チャプター 00:「イントロダクション」
月光の降り注ぐ、夏の夜。
生ぬるく湿り気の多い夜風に髪を弄ばれながら、神楽坂凛は遠方を眺
めていた。
彼女が立つのは、大昔に舗装された三車線の幹線道路跡。道路から見て、ガードレール
の外側に立つ彼女は、タンクトップにタイトなデニムパンツを身につけ、栗色の髪を後頭
部で結ぶ。
容姿端麗でラフな服装から、妖艶でありながら無防備な雰囲気を纏う不思議な女だった。
夜の道路に立つ人影は彼女だけではなかったが、凛の直ぐ左手で腕を組む女だけは、彼
女の連れである事がうかがえる。
凛の隣に立つ、パンツスーツを着こなした黒髪の女が、凛へ視線を向けた。
「どうなると思う? 今夜の結果は」
凛が微笑し、目を伏せた。
「十中八九、光が勝つでしょうね。クルマのスペック的にも、テクニック的にも」
凛の意見に同意した様子で頷いた黒髪の女は、右耳のイヤリングを触りながら、視線を
遠方へ向けた。
「私も同意見だ…………が、しかし。今回はかなりのハンデを背負ってるんだろう? 光
の腕は認めるが、0-1000(静止状態から千メートルのタイムを競う競技)で百メート
ルもハンデを与えて勝てるのか?」
凛は微笑を崩さず、目を閉じて二度頷いた。
「見たところ、相手が乗ってる電気自動車は四百馬力前後。車体重量は…………カタログ
スペックでは、千八百五十キロくらいだったかしら。静止状態からのトルクは圧倒的に有
利。けれど、その程度のスペック差ではひっくり返せない。光のクルマの完成
度も、光自身のテクニックもね。それでも、百合は不安?」
百合と呼ばれた黒髪の女は、凛を一瞥すると、つられて微笑する。
「いいや? 不安は感じてない。私がわからないのは、人一倍負けず嫌いな光が、何故ハ
ンデなんて言い出したのか、って事だ」
「そんなの簡単じゃない?」
凛が指差した先には、電光掲示板へ群がる多くの若者の姿があった。電光掲示板には左
右に二つの数字が並び、それが賭博のオッズである事が読み取れる。
視線を戻した百合に、凛が口を開く。
「光はきっと、オッズが崩れるのを防ぎたかっただけよ。これ以上配当が減ると、今夜の
パーティーが寂しくなっちゃうから。百合なら、とっくに気がついてると思ったのに」
悪戯っぽく言い回す凛だが、指摘した事が的を得ていると感じたのか、百合は怒る様子
もなく、腕を組んだまま肩を竦めた。
「まさかとは思ってたが…………本当にそれだけの為に、なんだな」
「本当の所は私にもわからないけどね? 後で本人に聞いてみればいいじゃない」
百合が苦笑する。
「そう、だな。まあ、とは言え」
ふと、遠方から闇をかき消すヘッドライトが煌いた。
「商人魂たくましいあの光の事だ。そういう事なんだろうな」
「そうね」
穏やかに談笑する二人が眺める先のヘッドライトが、徐々に近づいてくる。レースのス
タートは一キロメートル先。
しかし、その距離をものともせず、馬力の塊と化した二台のクルマは、轟音を纏いなが
ら近づいてくる。
凛から見て奥を走る車は、無骨な造型の電気自動車だった。黒く鈍重な車体を莫大なト
ルクによって押し出し、対戦相手のクルマをリードしている。
対して、手前のクルマはノスタルジーを感じさせるデザイン。身軽な挙動や腰高な姿か
らは可愛さすら感じられる。
しかし、夜の廃都に鳴り響く轟音を発しているのは、手前を走るライトグリーンのクル
マだった。
ゴールまで百メートルの位置に立っている凛と百合。
百合が動揺した様子で、反響に負けないよう声を張る。
「ちょっと…………光のクルマ、遅れてるじゃないか!? もうゴールまでいくらもない
ぞ?!」
身を乗り出す百合に対し、凛は涼しげに微笑し、目を伏せた。
「いいえ? 光の勝ちよ。彼女のクルマは、ここから来る(・・)」
黒い電気自動車から二車身は遅れていたライトグリーンのクルマは、エンジンの咆哮が
一定の高さに達した瞬間。
光のクルマが金切り声のような甲高い音を発し、前方に飛び出した(・・・・・・・・)。
「なっ…………?!」
口を開け驚く百合を他所に、光のクルマは枷を外された馬のように相手へ追い縋る。通
常のレースであれば残り百メートルで二車身を逆転する事は難しい。より大きなパワーを
持っていても、それを推進力に変えるのは、乗り手の腕だからだ。
目が眩むようなヘッドライトの光を発しながら、けたたましい爆音を伴った鉄塊二つが、
二人の眼前を飛び去る。
逃げる電気自動車。
「あとちょっと…………もう………………少し!」
興奮した様子で呟く百合。
一車身、半車身と迫る光のクルマ。
二台がフィニッシュラインに近づくにつれ強くなる、興奮に満ちた歓声。
そして。
爆発的に加速した光の車は、ゴールライン手前で相手の電気自動車を差し返し、見事勝
利した。
百合が大きくため息をつく。
「…………勝つとは思っていたが、ここまで接戦になるとは。負けるんじゃないかと肝を
冷やしたよ」
「えっ?」
小首を傾げる凛に、百合は同じように疑問符を浮かべた。
そして、何かに気がついたのか、凛を見たまま目を見開いた。
「ま、まさか。本気で踏んで――」
言いかけた百合の口を、凛がそっと塞ぐ。
「駄目よ? 光は次の事も考えているんでしょうからね。大差で勝っちゃったら、ゲーム
を楽しんでる人たちにも悪いでしょ?」
凛が指を指す先には、バトルのディーラーと、それに群がる大勢の若者が居た。
そして、その中から出てきた一人の少女が、二人へ駆け寄ってくる。
二人の前に立ち止まった金髪の少女は、大股で足を開いてVサインを掲げた。
「イエイ! 今日も勝っちゃったよ! 百合の分の配当も貰ってきたから……って、どう
したの? 二人とも」
涼しげに笑う凛と、呆れた様子の百合。
奇妙な様子を観察していた短いツインテイルの光だが、直ぐに笑顔を取り戻し、二人の
腕を掴む。
「何故か凛の分はなかったけど…………まあいいわ。さあさあ! アトラスに戻って宴会
と行きましょうよ!」
百合が困惑した様子で頷き、凛に目を配る。
「ああ、そうだな。行こうか」
「ええ」
三人がそれぞれのクルマに乗り込んだ。
光がドアを開いたのは、先ほどまでのバトルで乗車していた、ライトグリーンのボディ
にフェンダーミラーをのせた初代RX-7、SA22。
百合が乗り込んだのは、純白のカラーリングを施された二代目RX-7、FC3S。
そして最後に、凛がエンジンを掛けたのは、真っ黒な流線型のボディがグラマラスな、
最終型RX-7、FD3S。
三人の少女達が乗り込んだ車は、海へ向かって走り出した。