チャプター 18:「ドライブ・ナイト」
「ねえ、凜。ちょっと提案なんだけどさ」
午後九時。月光が海面に反射する、幻想的な夜だった。
海辺の道に停車するのは、三台のRXー7。ヘッドライトが点けられたままの先頭車の
前方で、凜達三人はドライブの休憩をとっていた。凜が大量のガソリンを持ち込んでいる
とはいえ、運転しているのは生身の人間である。その上、三人のクルマは非常に特殊な部
類であり、一般車両の何倍も疲労する乗り物だけに、流石の光達も疲れてきていた。
それぞれに配られた飲み物を静かに飲む三人だが、しゃがんでいた光がふと、凜を見上
げて呟いた。
「アンタのクルマ、ちょっと運転させてもらえない?」
「うん、いいよ」
自分以上にクルマへ拘る凜だけに、断られる事を前提でそれを口にした光は予想外の答
えに驚き、目を見開いた。凜と言えば、しゃがむ光に視線を向けながら不思議そうに首を
傾けていた。
「――あ、いや。そんなにすんなり貸してくれるなんて思ってなかったから。ちょっと驚
いただけ」
凜は更に困惑した様子で腕を組む。その上に乗る豊満な胸を見た光は、自分が挑発され
ているのではないかと邪推する。
「変ね。わたしはずっと良いって言ってたよ? でも、光が――」
「アーアーアー! キコエナーイ!」
乗ってみないかと勧められ、しかし自分が何度も拒否していた事を思い出し、光は火が
出そうな程顔面を赤らめる。ライバルに施しは受けない、などと格好をつけて拒否してい
た過去の自分をひっぱたいてやりたい思いだった。
その上、その場に居た百合までもが、意地悪く笑み、自分を見下ろしているのである。
しかし、面白がる百合の視線に、かえって光は開き直る事ができた。
「あーもー! 確かに格好つけてたわよ! …………でも、やっぱり貪欲になって何でも
経験しないと駄目だって思い直したから」
「うん。とても良い事だと思うよ。父さんのクルマは駄目だけど…………わたしのFDな
らいつでも貸せるから。早速乗る?」
凜から向けられる、無垢な視線。光は、誰に対しても素直で嘲りの無い凜の目が好きだ
った。膨れていた頬も緩み、微笑しながら立ち上がる。
「ええ! 凜のクルマなら、もしかしたら。ぼんやりと見えてきたセッティングの方向が、
もっとはっきりするかもしれない。だから、早速貸してもうね? 岬をちょっと往復して
くるわ」
「うん。わたしと百合はここで待ってるね。クルマを路肩に寄せてヘッドライトを点けて
おくから」
快諾してくれた凜に親指を立て、早速クルマへ近づく。
光の目の前に駐車されているのは、見慣れている凜のクルマ。しかし、ドアを空けた瞬
間、自分のクルマと決定的に違う乗り物であると直感する。
ドアが異様に軽い。それは、外装パネルがドライカーボンへ置き換えられている事を示
していた。軽量なアルミニウムよりも更に軽く、剛性も十分に出すことのできる素材では
あるが、一つのパーツを成型する為に、通常素材の何十倍も費用が掛かる高級品。そして、
それを誰にも悟らせないような、優れた塗装が施されている事に、光は半笑いを浮かべて
いた。
「なに…………これ………………?!」
次に光が驚いたのは、そのボディの完成度である。
運転席へ滑り込み尻をシートへ納め、軽いドアを気持ち弱めに閉めると、当たり前のよ
うに簡単に密閉される車内。開口部が大きいFDにとって、ボディの剛性は重要な課題で
ある。パワープラントフレームによって補強が計られているものの、それはあくまで純正
の出力を前提としたもの。モノコックそのものは純正のものを使用しながら、ハイパワー
を軽々と受け止められる雰囲気を持つ車体の完成度に、光は驚きを禁じ得ない。
次に、クラッチを切り、エンジンキーを捻る。ロータリーエンジンが当たり前のように
始動し、静かにアイドリングを始める。油温や水温は長時間のドライブによって十分に暖
まっており、いつでも発進できる状態になっていた。
シフトノブをゆっくりと一速へ挿し、ウインドウガラスの外に立つ凜へ親指を立てて見
せた。
そして、クラッチをゆっくりと離すと、クルマが静かに動き始める。自分のSAを簡単
に置き去りにした車体とは思えない、穏やかな発進である。
幾らか往復したその道路で、光は半開にしていたアクセルペダルをフロアまで踏み込ん
だ。
電子制御化されたスロットルが即座に応答し、エンジンへ大量の空気を供給し始める。
ターボチャージャーによって空気は更に加圧され、インジェクターから合流した燃料が燃
焼室へ注ぎ込まれ、圧縮の後に燃焼。取り出された熱エネルギーによって燃焼気が膨張し、
その圧力がエンジンのエキセントリックシャフトを回転させる。
ロータリーエンジンは、これらの動作を一分間に一万回以上繰り返す内燃機関である。。
一速は一瞬で吹け切り、シフトポイントを捉えた光は、即座にギアを二速へ滑り込ませ
る。レブリミットが通常のエンジンに比べ僅かに引き上げられてはいるものの、シフトア
ップ後も全く淀むことなく吹け上がるエンジンは最早芸術の域にあった。実用出力を発生
させる回転域も非常に広く、ターボラグを全く感じさせない。
