受けたものなの。だから、私は全く触ってない」

「へえ、そうなんだ。この車もターボ車だよね?」

 再度投げかけられた疑問に、凛はもう一度首を振った。

「ううん。その車は自然吸気エンジンの…………四ローター」

 凛の放った一言に、光は目をみはった。

「ウソ…………じゃあこのクルマ、レース用のエンジンを積んでるの?!」

「うん」

 光の興奮が更に加速する。

「信じられない! じゃあこのクルマ、私のクルマより馬力があるのよね! 凄いわ! 

一度乗せてよ、凛!」

 子供のようにはしゃぐ光だが、凛は困った様子で友人を見つめ返した。

「それが、ね? そのクルマなんだけど。どういうわけか、全然パワーが無いの。一度、

そこの測定器(シャーシダイナモ)で計ってみたんだけど、ピークが四百五十馬力くらい」

 目を輝かせていた光の身体は、石膏像のようにぴたりと動きを止める。

「えっと…………四百五十馬力? フルパワーが?」

 三台隣に停まる光のクルマは六百馬力。計算上は、四分の三の出力である。

「うん。エンジンのポート仕様のせいかもしれないんだけど、あまり馬力は無いわ。その

代わり、ロータリーエンジンとは思えないくらいトルクはあるから、私の車よりは速い筈

なんだけど…………」

 光は黙ったまま、凛の二の句を待つ。半年足らずの付き合いだが、光には凛が何かを言

いたいと察していた。

 思案した後、考えを纏めた凛が、改めて口を開く。

「どうしてなのか、足回りの締め(・・・)が馬力につり合ってないの。父さんの整備し

たクルマが、こんなにもアンバランスな筈がないもの」

 神妙な顔つきで腕を組み、相槌を打っていた光が口を開いた。

「このクルマ。ちょっと、掛けてもらえる(・・・・・・・)?」

「うん、いいよ」

 光の要求に、凛は自分のパソコンをシートに置き、クルマに刺さっていたキーを抜く。

そして、もう一台の自分のクルマへ近づいた凛が、静かにキーを挿し込み、クルマのロッ

クを開ける。

 開いたドアからシートへ尻を滑り込ませた凛は、サイドブレーキが掛かっている事を確

認し、クラッチを踏み込んでから、キーシリンダーへ挿したキーをゆっくり捻る。

 スターターセルの擦るような音と共に、クルマのエンジンへ火が入った。

 ガレージ内へ反響するエンジンの咆哮

 それは、眠っていた獅子が不機嫌に喉を鳴らすような、低く、威圧的な音だった。

「はっ…………?!」

 その音を肌で感じた光が、震えながら息を呑む。

 撒き散らされるエンジンの排気音(エキゾースト)の中、凛は二度、アクセルを煽る。

 威圧的な音が一変、恫喝するような轟音がガレージ内に響き渡り、強烈な咆哮を浴びた

光は、その場で身を強張らせる。

 もう一度アクセルを煽った凛は、回転計が下降を始める前にエンジンを停止させる。

 エンジンが鳴り止んでから一瞬、ガレージ内は水を打ったように静まり返った。

 硬直したままの光へ視線を向けた凛が、静かに息を吸う。

「どうだった? レーシングエンジンの音は」

 それが、金縛りを解く呪文であるかのように、固まっていた光が大きく呼吸する。

「…………すごいわね。ロータリーエンジンがこんなに凶暴な音を出すなんて。でも……

……何か、とても奇妙な感じがするわ」

 漠然としていながらも、本質を突く光の一言に凛は頷いた。

「うん。排気側で、かなり絞られているんだと思う。この図太い音が表すように、このク

ルマはロータリーを載せてるとは思えないくらいトルクがあるの。どこからでも馬力がつ

いてくる安心感はあるけれど。どうにも、抜け切らない」

 自分の感覚を言葉にした凛に、光ははっとした。

「なるほど。なるほどね。それならば、排気が抜けるようにチューンするのはどう? ト

ルクは減るけど、その分ピークパワーは上がる筈よね。いろいろな調整は必要だけど……

……アンタなら簡単でしょ?」

 当然の意見に、凛は苦笑した。

「そう、したいのは山々なんだけどね。父さんから貰った車は、なるべく手を入れたくな

いの。それに…………ちょっと、エンジンルームを見てくれない?」

 意味深な言い回し。ボンネットを開くレバーを引いた凛に、光は首肯し、二人でクルマ

のフロント側へと移動する。

 凛がボンネットを開けると、エンジンルームの内部を見た光が目を瞠る。

「なに、これ…………?!」

 ボンネットの下から姿を現したのは、銀色に光る大きなフードだった。左右のサスペン

ション取付部まで綺麗に覆われたそのフードによって、エンジンルーム内は何も確認する

事ができない。

 困惑した様子の光は、ボンネットを持つ凛へ視線を持ち上げる。

