[64]風読み鳥の羽根
ムチャな走行はそう長く続かなかった。
ほとんど飛んでるみたいなものだったもん。あれだけ飛ばせばあっという間だよね。
……疲れた。船酔いする暇もなかった。
イナミさんとハトリおねえちゃんの使用した触媒が、サッと真っ白な灰みたいになって散った。それは一瞬のことだった。触媒を使い切ったってことなのかも。セオさんが使ったものは真っ白にはなってるけど、形はそのまま残ってる。そう思うと、あの二人は魔術師として格が違うってことかな。
「ふむ。学院の特選科を次席で卒業後、更に高等部へ再入学したとは聞いていたが、また力を付けたようだな」
感心したようにイナミさんがハトリおねえちゃんに言う。
「はい、高等部では扱いの難しい治癒効果のある触媒の扱いを学んで来ました。去年、そちらも卒業しましたけど」
「ああ、高等部は首席だったと聞く。君のように優秀な魔術師が――」
そこでイナミさんはちらりとノギおにいちゃんを見て溜息をついた。
「惜しいものだ」
ノギおにいちゃんはイラッとした顔をした。
ねえ、イナミさん、ハトリおねえちゃんが選んだんだから仕方ないんじゃないのかな?
ノギおにいちゃん、あれでも結構優しいところがあるんだよ。
「ま、誰かさんが怪我の多い職種だからな。そのためってことだ」
イルマさんがそんなことを言った。あんなに強いノギおにいちゃんでも怪我なんてするのかな。
そのノギおにいちゃんがテラコッタの館のテラスを指差す。
「あそこにキリュウとヤナギとクルス、その他数人がいるな。ヤナギのヤツ、随分痛め付けられてるじゃないか。いつもスカした顔がヨレヨレだ」
全然見えない。豆粒どころか米粒サイズだよ。
ノギおにいちゃん目がよすぎるよ。
……ヤナギさん、弱らせないと危険だからかな。大丈夫かな?
イナミさんは遠くに見えるテラコッタの館を見据えながらぼそりと言った。
「これ以上近付くと察知されるだろう。ここはまず様子を窺うとしよう」
そうして、イナミさんは出かけにセオさんから受け取った触媒を取り出した。確か、『風読み鳥の羽根』って言ってた。ふわりとその羽根を振るうと、イナミさんは再び詠唱する。
「フォン・トェン・シェファン・ル――」
堂々としたイナミさんのバリトンボイスが船上に響く。そして――懐かしい、今あたしが一番聞きたかった声がした。
『――これはどういうことだ?』
キリュウだ。キリュウの声がする。
あたしは思わず涙が溢れそうになった。すごく長く会っていない、そんな気がしたから。
今生の別れのつもりで離れたのに、そんなことを思ってしまう。
どうやらイナミさんの術は、すごく離れたあのテラスの音を拾ってこちらに届けてくれている。イナミさんは集中していて喋れないようだった。
キリュウの声は更に続く。
『どういうことと申されましても、こういうことでございますよ』
その人を食ったような声はクルスさんだった。何言ってるの、クルスさん?
続いて聞こえたキリュウの声には静かな怒りが滲んでいる。
『お前が手引きしたのか?』
手引き? クルスさんが、教団を?
まさか――。
『僕は僕が信ずるもののために動いているだけです。僕の心にやましさなどありませんよ』
それははっきりとした声だった。
クルスさん、すぐあたしのことからかったけど、キリュウのことはすごく尊敬してたんじゃないの? ねえ、なんで? なんでキリュウを困らせるようなことするの?
