一皿目
「マスター、お客様がご来店です」
静かな声が厨房の奥から響いた。
リヴィアは手を止めず、ゆるやかに背筋を伸ばす。
黒髪をポニーテールにまとめ、長めの前髪の奥で、深い緑の瞳がわずかに光った。
「わかったわ」
淡々と返す。その声音は静かだが、ほんのわずかな期待を含んでいる。
今日もまた、誰かが“選ぶ直前”にいるのだ。
⸻
温かみのある白い壁に緑のツタが這う店。
外にまで漂うやさしい香り。
(家に帰っても作る気力もないしな)
気づけば、古びたゴールドの取手を掴んでいた。
カランカラン、と鈴が鳴る。
中は思ったより整然としていた。幻想というより、静かな現実。
「いらっしゃいませ」
黒髪のポニーテールの女性が立っている。
「メニューはおまかせとなっております。こちらへどうぞ」
言われるまま席に着く。
差し出された湯呑み。
「こちら、“真実のお茶”です」
「変わった名前ですね。緑茶……ですか?」
「味は似ていますが、ベルダの葉を」
聞き慣れない名だと思いながらも、口に含む。
ほっとする温度。
その瞬間、胸の奥に押し込んでいたものが、少しだけ浮いた。
(別れたいわけじゃない)
(ただ、言えないだけだ)
“ありがとう”も
“悪かった”も。
運ばれてきた皿を見た瞬間、息が止まる。
白い器。
やわらかな湯気。
ホワイトシチュー。
スプーンを入れる。
じゃがいもがほろりと崩れる。
思い出す。
同棲を始めた夜。
不慣れな手つきで鍋をかき混ぜていた彼女。
「初めてだから、味は保証しないよ?」
あの少し緊張した笑顔。
口に運ぶ。
あの夜より、少しだけ優しい味がした。
「……俺、言葉が足りないんです」
いつの間にか、声に出ていた。
リヴィアは頷きもせず、ただ言う。
「足りないと気づいたのなら、足せばよろしいのでは?」
責めない。慰めない。
ただ、可能性を置くだけ。
皿は空になった。
会計のとき、黒髪の青年が静かに告げる。
「温かいものは、冷める前に」
一瞬だけ、視線が合う。
意味は説明されない。
男は店を出た。
外に出て、足を止める。
さっきまであったはずの砂利道は、もうない。
いつものアスファルトが広がっている。
不思議だとは思わなかった。
ポケットからスマホを取り出す。
何度も消して、打ち直して。
結局、こう送った。
『今日、シチュー作らないか』
素直じゃない。
でも、逃げてもいない。
送信。
返事は、まだ来ない。
それでも男は、少しだけ肩の力を抜いた。
⸻
店内。
青髪の店員が静かに皿を下げる。
「……選ばれましたね」
感情を乗せない声音。
リヴィアは窓の外を見つめたまま、ほんのわずかに口元を緩める。
それは滅多に見られない笑みだった。
黒髪の青年はその横顔を見つめ、何も言わない。
彼のポケットには、一枚の古い写真がある。
誰にも見せない。
そして今日もまた、迷う誰かの前にだけ、
あの砂利道は静かに現れる。
今日もどこかで。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




