チャプター 01:「アトラス」
未曾有の科学災害により、生物が激減して半世紀。辛うじて生き延びた人類は、鳥かご
の中で生活を続けていた。
人工洋上都市、アトラス。
アトラス社が政府の援助を受け、万が一の事態を想定して建造された、完全循環型都市
である。ほぼ全ての人間がアトラスの外に出る事なく生活でき、外装のメンテナンスをは
じめとした外界の作業の多くは、機械により自動化されている。
五百四十万の人間が生きる、最後の楽園。
「乾杯!」
かち合ったジョッキから、注がれた飲み物が飛び跳ねる。
幾つもの区画を持つ巨大なアトラスの片隅、商業区に位置する高級料理店の中に、凛と
百合、光の姿があった。三人はきらびやかな装飾の施された個室で、円形のテーブルを囲
んでいる。
彼女達の眼前には、アトラスで滅多に食べる事のできない高級肉、珍味の数々が並ぶ。
完全自立型を目指して設計されているアトラス内において、霜降り肉などの高級品生産数
は、通常の畜産と比べるまでもなく少なく、希少である。
幾つも並ぶその一皿が、一般労働者の月収に相当する肉。
三人の掛けるテーブルでは、光が一皿で一般労働者の月収に相当する肉を乱暴に網へ乗
せ、凛が焼けた先から口へ運ぶ流れが形成されていた。
彼女達にはさして珍しくない、勝利の宴会である。
「ねえ、それでさ」
網の上で焼けて行く肉を眺めながら、光が短い金髪を揺らし、凛を見た。
「アンタ、今日の配当はなかったって言ってたけど、どういう事なの?」
光の声色には、批難の色が見える。
しかし凛は、悪びれた様子もなく、肉を食べ続けた。
「あうあいっ、あっえおあいえい――」
「口にモノ入れたまま喋らないで!」
光が大声を上げた事で初めて驚いた凛は、ゆっくりと肉を租借した後、飲み込み、口を
開く。
「…………あんまり、光ばっかりに賭けるのも申し訳ないかなって。ここのところ、ドラ
ッグレースは光が四連勝くらいしてるでしょ? 実際に、車のスペックでは負けようがな
いんだもの。それを無理やり、ハンデや展開の演出で接戦に見せるのは、ちょっとズルイ
よ?」
光は腕を組んで鼻で笑った。
「ナニ言ってるのよ。電気自動車なんて軟弱なクルマに乗ってるから勝てないんでしょう
が! 何だっけ? TTVのS2(スポーツスタンダード)? あんな玩具で私のSA22
に勝とうなんて方がお笑いだわ!」
あまりに端的な光の意見に、百合が空笑いを洩らした。
「玩具とは言うが。あのクルマだって、私のクルマより百馬力以上ハイパワーなんだぞ?
確かにS2の車体は重いが、それでもバランスの取れた、扱いやすいクルマだ」
「それが気に入らないのよ! 誰が乗ってもそこそこ速いなんて、オペレーターとしての
腕がありません、って公言してるようなものじゃないの。電子制御で最適な加速と車体の
バランスを取って、全速度域で有効なトルク特性…………ぜんっぜん面白くないし。それ
で負けて悔しいなら、もっと尖ったクルマをもってこればいいのよ!」
それを正論ととらえたのか、百合が箸を置き、小さくため息をついた。
「光の意見はもっともだが。クルマは馬力だけが全てじゃない。現に、中低速のテクニカ
ルコースでは私のクルマ(FC)が僅かに速いだろう? トータルバランスも重要かと思う
が」
正論で返され、両手で握り拳を作る光。
「そ、そうだけど! それでも、腕次第で五分に――」
議論に火がつき始めた矢先、突付かれ視線を向けた光は、口を動かしながら皿を指差す
凛を見る。
「ねえねえ。そのロース、とってもらっていい?」
百合と光は、半目で凛を眺めながら肩を竦めた。
「アンタって…………本当にマイペースよね。クルマ好きの集まりなんだから、普通はク
ルマの話をしてたら入ってくるものでしょうが! アンタだってクルマ好きでしょ?」
光の差し出した皿を受け取りながら、凛は真顔で頷いた。
「うん。でも、今はお肉の方が好き」
微笑しつつ、網へ肉を並べて行く凛に、光は目を伏せ、眉間にシワを寄せながら深いた
め息をつく。
「ほんっと…………納得いかないわね。普段はこんな(・・・)なのに、車に乗ったらスー
パーテクニシャンなんだから。大体ね、いっつも不思議なんだけど、アンタいつも食べて
寝るだけの生活してて、どうして太らないの?」
黙々と肉を焼き続けていた凛が、光に視線を移した後、首を傾げた。
数秒の思案の後、嚥下を終えた口が静かに開かれる。