「ごらんの有様なのよ。どういうわけか、全く整備ができないように封印されてるの。そ

の上、見ての通り上からのアクセスは全く出来ないばかりか、下回りも丁寧にフタをして

ある」

 光の顔には困惑の色があった。そして、フードを注意深く観察し、フードを止める幾つ

ものナットに気がついた。

 光の表情が再び驚きに染まる。

「ねえ、凛。このナット…………?!」

 光が触れたそれは、見たこともないような形状のボルトナットだった。角が無く、らせ

ん状に掘り込まれたくぼみがあるだけで、素手はおろか、一般的なペンチやプライヤーを

受け付けない形状になっている。

「うん。溶接してあるわけじゃないから、取れない事はない筈なんだけどね? 私も、こ

んなナットは初めて見たから。今、おっちゃんに工具を探してもらってるんだけど」

 凛が視線を向けた先には、困った表情で視線を落とし、頭を掻く久司が居た。

「その、なあ…………俺も探してるんだけどよ。まだ、見つからねえんだ。倉庫の中ひっ

くり返して全部見てみたが、実在する工具は無いな。あとは、工具の自作だが……」

 その一言に、光が青褪めた。

「そ、そんなの無理に決まってるじゃないの?! おっちゃんだって、工具の設計が難し

い事くらいわかってるでしょ?! どれだけ時間がかかるか…………」

「ああ、知ってるよ。工具関係の設計ノウハウは、もう失われてる。いわゆるロストテク

ノロジーって奴だよな。だが…………一から作るほかないぞ? こんな形のボルトナット

は初めて見る。恐らく特注の工具とセットで作られたものだ」

 凛が疑い深い視線を久司に向けていると、それに気がついた久司が、だらしなく笑って

見せた。

「ま、まあ。凛嬢ちゃんが少しサービスしてくれるってんなら。俺も工具の製作を頑張ろ

うと思うんだがよ」

「うん、いいよ」

 久司の提案に、凛は即答した。

「そ、それじゃあ凛嬢ちゃん…………ちょっとうちの事務所に――」

 久司は鼻の下を伸ばし、凛の手を握るが、凛が応じるよりも早く、後方へと蹴り飛ばさ

れる。

 光による、見事なドロップキックが炸裂していた。

「ほんっとに信じられない! あたしの目の前で、よくもそんな事が言えるわね! おっ

ちゃんの腕は凄いのに、どうしてそんなに助平なの?!」

「光、どうしたの?」

 状況に付いていけない凛が、困惑した様子で光へ近づく。

 しかし、それが引き金となり、光の怒りは凛へと向けられた。

「アンタ! おっちゃんは、あんたにエッチなサービスをさせようとしてたのよ? それ、

わかってるの?」

「そ、そうだったの? おっちゃん?」

 視線を向けた先の久司は、ひっくり返ったまま視線を泳がせた。

 凛の視線が、光へと戻る。

「そうだったんだ。それなら、きちんとしたホテルの方が…………って痛い!」

 凛の頭頂部へ、光の拳骨が打ち下ろされた。ジャンプからなる、美しい拳撃である。

「ぜんっぜんわかってないじゃない! エッチなサービスってのはね。あ、あの…………

えっと、その………………と、とにかく! 女子たるもの、そう簡単に身体を売っちゃだ

めなの?! わかった?」

 光に叱責されながらも、凛は未だに怒りの原因を理解できずに居た。それは凛の貞操観

念が低いからではなく、元々育った環境から来る、常識の差異によるものだった。

 凛が自分の意図を理解していないと感じたのか、光が深いため息を漏らした。

「まあ、いいわ。とにかく、おっちゃんにそういう事するのはナシ!」

「う、うん」

 渋々承諾した凛は、開いていたボンネットをそっと閉じると、運転席へ回り、キーを引

き抜く。

 クルマにロックを掛ける途中、光は凛の持つキーリングに、クルマの鍵が三つ(・・)掛

かっている事に気がついた。

「ねえ、凛。その鍵…………スペアキーか何か?」

 光が指差す自分のキーリングを見た凛は、その意図を汲み取ったのか、静かに首を振る。

「ううん。これは、このクルマと一緒に貰ったものなの。これも、父さんからのプレゼン

ト。私は外界で、この鍵に合うクルマを探してるのよ」

 凛の解答に、光は何か思案する素振りを見せると、視線を戻し、苦笑した。

「…………そっか。アンタが外に出てたのは、そういう理由だったのね。それなら」

 凛へ近づいた光は、相手の鼻先へ人差し指を突きつけた。

「あたしも協力してあげる! 水臭いじゃないの。私達に話してくれないなんて」

 友人の申し出に、凛はその意味を黙考する。そして、意味を理解した瞬間、満面の笑み

で光を抱きしめた。

「うん! ありがとう!」


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