表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

猩々

作者: 水瀬黎

むかしむかし。

お隣の広い広い国が中国という名になる前のこと。

揚子江のほとりにある金山(かねきんさん)という山の麓に、

高風(こうふう)という者が住んでいた。

高風は幼い頃から両親を大切にする優しい人だと噂だったからだろうか。

ある夜、不思議な夢をみた。


燃えるように赤い紅葉の下、高風はただ一人、(たたず)んでいた。

紅葉狩りだというのに酒を飲むこともなく、口を開くこともなく、

ただひたすら紅葉を見つめていた。

紅葉が秋風に揺られ舞い散る中で。

「酒をつくって売れ。そうすればきっと大金持ちになるだろう」と。

 夢はいつも其処で終わる。


高風は同じ夢を何度もみた。

其の言葉を告げたのが誰だったのか、どんな姿をしていたのか。

幾度も幾度も思い出そうと頭をひねったものの、

どうしても思い出すことができなかった。

しかしながら高風は其れを神のお告げだと信じ

金山に閉じこもっている爺さんに酒のつくりかたを教わり、

家から遠くはなれた市へ売りに行った。

高風がつくった酒は飛ぶように売れ、いちいち市へ売りにいくのでは間に合わなくなった。

幸い今まで酒を売って得た金もあったので高風は小さな店をかまえ、そこで酒を売ることにした。

店は繁盛し、夕方になると高風の店は酒を買いに来る者、または酒を飲みに来る者でにぎわった。


 時が過ぎ去り、また巡り。

高風の日頃の行いが良いおかげか、はたまた運が良かったのか

しだいに高風は裕福になり、田舎の両親を街によんで暮らすようになった。

 そんなある日のこと。

高風の店に童子のような格好をした赤毛の不思議な客がやってきた。

其の客はいつも一人でやってきて勘定台の近くの席に腰かけて酒を飲んだ。

他の客が大声で笑ったり唄ったり、たまに喧嘩したりしている中で

誰とも言葉を交わすこともなく静かに、おいしそうに酒を飲む姿は

見ていて悪い気がしなかった。

ただ、不審に思ったことがひとつ。

彼はいくら盃を重ねても顔色がまったく変わらないのだ。

自分も酒に強い方だと自負していたのだが、店で一番強い

ひとくちで酒豪でさえ酔ってしまうほど酒精濃度の高い酒を一壺、

平然と飲み干したのには心底驚かされた。

その時、高風は思い切って相手に名を尋ねた。君は何者なんだい、と。

「俺は揚子江の中に住んでいる猩々という者だ」

揚子江って……水の中じゃないか! 

水の中に人が住んでいるなんて前代未聞だ。だとすると、この人は。

 ふと頭に浮かんだ問いを発しようと口を開きかけたが、

猩々は盃を空にすると席を立ちあがり、先程買い取った酒の壺を胸に抱いて

揚子江の中に飛びこんで去っていってしまった。

高風はなんとなく猩々に申し訳なく思い、潯陽(しんよう)のほとりへ行き

壺に猩々が酒屋に来るたびにかかさず飲んでいる酒をなみなみと満たして猩々を待つことにした。

 潯陽の(かたわ)らで菊の酒を壺に満たして

夜もすがら、月を前にして彼を待つ。

何度も何度も傾ける盃に銀色の月影を映して、ただただ猩々が現れるのを待っていた。


 老いせぬや、老いせぬや

 薬の名をも菊の水、盃も浮かび出でて

 友に逢ふぞうれしき、また友に逢ふぞうれしき


老いることない、年老いることのない

不老の薬の名を持っているという菊の水。

おまけに其れを満たした盃に銀色の月が浮かび出て来た。

其れでは私も水の中から浮かび出て酒を飲もうか。

高風に逢うのは嬉しいことだ。

ただ友に相見(あいまみ)えることは嬉しいことだ。

此れは、そういう唄だ。


 さあああぁぁっと風が吹き、彼の姿が水面(みなも)に浮かびあがった。

「よお」

嬉しそうに黄昏色の()を細めながら

水面(すいめん)をたったったとつたってすちゃっと地面に降り立つ猩々。

一度も言葉を交わしたことは無いというのに、やけに友好的だ。

「なんだよ、せっかく来たっつーのに其の湿気(しけ)(ツラ)はよ」

いや、だってねえ……。

「どう見たって年下の男にタメ口きかれたら不快だよ」

さっそく地面に座り込んで酒を盃に注いでいる猩々をぴしっと指さして言う。

そもそも短袴を穿くのは十歳くらいまでだ。

しかし、目の前で酒を飲んでいる青年は自分より三、四歳は下に見える。

「あ?俺が短袴穿いてるからって馬鹿にしてんのか?

つーかお前もどう見ても元服してるように見えねえよ」

「どうせ童顔だよ~……」

むう、と頬をふくらませてそっぽを向く高風。

「だからってどう見たって十五、六歳くらいの君が

 十八歳の僕をからかっていい訳ないだろっ」

「残念。俺は一三〇七歳。人間の歳でいうと十八、九くらい」

くっ、タメか……!

