[59]疲れた
あたしはもう立てるからと言ってノギおにいちゃんに下してもらった。海の底は、夏だけど足をつくとひんやり冷たく感じられる。
「風邪ひいちゃうから乾かすね」
ハトリおねえちゃんが急にそんなことを言った。え? ドライヤー持ってるの?
なんて、そんなわけなかった。
ハトリおねえちゃんはポシェットから赤くてふさふさした草を出した。形は、あたしの世界で言うところのケイトウに似てるかな?
そうして、ハトリおねえちゃんが呪文のようなものを口ずさむ。ユズキさんの時と同じだ。
「ウル・レテル・ソエル・アスク――」
パアッと赤い柔らかい光がハトリおねえちゃんの手からあたしに移る。ちょっとだけ目を瞑ってしまった瞬間に、あたしの髪も服もきれいに乾いていた。お城のバスルームのボタンと同じだ。
これでよし、と微笑むハトリおねえちゃんの周囲で灰になった草が散った。ユズキさんの時と同じだけど、少しも怖くない。海に叩き付けられる前に一瞬体が浮いたような感覚があったのは、ノギおにいちゃんかハトリおねえちゃんが何かしてくれたのかなってぼんやり思った。
「ありがとう」
あたしも笑うと、ハトリおねえちゃんは少しだけ安心したのかも知れない。それが表情に表れていた。
そんな中、ノギおにいちゃんが上を見上げる。
「……あのクレハってヤツ、上でお前を引き上げようともがいてるな」
クレハさん、自分のせいであたしが海に落ちたと思ってるんだろう。違うとも言えないけどね。
キリュウの気持ちを考えると許す気にはなれないけど、あたしを想ってくれる気持ちは嘘じゃないのかな。
「でもまあ、あいつの術はここまで届かない。怪魚にでも食われたんじゃないかって、相当慌ててるぞ」
ノギおにいちゃんはどうやってそんなことを察知してるのかはわからないけど、上を見上げて意地悪く笑っていた。
ノギおにいちゃんが言うところのシールドっていう障壁は、小さな家くらいの大きさかな。あたしたちをすっぽりと囲んでも余りある。ここに海水は浸入できないみたいで、海底の岩肌までむき出しだ。
ただ――。
「ノ、ノギおにいちゃん!」
あたしが思わず叫んでしまったのは、そのシールドの外にでっかいでっかい魚がいたからだ。クジラよりは小さいけど、シャチよりは大きい。でも、その目は黄色く光っていて、口の中にはびっしりと歯が生えている。あんなのに噛み付かれたら骨まで砕かれちゃうよ!
けれど、ノギおにいちゃんもハトリおねえちゃんも平然としていた。それもそのはずで、そのでっかい魚は口を大きく開けてこちらに突進して来たけれど、シールドにぶつかって鈍い振動を発生させただけだった。こちら側にヒレの先だって入ることはできなかった。
このシールドってすごく頑丈みたい。
「とにかく、クレハさんが諦めてくれないと上に上がれないのよね。もうちょっとだけこのまま様子を見ましょう。ノギ、大丈夫?」
ハトリおねえちゃんが気遣うように見遣ると、ノギおにいちゃんは不敵に笑った。
「決まってんだろ。ここ数年で俺だってちゃんと成長してんだよ」
こういうことをするために訓練してたってこと?
ノギおにいちゃんにそういう地道な努力は似合いそうもないけど。
「うん、実戦に勝る訓練もないわよね」
と、ハトリおねえちゃんは柔らかく笑う。
二人はいい雰囲気で、あたしお邪魔だ。……気を利かせてどこにも行けないけど。
それから、結構長く海の底にいた。
すっかり薄暗くなっちゃった。でも、ハトリおねえちゃんがポシェットから明かりを出してくれた。ポシェットに入れても平気なミニランタン。なんで燃えないんだろ? って、小さなポシェットから出て来るにはちょっと大きい。まさか――うん、今はそんなこと考えてる場合じゃないよね。
大丈夫と言っていたノギおにいちゃんだけど、最初の余裕はどこへやら。口数がすごく減った。
額にも汗が滲んでるし、ちょっとしんどそう。このシールド、張り続けるにはノギおにいちゃんの体力か精神力か魔力か、何かが必要みたい。あたしが落ちて来るよりも先にここに潜んでたわけだし。
「――そろそろ行くか」
ノギおにいちゃんがそうつぶやいた。
「了解」
ハトリおねえちゃんも短く答える。そして、あたしににこりと微笑む。
「フゥちゃん、ちょっとだけ我慢してね?」
「あ、うん」
あたしがうなずいた途端に、ハトリおねえちゃんじゃなくてノギおにいちゃんが動く。軽々とあたしを左肩に担ぎ上げた。ぎゃ、と悲鳴を上げたあたしを無視し、今度はハトリおねえちゃんを右肩に担ぎ上げる。
……ノギおにいちゃんって特異体質とか言うけどなんなんだろ。尋常じゃない力。仔猫二匹担いだ程度の涼しい顔してる。
なんていうのかな、筋力をほとんど使ってないような感じがする。何かで筋力を増幅してるのかな?
ノギおにいちゃんの力は魔術を放つようなものじゃなくて、自分を強化する類のものってことみたい。
「舌、かむなよ」
ノギおにいちゃんからの忠告は的確だった。事前に言われなかったらかんでたかも。
あたしとハトリおねえちゃんを担いだノギおにいちゃんはシールドをギリギリまで狭め、そのまま高く飛び上がった。かと思うと、崖を駆け上がるように岬の岩壁を蹴り、上へ上へと登って行く。水の抵抗も相殺してるみたい。もう、びっくりするのも疲れちゃった……。
ケイトウ(鶏頭)はイメージ的に羽毛ケイトウですね。
鶏のトサカに似ていることからこの名前が付いた花ですが、『学名は燃焼という意味のギリシャ語に由来する。ケイトウの花が燃え盛る炎を彷彿とさせるのが根拠と思われる』とのことです。
ケイトウって火みたいだなと思っていたので納得です。