あたしはすぐに駆け付けて平手のひとつでも食らわせてやりたい気持ちでいっぱいだった。拳を握り締めるあたしの肩にハトリおねえちゃんの手が乗った。
『イナミ殿は行方知れずだということですし、あなたの最たる臣、三宰相もこうなると形無しですね』
その声は教主だ。一瞬音声が乱れたのはイナミさんがイラッとして集中が途切れたせいだろう。
でも、キリュウは挑発に乗らないように自分に言い聞かせているのか、落ち着いた声で言った。
『――フウカはどうした?』
あたしを心配してくれてる。あたしは無事だって早く教えてあげたい。
でも、イナミさんの術はこちらの言葉を運んではくれない。
何か、カランという音がした。こっちじゃなくて、あっちで。
あたしはそれがなんの音だかわからなかった。ただ、長い沈黙があった。
その後に声を発したのはクレハさんだった。それはどこか痛い、悲しみに満ちた声だった。
『海に……落ちた。どんなに探しても見付けられなかった……』
その声とは裏腹に、弾むように場違いな教主の声がする。
『この海は肉食の海洋生物の住まう外海。食われてしまったのでしょうね。かわいそうなことをしてしまいました』
絶対かわいそうなんて思ってない!
うわぁ、ヤなヤツ!! 大体、食われてないし!!
あたしはプリプリと怒っていたけれど、そんな場合じゃなかった。
キリュウは何ひとつ言葉を発しない。……どうしよう、もしかして、信じた?
そんな時、ユズキさんがきれいな響きの声で言った。
『もうよいではありませんか。キリュウ様、あなたが皇帝でなくなっても、私はあなたのおそばにおりますよ。あんなつまらない娘にこだわらなくてもよいではありませんか』
つまらないとか言ったな!
あー、言い返せなくて聞いてるだけってほんと腹立つなぁ!
そこで反論してくれたのは、苦しそうなヤナギさんだった。
『つまらぬ娘なら、キリュウ様が心惹かれることもなかったはず。あなた様に心惹かれなかったように』
『なんですって――!』
キーって怒ってる。先に言ったのそっちじゃない!
まったく。
でも、ヤナギさんはそれ以上ユズキさんの相手はしなかった。それは静かに、覚悟を秘めた声で言う。
『キリュウ様、私はいついかなる時もキリュウ様と共に在ります。お仕えした時より共に死するも覚悟の上です』
なんて強い忠誠心なんだろう。
キリュウはヤナギさんがいてくれてどんなに救われたのかわからない。
胸の奥がキュッと痛くなる。イナミさんが顔をしかめたのが何故なのか、よくわからなかった。
『ほら、あなたはやはり神ではない。愛しい娘の一人も救えなかった只人なのですよ。さあ、その不相応な位を退きなさい。さすれば、真なる神はあなたにも救いの手を差し伸べて下さいます』
得意げに語る教主の声が腹立たしくて仕方がない。
この人、おかしい。神を信じてるっていうよりも、神の声を代行することでみんなが自分を崇めてくれるから、それに酔ってるだけだよ。全部自分のため。キリュウみたいに何ひとつ自分を削っていない。
そんなヤツに負けてほしくない。ねえ、キリュウ、あたしはここにいるよ。
大丈夫だから、負けないで!
キリュウの声は驚くほどに穏やかだった。
『言いたいことはそれだけか?』
『そ、それはどういう――』
教主が戸惑いを見せると、キリュウはクスリと笑った。
『もういい。何故、皇帝が神と称されるのか。それをお前に見せてやろう』
押し殺したその声には背筋が寒くなるような凄みがあった。ハトリおねえちゃんはハッとしたように口もとを押える。そして、髪を揺らして首を振った。
「駄目……」
声が震えてる。
「ハトリおねえちゃん?」
よく見たら、イナミさんも青ざめていた。ノギおにいちゃんは様子のおかしなハトリおねえちゃんの腕に触れた。
「どうした?」
すると、ハトリおねえちゃんはノギおにいちゃんにしがみ付くようにして言った。
「キリュウ様に絶望を与えちゃ駄目! そうしたら、この国は滅んでしまうから――!」
カランと音がしたのは、チョーカーの残骸ですね。クレハはフゥの形見のように持ち帰りました(汗)