「そうだ、酒ついでくれよ。お前、俺を待ってたんだろ?」

こんな失礼な奴だと知っていたら待っていなかっただろうけど。

「僕は娼婦でも芸者でもない。自分で注ぎなよ」

自分の盃に酒を注ぎながらきっぱりと断る。

「けっ、つれない奴」

そう毒づきながら自分で盃を満たす猩々。

 僕たちはただ黙って盃を傾ける。

冷たい秋の風が吹き紅い葉を揺らすが、

酒を飲む我が身はいっこうに寒さを感じない。

「今日は、月が綺麗だね」

「あ? なんだよ(やぶ)から棒に」

「月って、こんなに綺麗だったっけ。

 ……ああ、君と一緒に飲んでいるからかな」

は? 何言ってんだこいつ。けげんそうに眉をしかめる猩々。

「ふふふ、誰かと酒を飲むのなんて何年ぶりだろ。

 いつも売ってて飲んでる暇は無いからなあ……」

……酔ってんな、こりゃ。

猩々はていっと額をつつくが、高風はたいして気を損ねることなく

笑顔で酒をすする。

「えへへへ、な~んでそんな顔してるんだい?もっと飲んだ飲んだ」

そう言いながら徳利の中の酒を注ぐ。

「そこは俺の肘だっつの! ったく、たちの悪い酔っ払いだな」

苛立たしげに舌打ちして高風の襟首を掴んで潯陽のほとりに持っていく。そして。

ばしゃっ!

がしっと頭を掴んでおもいきり水に顔をぶちこんでやった。

「ぐはっ、ごほっごほっ」

何するんだよ、と非難がましい目を向ける高風。どうやらすっかり酔いは覚めたようだ。

「阿呆!酒は飲んでも飲まれるなってゆーだろーが」

「へ?僕酔ってた?」

「自覚ねえのかよ……。ホントたち悪ぃな。もうお前は飲むな」

高風の手から徳利を取り上げ、自分の盃に注ぐ。

「ちぇっ、僕のつくった酒なのに~」

ぶーっと不満げに頬をふくらませてつぶやく。

「人間のわりには酒に強いからって

余裕ぶちかまして唐で一番強い酒がぶ飲みすんなよ」

人間って……。

「やっぱり君は妖怪か何かなのかい?」

「妖怪か何かってゆーか精霊だっつの。あんな物騒な人食い共と一緒にすんな」

君も腰に物騒な物さげてますけど。鞘に入ってませんよ、刃が。

「なんだよ其の疑いに満ちた目。此処の河が氾濫したり

お前ん家の近くの山が崩れたりしねえのは俺が守ってるからなんだぞ」

感謝しろよ、罰当たりが。

そう言いながら高風が酒の肴としてもってきた干し肉をつまむ。

山崩れや洪水を防ぐ。

それってつまり、この赤毛はこの土地の守り神ってことじゃないか。

守り神様ってもっと徳の高い、みつめるだけで利益がありそうな

穏やかな顔のお爺さんみたいなのとか、

鳥とか獅子みたいなごつい顔の人外とか、

世の中の人が霞んじゃうような美男または美女とかを想像していたんだけど、なんというか。

目の前の彼は子鬼とか猿とか形容するのがふさわしい、威厳?なにそれおいしーの状態だ。

事実は戯曲より奇なりとはこういう事か。

「ちなみに君、好きな物は?」

「酒と女」

うん、駄目な大人だ。

典型的なダメなおじさん街道つっぱしってる。

「というのは冗談。女なんて姦しくてやってらんねーっつの。

 たしかに酒はいい。けど、うまいのに限る」

そう言いながら盃を傾ける。

「あと強い奴」

けっこう強いんだぜ、と腰の獲物を指差しながら得意げに付け足す。

「それから音楽」

そう言いながら袖口から扇子を取り出す。

「礼に猩々舞を舞うことにしようか」

タダ酒呑みっつーのも気が引けるからな、と

金地に紅葉が散る美しい扇を広げ、舞い始める。

銀色の月を映す漆黒の水面と対照的な鮮やかな赤を(なび)かせる様は

妖しく美しい彼岸花を思わせた。

(あし)葉擦(はず)れは蘆笛を吹く音のよう。

波がどうっと打ち寄せる音は(つづみ)のよう。

澄んだ音で吹き渡る浦風の、秋の調べが残るようだ。


今宵の宴は楽しかった。

そうだ、お前の酒のうまさと両親を思う素直で優しい心を称えて

此の壺に絶えず湧き出る泉の酒を満たしてただいま返し授けようか。

酒は湧き出てきて、決して尽きることはない。

千年、いや万年の後まで続く竹の葉の酒だ。

いくら注いでも尽きず、飲めども酌めども尽きることは無い。

此の酒壺と共にお前の家をも栄えるだろう。

きっとだ。


この秋の夜の盃、月影も傾く。

入り江に枯れて立っている、蘆の辺りで猩々の立つ足元は

よろよろとして酒に酔い、弱って倒れ伏した。

高風は慌てて助けようとした。

だが、高風の手は空を切り猩々は闇の淵へ沈んだ。


「猩々……!」


って、あれ?

何故、陽の光が差し込んでるのだろう。

朝を告げる鶏の、可憐とは程遠いやかましいさえずりまで聞こえてくる。

昨日あった不思議な出来事。

其れは実は枕に見えた夢だったということか。

そうだよね、あんな童の姿で十八歳とか、水の中にいるとかありえないし。

そう思いながら立ち上がると、酒壺が視界に映った。


酒は湧き出てきて、決して尽きることはない。

千年、いや万年の後まで続く竹の葉の酒だ。

いくら注いでも尽きず、飲めども酌めども尽きることは無い。

そんな風に言っていたが。

まさか、ね。

もったいないと思いつつも半信半疑で酒壺をひっくり返す。

そして、壺をのぞいてみると。

戻っている…………?!

きっちりきっかり酒壺いっぱいに満たされていた。

 じゃあ、あれは夢ではなかったのか。

それに答えたのか否か、日輪が(ほの)かに顔を出し

星が消えかけてきた空を映す酒壺の水面に

ひらりと紅いひと葉が舞い降り、一つ二つと波紋を広げた。



       終


※勘定台……カウンター

※酒精……アルコール

潯陽(しんよう)……江西省北部を流れる揚子江の異称

※夜もすがら……一晩中


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