[36]雨季
それからというもの、キリュウは大人しかった。
大人しいという表現が適切かどうかはわからないけど、少なくともあたしに対しては普通だった。
毎日歌を所望するのは相変わらずだったけれど、歌を聴き終えれば素直に帰ったし、変にあたしに気持ちを押し付けるようなことはしなかった。
やっぱり、キリュウの中にも無理を感じる心があったんじゃないかな。
立場を思えば思うほどに、私情を優先しちゃいけないんだって。歌を聴く、それがギリギリのラインなのかも。
これくらいの距離がいいんだよ、きっと――。
そんな風に時は過ぎて、あたしがここへ来てからひと月半が経過した。
今、ここでは真朱の月って呼ばれている季節。まだ、大きなくくりでは春らしくて、あたたかい。
それでも、大きな違いはひとつ――。
「雨季?」
あたしはクルスさんに向かって首をかしげる。クルスさんはこくりとうなずいた。
「そうだよ。前に話したんだけど、覚えてないかな?」
ない。
あたしのそんな思いが顔に表れていたのか、クルスさんは再び説明してくれた。
「雨が極端に少ない年があって、それから陛下の魔術による儀式を行って雨季を回復したってやつ」
聞いたような気がしないでもないけれど、あんまり印象に残ってない。
「その間、水不足とかになっちゃったんですか?」
なんとなくそう訊ねると、クルスさんは不思議そうに首をかしげた。
「水不足? 雨が降らなくても魔術で供給できるからね。干上がるようなことにはならないよ」
なるほど。この世界での雨は、あたしの世界ほどに重要じゃないみたい。あるに越したことはないけれど、足りなければ魔術で補えるってこと。だから、よっぽどでなければカラカラにならないって。
「その雨季がこれからってことなんですね?」
要するに、日本で言うところの梅雨だ。
あたしの地方は空梅雨だった。あっちの世界も、魔術でコントロールできたらいいのにな。
「そういうこと」
と、クルスさんは笑顔で言う。
ただ、そんなものは前置きだった。
「でね」
あたしはクルスさんの話に改めて耳を傾ける。クルスさんは眼鏡を押し上げつつも、何やら楽しげだった。
「雨天を皆で楽しむための催しがあるんだ」
「催し、ですか?」
雨の中、何をやってもびしょ濡れになる。酔狂だな、とあたしは密かに思った。
「まあ、雨を感じながら出かけるってだけのことなんだけど、やっぱり陛下が動かれるとそれなりに行事のひとつに数えられるからね」
「はぁ」
窓を拭きつつ気のない返事をしたあたしに、クルスさんは続ける。
「きっと君も同行することになると思うんだけど」
その後に付けたかった言葉は、なんとなくわかる。
『だって、君は陛下のお気に入りだから』だ。
「露芝川原ってところなんだけど、もちろん君は初めてだろうから、見るものすべて新鮮で、きっと楽しいよ」
クルスさんは楽天的にそんなことを言う。
雨の川原。まあ、川が氾濫するほどの雨じゃないから危険はないんだろうけど。
クルスさんからその催し物の話を聞いたその晩、すぐにキリュウから再びその話を聞かされた。
「――というわけだ」
澄ました顔でそう結んだキリュウと距離を取りつつ、あたしは訊ねる。
「ふぅん。あたしにも来いって?」
すると、キリュウは苦笑した。
「嫌か?」
ここで嫌だと言えば、キリュウはあたしに留守番させたかな。
ただ、そう言った顔が少し寂しげに見えて、どこか突き放せないような気分になってしまった。だから、嫌だって言えなかった。
「……いいよ、行くよ」
あれからキリュウは、ちゃんと節度を持って接してくれている。それなのに、あたしが過敏に反応して毛嫌いしたら申し訳ないとも思う。お互い、こうして距離を保っていればいい。
不用意に触れて、踏み込んで来ないでいてくれるなら、それくらいの付き合いはできる。
あたしたちにはそれくらいが丁度いいはずだから。
あたしの返答に、キリュウは微笑んだ。どこかホッとしているような、そんな表情だった。
「そうか。お前にとっては退屈かも知れないが、それでも同行してくれるなら助かる」
何がどう助かるのかはよくわからないけど、まあいいか。
「雨かぁ。あたしたちの世界にも、雨の多い時期があるんだよ?」
あたしがそう言うと、キリュウは興味深げだった。
「お前の世界には魔術がないのだろう? だとするなら、どのように雨量を調節するのだ?」
「調節なんてできないよ。大雨であふれ返って家が流されたりしちゃうこともあるし、逆にカラカラに地面が乾いて農作物が駄目になっちゃうこともあるんだから」
あたしたちにしてみたら当たり前のことだ。けれど、キリュウは心底驚いた風だった。
「それはまた……過酷なのだな」
「そうだね。でも、それが自然で普通なの。自分たちでなんとかできたら便利だけどね」
「特殊な触媒が必要ではあるが、自らの魔力で民の暮らしを支えることができるのだから、私は案外幸せなのかも知れないな」
キリュウはそんなことを言う。
皇帝としての幸せは、キリュウ個人にとっての幸せと同じだと思ってもいいのかな?




