[30]突然……
あたしはその日、アズミさんと掃除を終えて一緒に食事を済ませてから部屋に戻った。
久し振りの自分の部屋のお風呂でくつろぐ。甘い香りのこのソープが好きだなぁ。
そう和んだ瞬間に、あたしはハッと我に返った。
――おかしい。
あたしの家のお風呂は、もっと普通のお風呂で、シャンプーとリンスだってごく普通の市販されてる安物で、石鹸だってもらいものが多くて――。
ここはあたしの本当の居場所じゃないのに、なんで落ち着いてるんだろう、あたし。
せっかくのゆったりとしたバスタイムなのに、ぐるぐると色んなことを考えたら疲れてしまった。くつろぎに失敗した。
ほんとにあたし、いつ帰れるんだろ?
ルームウェアに着替えて部屋に戻ると、すごく堂々とくつろいだ姿のキリュウがいた。
「げ」
思わず声をもらしてしまった。心の中で留めておけなくて、音になって飛び出してしまった。
キリュウはあたしのベッドの縁に腰かけて目を細めた。聞こえたんだろうな。
「お前、今日は来ないつもりをしていただろう?」
ギク。
だって、キリュウは腹立つし怖いし。
「あたしだってお休みほしいもん」
開き直ってそう言うと、キリュウから嫌な威圧感が流れて来た。
「わ、わかったって。一曲歌ったら帰ってよ」
呆気なく敗北してしまった。
キリュウはそれで納得したのか、うなずいた。あたしはキリュウの目の前まで近付くと、スゥッと息を吸っておなかから声を出すようにして歌い出した。
静かな夜に、あたしの歌声だけが二人の間にある。
観客は一人。でも、この人は誰よりもあたしの歌を真剣に聴いてくれている。
調子に乗って来て、穏やかな旋律にあたしも心が落ち着くと、色々と反省も見えて来た。
あたしはもっと、一音一音を大切に歌わなくちゃいけない。
こうして、いつまでも聴いてもらうことはできないんだから。このひと時と同じ時はないんだから。
後半に向かうにつれ、あたしの声は伸びて行く。――でも、このところ歌ってなかったから、少しつらい。もっとと思うのに、物足りない。
だったらせめて丁寧に歌い上げたい。
そうして、あたしは一曲を歌い終えた。そうっと目を開けると、感情の読み取れない顔をしたキリュウがぼんやりとあたしを見ていた。
さっさと帰れとは言いづらい。そういう扱いはさすがに駄目かな、と真剣に歌を聴いてくれている姿勢に触れると思う。まあ、腹の立つことを言われると一気に吹き飛ぶ程度のものだけど。
すると、キリュウは自分の隣をトントンと叩く。座れということらしい。偉そうだ。
それでもあたしは早めに切り上げたい思いがあったから、素直にそこに座った。
それが、間違いのもとだった。
突然だった。
突然、手が伸びた。その手があたしの頬に触れる。
そう思ったら、頬をすり抜けて髪をすくように首筋に回る。さすがにぞくりとした。
心が落ち着かなくなる。キリュウにしてみたら、投げたボールを取って戻って来た犬を撫でるような感覚だったのかも知れない。そう考えたら、落ち着かない気分になるあたしの方がバカみたいで嫌だった。
その手を振り払おうとした。その瞬間に、ふわりと視界が遮られる。
手は、相変わらずあたしのうなじの辺りにあって、しっかりと首を支えるように添えられている。でも、今はそんなものはどうでもいい。そんなことよりも、この、唇を食むように押し付けられてるのは――……。
思考が、できない。
何?
あたし今、何してるの?
あたしが真っ白になって固まっていたのは、ほんの数秒のことだったのかも知れない。あたしは両手で思い切りキリュウの胸を突き飛ばした。
顔を正面から見ることもできなくて、ルームウェアの袖口で顔を覆いながら盗み見ると、キリュウは落ち着いた面持ちに冷めた目をしていた。
その表情が、すごく嫌だと思った。
「何っ!? ……なんでっ?」
声を詰まらせながらあたしが言うと、キリュウはぼそりととんでもないことを言った。
「少しは色を知れば、お前の声にも艶が出るかと思ってな」
あたしは呆然としてしまった。今度は頭の中が真っ暗になる。
あんまりにも腹が立って、涙が溢れそうになったけど、泣かない。悲しいとかじゃなくて、真剣に感情が昂っただけの涙だけれど、キリュウにはそれさえ見せたくない。
「あんたがどんな立場の人間だろうと、あたしはあんたの楽器でもオモチャでもないの!!」
のどを痛めるほどのかすれた声で怒鳴って、あたしはバスルームに駆け込んだ。他に隠れられる場所がないんだから仕方ない。そうしたら、急に涙が止められなくなって、あたしは一人で泣いていた。
ここへ来てすぐの頃のように、どうしようもない孤独感だった。
早く家に帰りたい。それだけを思った。
でも、キリュウの機嫌を損ねたから、もう帰れないのかな?
そう考えたら絶望で胸がいっぱいだった。