「どうして太るの?」
眉をひそめ、さも不思議そうに首を捻る凛の発した一言に、二人の顔が引き攣った。
光と百合が、顔を見合わせる。
「ねえ百合。今この子、なんて?」
「私の耳が狂っていなければ、〝どうして太るの?〟と聞こえたぞ」
やり取りの後、二人から妬みの視線を受け、凛は困惑した。
「どうしたの? 二人とも」
まるで場の空気を読めない凛に、遂に諦めたのか、光も百合も、肩を落とし、深く長い
ため息をついた。
「…………まあ、いいわ。アンタがふわふわの不思議ちゃんって事はよく知ってるんだか
ら。太らないのは人体の神秘として――」
泳いでいた光の視線が、ぴたりとある一点を見定める。
凛の胸だった。
「ねえ、凛。アンタ今……」
光の視線に気がつき、凛は左腕で乳房を持ち上げながら頷いた。
「うん。今朝、最後のブラが壊れちゃって。きついのを無理につけてたからホックが壊れ
ちゃったみたいなの。だから今は、なにもつけてないよ」
光は目を見開き凛を見つめていたが、その後視線を落とし、自分の小ぶりな胸に触れた。
そして、頭が僅かに痙攣したかと思うと、ステーキをカットする為に用意されたナイフを
掴み、それを振り上げる。
咄嗟の出来事だが、百合が見事反応し、光を羽交い絞めにした。
「この! 女の敵があああああああああああああああああああああああ! 食べても胸が
大きくなるだけですってええええ!? ふざけんじゃないわよアンタ! その駄肉を!
今ここで! 捌いて焼いてやるわ!」
「光!? 気持ちはわかるが落ち着け! ほら、凛も謝って――」
百合が視線を向けると、目の当たりにした光景に硬直する。
友人が刃物を持って暴れているのにもかかわらず、凛は全く気にした様子もなく、肉を
食べ続けていたのである。
数瞬暴れていた光だが、焦りもしない凛に呆れかえり、椅子に座りなおすと深く重いた
め息をついた。
そして、頬杖をつきながら凛を眺める。
光の瞳に浮かぶのは諦観だった。
「アンタって…………本当にどういう精神構造してるのよ。流石に本気で切ろうとは思っ
てないけど、普通もっとアクティブな反応示すわよね」
ようやく焼けたロースを、満面の笑みで頬張る凛が、光へ視線を向ける。
早速口を開こうとするが、先程の注意を覚えていた凛は、肉を何度も租借し、口の中を
空にした後、静かに息を吸う。
「だって。光の目には、人を傷つける意思が感じられないんだもの。貴女はそんな事でき
ないって、わたしは知ってるから。だから驚かないし、怖くもないわ」
穏やかに話す凛の返答に、百合と光は苦笑した。
「本当に変な奴だ。底抜けの楽観主義者だな、凛は。いや…………ともすれば、超大物の
器なのかもしれん」
百合の発した一言へ、光は中年女性のように、無意識に否定してみせる。
「この子が大物? ないない。凛にそんなカリスマ性があるのなら、私なんてとっくに大
富豪よ!」
「光はがめつすぎる(・・・・・・)んだよ。組織を統べる人間は清濁併せ飲む覚悟が必要
だ。それを意識せずにできる凛は……もしかしたら凄い人間になるかもしれないぞ?」
百合の評価が過大とでも言いたいのか、光は眉間を抑えると、顔をしかめ目を閉じた。
「まあ、いいわ。そんな事より、凛のだらしない格好の方が問題よ。タダでさえイヤラシ
イ身体してるのに、この子はちょっと無防備すぎるんだから。百合は明日、時間ある?
凛の下着を買いに行きたいんだけど」
「私はこのままでいいよ。めんどうくさいし」
否定する凛の意見を無視し、光は百合の表情を見る。
その視線に、百合はばつの悪そうな表情を浮かべる。
「明日は仕事なんだ。光と二人で行ってきてくれ」
「リサイクルプラントの管理だっけ? まあ、それなら仕方がないわね。ちょっと行って
買ってくる」
諦めた様子で何度も頷く光だが、凛の視線が自分へ向けられている事に気がつき、目を
向ける。
「ねえ、私も行かなきゃダメ? 今、光の喫茶店で読んでる漫画の続きが…………って、
痛い!」
凛の質問に対する光の返答は、拳骨による鉄拳制裁だった。
涙目で頭を抑える凛へ、光の冷ややかな視線が突き刺さった。
「アンタのものを買うのに、アンタがいなくてどうするの! いいから黙って来なさい!
この喪女引き篭もりニートが!」
「は、はい…………」
目を潤ませながら、凛は渋々頷く。
こうして、普段通りの宴会は日付が変わるまで続いた。