すべての動作が自分のクルマ以上に滑らかな事に、光は凜の技術に改めて驚かされてい
た。出力云々ではなく、パワートレインのトータルバランスは比較するまでもなく別次元
の完成度である。
車速が乗ってきた所で、初めてコーナーと言える場所へ突入する。シフトノブへ手を掛
けず、二速で旋回しようと試みた光は、あまりの挙動に言葉を失った。
荒れた路面をものともせず、さも当たり前のように曲がって行く凜のFD。車体はどこ
までもニュートラルステアを維持し、まさに、オペレーターが自由自在に動かせるクルマ
に仕上がっていた。
そして、凜の腕を信用していた光は、自分のクルマとほぼ同等の速度でコーナーへ進入
させるにもかかわらず、その挙動はどこまでも穏やかなまま。
凜の仕上げたクルマに、光は恐怖した。
コーナリングスピードの限界が高いクルマは、能力の頂点に近づくにつれ、シビアにな
って行く。そして、その手のクルマは往々にして、一度破綻すると取り返しがつかない。
平均以上に速度がでている分、ミスから導かれる死のリスクは大きく膨らんで行くのであ
る。
そのクルマには、どこまででも行けるような錯覚に陥る、酷く強力な魔力が宿っていた。
まるで、オペレーター自身の腕を過信させ、死へと手を引く化け物のようなクルマ。
光は自身の限界を半歩越えた地点まで体感すると、それ以上、クルマを攻め立てる事が
できなかった。
大きく溜息をつくと、車速を落とし、Uターンを始める。コーナーにして四つ。片道の
時間は一分にも満たない。
しかしそれだけの体験で、自分には不相応なクルマであると光には理解できた。スタビ
リティとコーナリングパフォーマンスを両立する事は非常に難しい。相反する要素であり、
高いレベルでバランスさせる事は至難の業である。
そして、光はしっかりと記憶していた。凜は橋の上、それも、どのような路面リスクが
あるのか全く解らない場所で、そのクルマをドリフトさせていた(・・・・・・・・・)の
である。
「全く…………勘弁してよ……」
自然にこみ上げてくる空虚な笑いを浮かべながら、光は元の場所へ引き返して行く。
ヘッドライトの前にクルマを停車させた光は、エンジンを一度煽り、凜のFDを停止さ
せる。
クルマから降りた光に、凜は訝しげに首を捻る。
「もういいの? まだ全然経ってないよ?」
いつものように首を傾げる凜に、光は恐怖を隠しきれなかった。目の前に立っている寝
ぼけたような表情の女は、FD3Sというクルマをここまで突き詰め、その限界を完璧に
読み切り、自在に操っているのである。
FDの性能を体感した光には、凜が別世界の生物であるかのように見えていた。
「どうした? あんまり凄すぎて臆したのか?」
からかいに近づいてくる百合だが、今までのチューニングノウハウを根底から覆されて
しまっていた光には、全く反論する気力が残っていなかった。
「ええ…………そうよ。アンタも乗ってみれば解るわ」
「ほう」
光の反応が想定外であったのか、眉をひそめた百合は凜へ視線を移す。
「私も少し借りていいかな。ハイパワーなクルマに乗り慣れていない分、抑えて走る事を
約束する」
「うん。だけど、遠慮しなくていいよ? 自分が行けると思った所まで攻め込んでも大丈
夫だから。このクルマはわたしの自信作なんだよ」
両手を腰に当て胸を張る凜は、まるで我が子を自慢するかのようだった。強ばっていた
光も、凜の見せた普段通りの振る舞いに心身を弛緩させる。
「そうか。ならば、遠慮なく運転させて貰おう」
「うん」
何気なく乗り込んだ百合だが、その表情が一瞬で驚愕に塗り変わっていた。恐らく自分
と同じ事を感じているのだろうと考えた光は、驚いた様子の百合に笑いかける。それは、
からかった百合へお返しができた事による笑みだった。
その意図が通じたのか、堅い笑みを返した百合は、クルマをゆっくりと発進させる。
ロータリーエンジンのエキゾースト音が遠ざかって行く中、光は、百合が戻ってくる時
を静かに待った。凜と言えば、何を考えるのか、黙ったまま空を見上げていた。
「…………やっぱり、ね」
光と同じように、ほんの数コーナーを流しただけで百合が引き返してきた。エンジンを
止めた百合へ近づき、アイコンタクトを取ると、その目には光に何を伝えたいのかはっき
りと映っていた。
そして、同じ場所に近づいてきた凜は、訝しげに二人を交互に見る。
「二人とも、もういいの? 何だろう…………やっぱり、ターボの調子が少し悪いからか
な。ごめんね? 帰ったらオーバーホールするから、それからなら――」
「いや、いやいやいや! これで万全な状態じゃいワケ? まだ上があるの?!」
心情をまるで汲み取れない様子の凜に、百合と光は見合い、苦笑いを浮かべた。
笑い合ったまま口を開かない光と百合に首を傾げていた凜は、何かを思い出したかのよ
うに無邪気に笑う。そして、二人に顔を近づけ、大きく息を吸った。
「そういえば、ね? 明日に凄いお楽しみがあるから、楽しみにしてて?」
思わせぶりな凜の表現に、二人は頭を捻る。
そして、それが狙った通りと言わんばかりに、凜は笑い続けた。




