チャプター 03:「日常」
いくつかの専用通路を辿り居住区を出た凛は、歩いて隣の区画へ向かっていた。かつて
の日本国、中部地区の海に浮かぶアトラスには無数の浮遊島が存在しており、
一部の例外を除き、それぞれの島には業種別に整理された施設が集中している。
凛がやって来たのは、飲食や服飾、雑貨などの店舗がひしめく商業区画。半世紀以上前
から人々の活動サイクルは曜日に縛られており、その日は週始まりの平日で、多くの人間
達が労働に勤しんでいる。
しかし、商業区画だけは特別な場所だった。平日にも関わらず、歩道には多くの若者が
歩いている。土曜日と日曜日に休暇を取る人間ではなく、平日に休みを取る労働者達は、
日々の鬱憤や不満を解消すべく、娯楽施設も多いこの場所へやってくるのである。
人ごみに眉をひそめながら、凛は周りに気を遣い、人とぶつからないように先へ進んだ。
「ふう…………やっとついた」
凛がやってきたのは、商業区画の片隅に建つ喫茶店。凛の住む区画と隣接している事も
あり、時間にして三十分にも満たないが、彼女にとっては日々の重要な運動である。
平日の朝と言えば、仕事を引退した男女が世間話に花を咲かせる時間。しかし凛のやっ
てきた喫茶店は、そのような雰囲気とはかけ離れた場所だった。
「いらっしゃいませ! あっ、神楽坂さん。おはようございます」
喫茶店の扉を抜けると、明るい声が凛を迎える。壁で間仕切られた迷路のような通路の
最奥に立っていたのは、喫茶店の従業員らしきボブカットの少女だった。侍女服を着た彼
女は、カチューシャにエプロンを身につけ、その様は、まさしくメイドのそれだった。
そして、来客が凛である事に気がついた彼女は、一層明るく笑う。
太陽のような様に、凛もつられて微笑する。
「うん。おはよう、ハルカちゃん。えっと…………個室は空いてる?」
ハルカと呼ばれた少女は、凛から質問される前に店舗に備え付けられた端末を繰り、そ
の結果を口にした。
「ハイ、ダブルのマットルームですね? 空いておりますよ。いつもの個室で宜しいです
ね?」
「お願い」
凛を案内する気がないのか、かなりの速さで迷路の中に消えてゆくハルカだが、凛は焦
った様子もなく、のんびりと店舗の中を移動した。
「はいっ、こちらへどうぞ」
「うん」
案内された個室へ、まるで自宅へ帰るかのような様子で滑り込む凛。
そして、足を崩し、ぬいぐるみのように座る凛へ、ハルカがメニューを差し出した。
「ご注文は後のほうが宜しいですか?」
メニューを受け取りながら、凛はハルカからの問いに首を振る。
「ううん。注文はもう決まってるの。メイプルソースのフレンチトーストプレートを二つ
お願い。紅茶はダージリンのアイスを」
凛の注文に、ハルカはぎょっとした表情で目を瞬く。
「は、はい。かしこまりました…………いつもの、ですね」
「うん、お願いね」
注文を済ませた凛は、鞄から取り出した大きめのタブレット端末を、ビュワーモードへ
切り替える。そして、個室のミニテーブルへ置かれた小さな置物へかざした。
「よおし。今日も読むぞー」
満面の笑みでバンザイする凛へ、未だ動き出そうとしないハルカが訝しげな視線を送る。
それに気がついた凛は、小首を傾げハルカを見上げた。
「…………うん? どうしたの? 私、何か変な事した?」
「い、いえ! 決してそのような…………」
言い淀むハルカの姿に、凛は一層混乱する。
しかしそれは、話し相手のハルカも同じ様子だった。
「あの、その…………神楽坂さんは、当店をご贔屓にしていただいておりますが。えっと
その…………毎朝このようなお食事でお金持ちなんですね」
「そう、かな。そんなに高かったっけ?」
机の端へ退けたメニューへ手を伸ばし価格を確認すると、凛の注文した品だけが飛びぬ
けて高く設定されていたのである。
通常メニューの十倍近い価格設定は、希少な甘味料の使用が原因であり、贅沢に使用さ
れるメイプルソースは、僅か二十グラムで、アトラスの平均日当に匹敵する高級甘味料だ
った。
しかし凛は、それらの値段を目の当たりにしても、まるで動じた様子もなくメニューを
置く。
「高いかな? もしかして…………あんまり注文しない方がいい?」
「そそそ、そのような事はございません! 直ぐにお作りしますね!」
凛に意地の悪さは無かったが、ハルカは大きな売り上げを失いかけた事に焦ったのか、
厨房へ向かって飛んで行った。
贔屓にしている店の従業員が奇妙な言動を行った事に凛はもう一度首を捻ったが、思考
した結果、理由が判らないと結論し、手元のタブレットに視線を落とした。
凛が手にするタブレット端末には、ローカル無線ネットワークと通信する機能が搭載さ
れており、光が経営するこの喫茶店では、入店時間中、多くの書籍を閲覧できるデータベ
ースが用意されている。閲覧可能な書籍は、旧時代に作成されたデータをサルベージした
ものが大半であり、一部のコンテンツを除いて、新規に作られたものは少ない。しかし、
一ジャンルの僅かなデータでも、人間一人が一生かけて読破できるかと問われたなら、不
