二皿目
通り雨が、街をやわらかく濡らしていた。
傘を持たずに出てきてしまったことを、少しだけ後悔する。
けれど引き返す気にもなれなかった。
白髪まじりの髪をひとつに結び直す。
整えたはずの後れ毛が、湿気を含んで頬に貼りついていた。
(あの子は、もう内定をもらった)
大企業。
安定。
安心。
それなのに。
雨の向こうに、見慣れない白い建物が現れる。
壁には緑のツタ。
灯りはやわらかい。
吸い寄せられるように、扉を押した。
カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
黒髪をポニーテールに結んだ女性が立っていた。
長めの前髪の奥で、深い緑の瞳が静かにこちらを見る。
「メニューはおまかせとなっております」
促されるまま席につく。
青髪の店員が、音もなく湯呑みを置いた。
「こちら、“真実のお茶”です」
湯気が揺れる。
一口含むと、胸の奥に沈めていた言葉が浮かび上がった。
「……あの子、絵が好きなんです」
ぽつりと零れる。
「小さい頃から、ずっと」
公園の地面いっぱいに描いた空。
洗っても落ちなかった絵の具の跡。
叱られても、翌日にはまた描いていたこと。
「夜中まで描いているときが、一番楽しそうで」
そのときだけ、目尻がやわらぐ。
「でも、私は……」
言葉が止まる。
運ばれてきたのは、透明な器に注がれた二層のスープだった。
上は澄んだ琥珀色。
下は、やわらかな旨みを閉じ込めた濃い色のスープ。
「混ぜても、混ぜなくても構いません」
マスターはそれだけ言う。
まず、上だけをすくう。
軽い味。
ほっとする。
次に、無意識にスプーンが深く沈む。
濃い味が広がる。
重い。けれど、温かい。
「私は、あの子に苦労してほしくないんです」
絞り出すように言う。
マスターは静かに答えた。
「苦労は避けられません。
ただ、“自分で選んだ苦労”かどうかは違います」
言葉は柔らかいのに、胸の奥に静かに落ちる。
「……私は、守りたかっただけなんです」
「ええ。十分に守ってこられました」
それ以上、何も言わない。
スープを飲み終える。
温かさが、ゆっくりと身体に広がる。
店を出ると、雨はやんでいた。
空は薄く晴れ、濡れた路面が光っている。
歩き出す。
来るときに通ったはずの砂利道は、もう見当たらない。
いつもの舗装された道。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を開く。
何度も打ち直して、ようやく一文だけ残った。
『あなたが選んだ道を、私は信じています』
送信ボタンの上で、指は止まる。
けれど、その顔には迷いはなかった。
「小さい頃から、ほんとに好きだったものね」
そう呟くと、あの頃と同じ、あたたかな笑みが浮かぶ。
疲れは消えていない。
白髪もそのまま。
それでも、その笑顔は確かだった。
店の中では、空になった器を見つめながら、リヴィアが静かに目を細める。
今日もまた、誰かが
“守る”から“信じる”へ、ほんの少しだけ歩いた。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




