チャプター 23:「動転」
午後五時三十分。
光達を先に返した後、撤収作業を行っていた厳島と共に朝帰りした凛は、疲れ果て夕方
まで睡眠をとっていた。
ようやくベッドから抜け出し、行きつけの喫茶店へやってきた凛は、見知った顔が居な
い事に首を傾げる。
「うーん…………ハルカちゃん、今日は休みなのかな」
毎週決まった日に休むハルカだが、その日は毎週出勤している日である。凛の気のせい
か、従業員も少し慌ただしかった。
店の様子がいつもと違う事に戸惑うも、光達と約束した写真交換の時間を楽しみに待つ。
いつものように、マットの個室に案内された凛は、愛用のタブレットを店の端末にかざし、
漫画の閲覧を始めた。自分が気にしなくとも、時間にうるさい光が呼びに来る事はわかっ
ていた為、安心して漫画の世界へ没入する。
「…………ふう。光、どうしたんだろう」
ため息と共に疑問符を浮かべる凛。
約束の時間は過ぎており、それでも尚、バックヤードから出てくる事も、携帯電話への
連絡も無い。
光だけでも不可解であるが、連絡事に細かい百合からも音沙汰がないことに、流石の凛
も心配になってきていた。
鞄からピンク色の携帯電話を取り出し、登録されている光の番号へカーソルを移動させ
て行く。
「あっ、光!」
ダイヤルが始まる直前、相手である光から着信が入った。振動する携帯電話の通話ボタ
ンを押し込み、ほっとした様子で受話器を耳に当てる。
しかし、聞こえてきた声は光のものではなかった。
『ハアイ? こんばんわあ。元気にしてるかなあ? 神楽坂凛ちゃん』
「あなた…………誰?」
聞き覚えのないしゃがれた声に、凛は眉をひそめた。
『おいおーい…………つれない事言ってくれるなよ。あそこで身体をまさぐり合った仲だ
ろ?』
「――あなたまさか!?」
その一言で、自分が襲われかけた強姦魔である事に気がつき、凛が悲鳴のように声を発
した。
「その携帯、光のなのに。どうして持ってるの?! 光はどこにいるの!」
穏やかなキャラクターに似合わない厳しい口調で問う凛に、虎々はさも可笑しそうに返
答する。
『まあまあ! そう急くなよ。光ちゃんと百合ちゃんは、今俺の家に遊びに来てるんだ。
それで凛ちゃんも来て欲しいから呼んで欲しいってな』
「ウソ言わないで! 光と百合は、今夜会う約束をしてたの。ねえ…………光はどこに居
るの?!」
受話器から漏れたのは、苛立ちを隠そうともしない虎々の舌打ちだった。
『チッ、めんどくせえな。まあいい。どうしても二人に会いたきゃあ、俺とバトルしろ。
お前が俺に勝てれば、二人を返してやるよ。そのかわり、だ。お前が負けたら、凛ちゃん
は俺のオモチャになってもらうぜ?』
訝しげな表情で通話する凛は、一拍置いて返答した。
「…………わかった。場所はどこ?」
『オーケイオーケイ話が早い。場所は………………そうだな。ドラッグレース場の北にあ
る大型量販店跡で待ってるぜ。お前のクルマ、ルートメモリは?』
「使えるよ。それでコースを?」
虎々が質問しているのは、ナビゲーションシステムに搭載されている、特定のルートを
表示させる機能の有無である。個人同士の長いコースの場合、地図上でルートを設定し、
それをナビのルートに設定する事で、ラリーのステージのようなコースを作り出すタイプ
のレースを行う為のものである。
凛の返答に、虎々は下品な笑い声を発した。
『ヒヒヒッ! それじゃあ、今から一時間後に開始だ。少しでも遅れたらお友達が悲しい
事になっちまうかもな! じゃあな!』
「ちょっと待って!? 今からじゃ――」
凛の返答を待たずして、一方的に通話が途切れる。約束の時間は、普通のスピードでは
先ず間に合わないような無茶なものだった。
「…………急がなきゃ!」
しかし凛の行動は早かった。伊達に大組織の幹部を勤めているわけではない。
広げていた私物を乱暴に鞄へ押し込むと、そのまま個室を飛び出し、店の出入り口をく
ぐる。出入り口のゲートで強制決済の音が鳴るも、それを気にも留めず、凛は急いで環状
線の駅へ向かった。
私生活で走ることのない凛が、息を荒げ歩道を掛ける。
そして、足を止めないまま、鞄から携帯電話を取り出し、厳島へ連絡する。
一度目のコールの後、通話が開始される。
『はい。厳島です』
「厳島! 光と百合が浚われたの! ガーデンの実働隊を使って、外界を探して!」
息が上がっている凛の声は強いものになっていた。
受話器の向こうから、厳島の困惑した声が聞こえた。
『本来ならば動かすべきではないのですが…………かしこまりました。直ぐに手配いたし
ます。幸い、件のコカイン流通ルートの捜査で、それらしきアジトをいくつかマークして
おりますので、救出は難しくないかと。お嬢様は司令室へ――』
「わたしは二人を浚った男に呼び出されたの! 少しでも遅れたら、そっちの部隊が間に
合わないかもしれない。だから、わたしが時間を稼ぐ!」
その一言で、淡泊な厳島の声色が厳しいものへと変わった。
『お嬢様、いけません! 仮に…………コカインと臓器の密売に関わっている男なら、何
をしてくるかわからないような相手です。護衛を手配致しますので十五分お待ち下さい』
「ダメ! そんなに待ってたら間に合わなくなっちゃう! わたしがその男とバトルをし
ている間に…………必ず二人を助けて! お願いね、厳島」
『お嬢様! いけませ――』
強引に通話を切り、携帯電話を鞄に放り込んだ凛は、タイミング良くやってきたモノレ
ールに飛び乗り、浮遊島連絡線の駅へ向かう。
そして、駆け足で乗り換えた凛は、直ぐに工業エリアの環状線へ乗り込み、自分のガレ
ージへ向かった。
「はあ…………はあ………………?!」
耳が痛くなるほど激しく動く心臓と、全身から吹き出す汗。
息を整えながら、凛はクルマのキーを取り出し、自分のFDのキーシリンダーへ差し込
む。
「…………?!」
しかし、凛の直感は、そのクルマの選択を否定した。自分のクルマのコンディションが
よくないことは、整備する凛が一番理解していた。タービンの動きが怪しく、限界一杯ま
で出力を上げている凛のFDは、タービンをブローする危険があった。
直感が鋭いと自覚していた凛は、自分のクルマで向かう事を止める。
残されたのは、父の残したブルーメタリックのFD一台。
「これで…………やれるかな?」
凛は不安だった。一度乗っただけで、そのクルマは扱いづらく、確実に自分のクルマよ
り遅い(・・・・・・・・・・・・・)事は解っていた。それでも、機関のコンディション
そのものが悪いわけではなく、バトルの途中で故障するリスクは確実に少ないと判断でき
た。
クルマのディスアドバンテージを腕でカバーできるか、凛には自信がなかった。
しかし。
「…………ううん。やらなきゃ!」
意を決し、ガレージの隠し棚を開け、小型の拳銃を取り出す。それを持ったままドアを
開けたFDに乗り込み、ナビシートの下へ銃を隠す。
そして、深呼吸と共にクルマのキーを捻る。
「ふう………………よし」
深く息を吐くと、喉を鳴らす猛獣のようなFDのギアを操作し、クルマを発進させる。
浮遊島から陸への連絡橋を渡った凛は、クルマのアクセルを目一杯踏み込んだ。