可能と即答できる量である。
その中でも、凛が特にお気に入りなのは、描かれたイラストに台詞や擬音が踊る作品群。
所謂、漫画と呼ばれるものだった。
「へへへっ…………あれは、どこまで読んだかなぁ」
凛のタブレットには読みかけ作品のブックマークが多く登録されており、彼女はそれら
を一つずつ見ながら、どの作品を読み進めようか吟味した。
「むう………………うん、これにしようかな」
画面の上で指を泳がせていた凛だが、指先が右上の一点へ移動すると、そのファイルへ
触れる。指による接触を認識したタブレットは、即座にサーバーへ該当ファイルを要求し、
レスポンスされた画像が画面に映し出された。
凛が選択したのは、仮想世界で巨人と戦うファンタジー作品だった。
「よおし、読むぞー」
気の抜けそうな声を上げ、凛の視線がタブレットへ集中した。
読み始めると、凛の意識はあっという間に画面の中へ引き込まれる。次々にページをめ
くる凛は、興奮した様子で指先を滑らせた。
「お待たせ致しました。フレンチプレートお二つ、アイスティーになります」
凛の意識を現実に引き戻したのは、料理を持ってやってきたハルカだった。凛が個室の
扉を開けると、ハルカが手に持ったプレートを慎重に配膳して行く。
すべての料理が出終わると、ハルカが深くお辞儀をし、扉を閉めて厨房へ帰って行く。
「今日もおいしそう。いただきます!」
目の前に用意されたご馳走にタブレットを放り出した凛は、手を合わせ、ナイフとフォ
ークを手にする。そして、メイプルトーストを上品に切り、口へと運んだ。着衣こそラフ
な凛だが、彼女が纏うのは、富裕層が持つ独特の優雅さだ。カトラリーの扱いも、食べる
姿勢も、高級料理店で食事を楽しむのに全く問題のないレベルだった。
余談ではあるが、ドレスコードの問題から、凛は高級料理店が苦手である。
「ふう…………ごちそうさま」
深いため息と共に手を合わせた凛は、皿の上にナイフとフォークを揃えて置き、チーフ
で口元を拭う。そして、壁にもたれかかりながらもう一度タブレットの画面に視線を集中
させる。
それから暫く、凛は作品鑑賞に没入した。
「………………うう…………ああ」
入店して三時間。集中して漫画を読み進めていた凛だが、その集中力も切れかけてきて
いた。眉間を揉み解した凛は、部屋の端に置かれた防寒用の毛布を手に取り、それを腹に
掛けて横になる。睡眠をとる事は禁止されていたが、凛が目を閉じると、ものの数十秒で
寝息を立て、夢へと落ちてしまった。
「ハア………………やっぱりね」
気持ちよく眠る凛だが、その幸せも五分と続かない。
個室のドアが、勢いよく開けられた。
「オキャクサマー? 当店は店内での睡眠、並びに公序良俗に反する行為を禁止しており
ます…………って、知ってるわよね? 凛」
声を掛けられ、重いまぶたを薄く開けると、そこには見慣れた顔があった。
光である。
「うん、知ってるよ」
凛の応答に、光は眉根を上げて目を薄める。
「知ってるなら、どうしていつもいつも眠るの?! ここはそういうお店じゃないんだか
ら! アトラスの規則に反するって知ってるでしょ? 私個人としては、他のお客様に迷
惑を掛けないなら何をしてもいいと思うけどね。こういう行為がアトラス警備にバレたら、
営業停止になっちゃうかもしれないのよ? …………って起きろ!」
語気を強め、それでいて他の客へ迷惑を掛けないよう、小声で凛を叱る光。
しかし当の本人は、眠気に打ち勝てないのか、船を漕いだまま目の焦点が定まらない。
「ああ、もう! いいから、ついてきなさい!」
光の発した言葉に、凛は頭を揺らめかせながら疑問符を浮かべた。
「ついてくるって、なに?」
「アンタがだらしないから、外に出て運動させてやろうって言ってるのよ! 下着を買う
って言ったでしょ? それと、ローターも作りたいから。アンタに拒否権はないわよ」
首を振り、拒絶する凛。
理由は単純明快。凛は面倒なのである。
しかし光は、凛の両肩を掴み、鼻先へ顔を近づける。
「い、い、か、ら、き、な、さ、い」
強引に凛の手を引くと、彼女の荷物を勝手にまとめる光。
「ほら、早く支払いを済ませて」
「ふあああい」
気だるげに応えた凛は、鞄からカードを取り出し、タブレットをかざした小型端末へ近
づける。
直ぐにカードから支払いが行われ、決済の完了が音で確認できた。
凛の支払いが済むと、彼女の鞄を担いだ光が、手を引いて部屋の外へ引っ張る。
「ホラ。今日は新しいローターを作りに行くって言ったでしょ? アンタも来て。なんだ
かんだ言って、機械の知識は凄いんだから」
言葉を発するのも面倒な凛は、頭をくねらせながら不気味に頷いた。
友人のだらしない態度にも慣れているらしい光は、凛の手を引いて店の出口に歩き始め
る。
そして、出入り口付近に立っていたハルカを見つけると、手を挙げて声を掛ける。
「それじゃあ行ってくるから。店をよろしくね」
「は、はい。行ってらっしゃいませ」
ハルカの返事に手を振って応えた光は、凛と共に店の外へ出た。




