チャプター 24:「百足」
クルマに負担を掛けないよう、細心の注意を払いながら急行した凛は、辛うじて約束の
時間に間に合った。
約束の場所には、白いスーツを身につけたヤクザ風の男と、見たことのない巨大なクル
マが停まっていた。
「やあやあ、いらっしゃい。友達想いの神楽坂凛ちゃんっ」
酒焼けしたノイズの多い声で、虎々は楽しそうに凛へ言葉を掛ける。そんな虎々を、凛
は冷ややかな目で見ていた。
否。表情は冷静であってもその心中は憤怒の炎が燃えたぎっていた。
父や同志達の誇りであるガーデンの威を借り、横暴を働く男。
外界へ出た人間達を殺害し、本来医療に使われるべき薬を違法に売りさばく無法者。
そして、自分が生まれてから初めてできた、心を許せる友人を誘拐した犯人。
まさしく、仇敵。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。これから楽しいバトルなんだからよお…………ホ
ラ」
数メートル先から放り投げられたメモリーカードを受け取った凛は、上体をクルマの中
へ潜り込ませ、備え付けられたナビゲーションシステムにかざす。
HUDに表示されたのは、タイトコーナーが殆どない高速コーナーばかりで構成された
コースだった。ヘアピンなどは一切無く、見かけ上で最も急なコーナーは、四カ所に存在
するL字の直角コーナーのみ。
それだけで相手のマシン特性を理解した凛は、余裕の表情で笑む虎々を睨んだ。
「…………いいよ。わたしは負けない」
それが虚勢に見えたのか、虎々は壊れたように笑い出す。
「ク、クク…………アハハハハハハ! いいよ、いいよお前! どんな表情で鳴くのか楽
しみだぜ」
自分のクルマのドアを開けた虎々が、肩越しに凛を見る。
「ルールは単純だ。指定したゴールまで、お前が俺にちぎられたら(・・・・・・)負け。
逆に、最後までついてこられたらお前の勝ちだ」
「わかった。あなたが先行ね」
頷いた虎々は、クルマに乗り込むとヘッドライトを点け、マシンを動かし始める。内燃
機関車とは全く異なる、モーターの駆動音が駐車場に響く。
それに合わせるように、アスファルトで舗装された道路について出て行く凛。
車道へ出てから数秒。ゆっくりと前進していた虎々のマシンは、何の前触れもなく急加
速を行った。ゼロ静止状態からのスタートだとは説明していない。重量のあるクルマが最
も厳しいのは、静止状態からの発進である。
自分のクルマの欠点を補うため巧妙に計算した、卑怯なレーススタート。
しかし、凛は眉一つ動かさずそれに追従する。冷静に一速を使い切り、即座に二速へシ
フトアップ。野獣の咆哮を全身に浴びるような、暴力的なトルクを発揮する凛のFDは順
調に車速を延ばしていった。
それでも、虎々のマシンには一歩及ばない。ハイスピードコースを設定してきているだ
けあり、加速の鋭さとスタビリティは目をみはるものがあった。凛の駆るFDよりも馬力
があるだけでなく、そのボディの挙動からは余裕が感じられた。
間髪入れずに三速へ。レブリミットが六千回転に設定されている事がネックとなり、ギ
ア一速辺りの伸びが物足りない。確実に凛の組み上げたFDの方が完成度の高いマシンに
仕上がっていた。
虎々のマシンを追いながら、凛は自身の判断を初めて後悔した。馬力こそ凛のクルマよ
り大きいものの、それ以外のマシンバランスがあまりにも崩れていたのである。
トルクが太すぎるが故に、加速時のアクセルコントロールが非常にシビア。その上、何
故かサスペンションの減衰力が通常よりも高く設定されており、車体の重量と釣り合わな
いそれらが、ステアリング操作に敏感に反応し、車体を暴れさせる。
通常ならば勝負にならないようなバトルだが、凛はクルマを追い立て続けた。スタート
から数秒で、自身の背負うディスアドバンテージの大きさに気づき打ちひしがれながらも、
一秒でも厳島の動ける時間を稼ぐため、バトルを続ける。
何より凛は、自分の宝物を汚した虎々に絶対に負けたくなかった。
「ふう…………!」
深く息を吐く。
そして、遂にやってくる一つ目のコーナー。緩く左に曲がって行くコースへ、頼りない
タイヤのグリップを注ぎ込み、車体を曲げていく。センシティヴな凛の両手と、背中から
伝わる四輪の接地状態。ペダルの動きにレスポンスするエンジン。そして、身体中に受け
る慣性重力を頼りに、クルマの姿勢をベストな状態で維持する凛。それは最早、神業の領
