[2]春、それとも冬
「う……」
呻いた自分の声にびっくりしてあたしは飛び起きた。
そうだ、いきなり発光する蝶が光の洪水を起こして、あたしはそれに巻き込まれて気を失ったんだった。
思い出したはずの出来事だけど、もしかして夢だったのかなという気になった。
だって――。
「あれ?」
あたしがいた場所は、春の野原のような場所だった。あの照り付くアスファルトの上じゃない。
可愛らしい花が咲き乱れていて、あたしは絨毯のような柔らかな草の上に座り込んでいる。日差しは柔らかくて、温室の中みたいに快適だ。
ここは、楽園のようにきれいな場所だった。ヒラヒラとたくさんの、あの光の蝶が舞う。なんだ、新種かと思ったら、こんなにたくさんいるんだ。
ぼうっとその光景に見とれていたあたしは、唐突に嫌なことを考えてしまった。
もしかして、ここは俗に言う『あの世』ってやつ?
あの光の爆発で、あたしは死んでしまったなんてことは――。
ぞくりと背筋が寒くなる。そんなはずはない。足ならしっかりと付いてる。
あたしはその考えを振り払うように立ち上がった。足の感覚ははっきりとしているし、問題なく歩けた。
慌てて周囲を見渡す。確認出来るところに三途の川はない。ない、はず。
慎重に草を踏み締めて歩む。なんとなく、花は踏まないように気を付けた。それから、あの蝶に触れないように避ける。今度触ったらどうなるかわからないから怖い。
この事態が、あの光り輝く蝶のせいなのかはわからない。でも、不安要素ではあるから、その判断は間違っていないと思う。一匹であんなことになったんだから、ここにいる数十匹が恐ろしすぎる。
あ、そういえば、カバンがない。それどころじゃないけれど、道端に放置して来てしまったのだとすると、せっかくお母さんが作ってくれたお弁当が痛んでしまう。財布も生徒手帳も、全部あの中だ。
早く戻らないと、と気持ちだけが焦る。
とにかく、誰かを探して訊くしかない。
あたしは先を急ぐことにした。
ここは春の気温だった。あたしがいた夏の日差しとは全然違う。
ここは北の方なんだろうか?
ぼんやりとそんなことを考えながら歩くと、花畑は途切れて木々が茂るばかりになった。ここは森の中ということみたいだ。
――熊が出ないかな。迷子にならないかな。
ふとそんな不安が押し寄せる。
まだ日は高い。暗くなる前にここを抜ければ大丈夫。
ネガティブにならないように、そう自分を奮い立たせる。どんな時も、焦りは禁物。おばあちゃんがよくそう言ってる。
しばらく歩くと、前方にうっすらとした光が見えた。それは光のカーテンのように感じられた。けれど、それが行き止まりじゃないみたいだ。先に続く奥行きがぼんやりと見える。だから、あたしはためらわずにその光を潜り抜けた。
そうして――めいっぱい後悔した。
「な、な、なっ!!」
光の幕を抜けた途端、そこは銀世界だった。
地面と木々には雪が積もり、枝はその重みでしな垂れている。つららもいっぱい下がってた。
あたしはもう、その場で呆然とするしかなかった。
ヒュウヒュウと風が鳴る。冷たい大粒の雪が、半袖生脚のあたしの肌に叩き付けられた。
寒い!
当たり前だけれど、洒落にならないくらいに寒い。涙までもが凍りそうだ。
夏、夏だった。確かに今は夏だったはず!
混乱する頭で考えたけど、わかるのはこのままでは遭難してしまうということだけ。とっさに振り返って来た道を戻ることにした。さっきまでは春のような場所だった。ここよりはずっとマシだ。
なのに、今抜けてきたはずの光の幕は、触れると鏡のように硬質なものになっていた。思わずあたしはその壁となった一部を叩いた。ドン、と鈍い音がするだけで、なんにも変わらない。ピタピタと撫で回しても同じだ。
寒いし。寒すぎて体が痛い。夏服で雪の中に放り出されたんだから、当たり前だ。
どうして、あたしはこんな目に遭ってるんだろ?
勉強が特別できるわけでもないし、時々授業中に居眠りをすることだってあった。小さな嘘くらいならついたことだってある。
でも、こんなところで一人寂しく凍え死にしなきゃいけないような悪いことはしてない。
考えれば考えるほどに惨めで、悲しかった。
「なんで!?」
言葉をもらしたら、それが嗚咽に変わる。涙がひどく熱く感じられた。けれど、それも束の間で、今度はそれが急速に冷えてパリパリに固まる。
泣いていても、この奥に戻ることはできない。
このままここにいたら、確実に死んでしまう。
あたしは、薄暗い吹雪いた森の中、声を張り上げながら歩いた。
「お父さん! お母さん!!」
助けて。
「お兄ちゃん! お姉ちゃん!!」
あたしはここにいる。
「桐也! おばあちゃん!!」
会いたい。
ざくり、と革靴が雪に埋もれる。感覚のないつま先で、それでもなんとか先へと進む。
鼻や耳が、ちぎれそうに痛い。
「陽菜ちゃん、芽衣ちゃん、ちぃちゃん、市井先輩、坂口せん、せ……」
思い付く限りの名前を呼ぶ。
口を開くと、白い吐息が風に攫われる。体の熱が、奪われて行く。
どれくらい歩いたのか、もうよくわからなかった。
ただ、もう、体中の感覚がなかった。眠たいな、と思った。
寝たらもう二度と起きられないってわかっているのに、まぶたは言うことをきいてくれない。膝が、雪の上に沈んでいた。
諦めちゃ駄目だと思うのに、もう解放されたい、楽になりたいと思う気持ちがある。
ごめんね、とあたしはみんなに謝った。
ただ、遠退く意識の中、最後に前方からほのかな明かりを見たような気がする。それは、死にかけのあたしの願望で、錯覚だったのかも知れない。
だから、その後で聞こえた声も幻聴だったのかな?
「――わぁ、た、大変!!」
「なんだ、こいつ?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! すぐに運んで!」
「え? 拾うのか?」
「当たり前でしょ!!」
幻聴にしては、その声に心当たりがなかったけど。