[1]日常にあふれるもの
暑い夏。
あたしは暑さで揺らめくアスファルトの上に立ちながら、額の上に手で庇を作った。
夏服になってまだ間もない。白い半袖のセーラー、藍色の膝上プリーツスカート。
それでも、暑いことは暑いけれど。
今年は例年に引き続いて空梅雨の猛暑。地球温暖化は、この先どうなって行くんだろう。
あたし――鳴海楓花が生れて十七年。十七年も生活したこの地球。日本。
あたしの、世界。
さて、深刻な環境問題を考えるよりも、あたしには考えなければいけないことが山ほどある。
テスト。成績。部活。進路。
家族。友達。恋愛。
忙しい。すごく忙しい。
あたしはセミロングの髪を揺らして走り出す。
ここはどちらかと言えば田舎だけど、あたしはこの土地が好きだ。クラスの中には都会に憧れて、高校を卒業したら上京するって子もいる。
でも、あたしはここに残ろうと思う。
都会になんて行ったら、家族とも友達とも離れなくちゃいけない。近所のおじさんおばさんもが挨拶を返してくれないようなところは嫌だ。
あたしの一番上のお兄ちゃんは、大学に通うために都会に行ってしまった。年に数えるくらいしか帰って来ない。あたしはすごく寂しくて見送るたびに泣いてしまう。お兄ちゃんは困ってしまうけど、家族が欠けるって、すごく悲しいことだから。
お父さんもお母さんも、おばあちゃんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも弟の桐也も、あたしの大事な家族だから、みんなでいつも一緒にいたい。
だから、あたしは卒業してもここにいる。そう、決めていた。
お弁当と、筆記用具、教科書は少しだけ。軽めのカバンを手に夏日を駆け抜けながら考えた。
こんなに暑いんだったら、部活帰りにはアイスが食べたい。ささやかな贅沢。一日がんばった自分へのご褒美。
友達の陽菜ちゃんは、いつも笑う。
「ふぅちゃんはラムレーズンばっかりだね」って。
だって、好きなんだもん。飽きないんだもん。
陽菜ちゃんは今日、何を選ぶのかな。当ててやろうっていつも思うのに、当たらない。
でも、今日こそは。
今日は、チョコミント。根拠なんてない。女の勘。
それを楽しみに、今日も一日を乗り切ろう。
そう考えてあたしは鮮やかな空に浮かぶ白い雲を眺めながら坂道を下った。その白さが目に眩しい。
けれど、ふと、あたしの視界の中で小さな光がひらりと動いた。
本当に、ひらりという表現が相応しかった。その光は平たくて、薄っぺらで、ヒラヒラと飛んでいたんだ。
「んん?」
目を凝らしてよく見ると、それは蝶の形をしていた。光の蝶だ。
この朝の眩しい日差しの中でもはっきりとわかるほどに眩い光を放ってる。白光する蝶は、素っ気ないアスファルトの上に光を振り撒く。
あんな蝶は初めて見た。突然変異か、新種か。すごい発見かも知れない。
綺麗だから、家族と友達にも見せてあげたいな。
蝶は、低い位置をふらりと飛んでた。その動きは鈍くて、そのまま落ちてしまいそうにも思う。
もしかすると、弱ってるのかも知れない。
儚くて、見るからに弱々しい姿だ。
温暖化の進む地球は、この蝶にとってあまりいい環境じゃないのかな。
早く行かなきゃ遅刻すると思うのに、あたしはその蝶のことが気になって仕方がなかった。
不意に、その蝶が降下した。力尽きてしまったかのように。
かわいそうな蝶は、焼け付くような真夏のアスファルトの上に落ちて行く。
あんなにも弱々しい姿が、更に無残なことになるのは嫌だ。助からないのなら、せめてお墓を作ってあげよう。そうすれば、誰かに発見されて標本にされるのは避けられる。
静かに眠らせてあげたい。
あたしはそんな風に考えて手を伸ばしていた。
それは、ほとんど反射的な動きだった。
カバンを放り、両手を受け皿のようにして緩やかに落ちる蝶を受け止めた。
光の蝶は、ふわりとあたしの手に落ちる。重みはまるでない、幻みたいだった。
ピクピク、とあたしの手の中で蝶は痙攣するように動いた。その動きが最後だった。蝶がまとっていた光は切れかけの電球みたいに薄れて行く。――そう、思った瞬間だった。
蝶はまるで最後の力を振り絞るかのように光を爆発させた。
あたしの手首から先が光に飲まれた。そこからあたしは、光の波に浸食される。
あんまりにも眩しくて、目を開けていられなかった。驚いてあげた悲鳴でさえ、その光の中へ吸い込まれてしまった。
一体、何が起こっているのか、あたしには何もわからない。ただ、その光の洪水は僅かな時間だったのかも知れない。
その時、それすらわからなかったのは、あたしの意識が遠退いてしまったからだ。