域にあった。
先を行く虎々のクルマを睨んでいた凛が、静かに、不敵に笑う。
三速を維持し、アクセルワークで見事にコーナリングした凛のFDは、クルマの不利を
覆し、虎々のクルマへ僅かに迫っていたのである。ヌケの悪さはあるものの、吹け上がっ
て行くエンジンからは、確かな信頼が感じられた。
少なくとも、バトルが終わるまで壊れる事はない。
そう確信できただけで、凛にとっては大きなアドバンテージとなっていた。
同時に、通常では勝ち目のない戦いに勝機を見る。コーナーワークで負けていなければ、
高速コーナーであれ、低速コーナーであれ、ハイパワー車に追従する事は可能である。僅
かなアドバンテージを積み上げれば直線での馬力差を埋める事も不可能ではなく、オーバ
ーテイクのチャンスさえ掴めたなら、十分に勝つことができると結論した。
日頃の凛からは想像もつかないような鬼気迫るドライブで、集中力を極限まで高め、マ
シンをコントロールする。車速は百七十キロメートルを超え、辺りの景色は殆ど見えなく
なっていた。
更に緩い、見通しの良い左コーナーで、凛の駆るマシンは虎々の電気自動車へ迫ってい
た。例えスタビリティが高かろうと、すべてのクルマは物理法則からは逃れられない。接
地面積が倍の虎々のマシンだが、その車重はFDの倍に近い。本来ならば十分に鋭い筈の
コーナリングパフォーマンスは、凛のそれに劣っていた。
FDのヘッドライトに照らされ、虎々のドライブする電気自動車のテイルが浮かび上が
る。
そこには、アルファベットで”CENTIPEDE”と刻印されていた。
まるでムカデのような、不気味な八輪自動車。
「嫌な、名前…………!」
悪趣味なネーミングに顔をしかめながら、虎々のマシンへと近付いてゆく凛。今までに
培ったマシンコントロールの技術が総動員され、皿の上を滑る氷のようなクルマを、繊細
に、丁寧に操る。順調に車間は縮まり、スタート時に奪われていたアドバンテージは、ほ
ぼ取り返すことができる距離まで詰め寄る。
しかし。
「えっ?」
樹脂が割れるような音と共に、車体が減速する(・・・・・・・)。車速は百八十キロメ
ートル。
外されている事が当たり前の、スピードリミッターが機能していた。
まるで予想していない事態に、凛の思考が停止する。パニックに陥らず、車体のコント
ロールを手放さないのは、神経に刻み込まれたテクニック故である。
ようやく取り返すことのできていた車間が、みるみる広がってゆく。集中力を削り取り、
死にもの狂いで獲得したアドバンテージが、一瞬で手からこぼれ落ちてゆく。凛の見立て
で八百馬力以上は出ているであろう虎々のマシンは、スピードリミッターの掛かった凛の
マシンから悠々と離れて行く。
それでも諦めずバトルを続行する凛は、神にも縋る想いでクルマを走らせた。厳島が光
達を発見し、無事救出できる事を信じて。
しかし、心の弱った凛にも、道路は容赦なく襲いかかる。前時代に築かれていたであろ
う送電線が切れ、狭い幅員が更に狭められていた。ギリギリで車体を通した凛に対し、車
速に余裕を持ってクリアした虎々のマシンは、勝利を確信したかのような自信が見て取れ
た。
クルマをコントロールする技術では、凛が圧倒的に優れているのにもかかわらず、マシ
ンそのものの性能差で戦いが拮抗している。
凛は泣きそうになりながら、執念で虎々へ食いついていく。アクセルを開けるセクショ
ンでは圧倒的に不利であり、ただでさえ安定性の低いマシンにリミッターの影響が加わり、
絶望的な状況が更に悪化するという、文字通り最悪の事態が発生していたのである。
通常のドライブでは障害になるであろう、路面のうねりやコーナーの複雑なアール。ア
ップダウンなどの高低差を処理する能力で差が縮まっているに過ぎない。超人的な能力を
持つ凛が全力を出し、ようやく勝負になるようなレースだった。
また、仮にオーバーテイクが成功したとしても、前に出た凛のマシンが逃げきれる可能
性は低い。二百キロ近いスピードで走っているとはいえ、追い抜きポイントのコーナー以
外も、直線で馬力任せの追い抜きをする事は可能である。ブロックも難しく、凛の手にあ
る材料だけでは、最後まで食いついていけるレベルに到達していなかった。
それでも凛は、必死に頭を回転させ感覚器から収集された情報を処理しながら、勝ちへ
の手段を探り続けた。




