お薬のお時間です。
「ちょうどいいところに」
トイレを出たら、ちょうどユキさんが風呂から出たところで、声をかけられた。
「なんかある?」
「悪いけど、ちょっと薬塗るの手伝ってくれないかな?」
「ああ、いーよ」
ユキさんの部屋について行く。
各個室には一応鍵がついているけど、基本的に身内ばかりなので使っていない。
とはいえ、ユキさんの部屋には一人で勝手に入ってはいけないルールになっている。
まあ、身内でも入られたくないことはあるから・・・・・・、という以前に、ユキさんの部屋はいろいろ危険なのだ。
だから、本人以外は二人以上いないと入れない仕様になっている。今日は、ユキさんがいるから入れるけど。
ユキさんの部屋に入って、ドアを閉める。至って、シンプルな部屋だ。
全室アップライトピアノが備え付けなので、ユキさんの部屋にもある。全く使われていないが。
「そういや、ユキさんってピアノ弾けるんだっけ?」
「習ってはいたよ、教室が近くにあったから。中学に入る時にやめたから、まあ、その程度」
実家の村は、いろんな習い事の家があったのだそうで、子供たちはほとんどそれらに通わせられるのだそうだ。習字も習っていたから超達筆だし、いろんな武道場もあったとか。ユキさんも初段までならいろいろ持っているらしい。
「これ、全然使ってないの?」
アップライトピアノ。俺も、地下のグランドピアノを使う方が多いけど、部屋のも朝起きたらちょっととか、寝る前にちょっととか、毎日細切れに使っている。
「かわいそうだけど、全然だなあ。拭き掃除はするけどね」
「まあ、それだけでも、悪くはないけど。たまには叩いてやってよ」
「まあ鳴らすくらいならいいけど。気になるなら今度俺がいないとき、杞冬と来て弾いてよ」
「いいの?」
「その辺に触んなけりゃいいよ」
ユキさんは、二年前から楽器は一切やらなくなった。音をちょっと出すだけならともかく、一定のリズムを叩くとかでも支障があるのだそうだ。なんか、作用してしまうんだ、という。
ユキさんの言う『その辺』も、まあ、近づく気になれないエリアだ。
ユキさんの部屋は、ピアノとベッドのほかには、大きな机と椅子、机の上の棚があるだけだ。
その机が『その辺』になる。木製の引き出しがついた棚がドーンと机の上の壁際に載っている。
まあ、中身は主に和紙と墨だ。さまざまなサイズや種類の和紙と、筆や墨、硯や携帯用の筆記具、ハンコなど。
つまり、お祓い道具だ。
衣類は作り付けのクローゼットの中なのだろう、あとはベッドの頭のとこにある棚くらいで、今は目覚まし時計とスマホの充電器が置いてあるだけだ。
ユキさんが、ベッドの頭の棚から取った、クリームが入っているような容器を俺に渡してくる。俺が蓋を外している間に、ユキさんは上のパジャマにしている上のスウェットとシャツを脱いだ。
そうして、ベッドに座って俺に背中を向けた。
「手が届かない辺りだけでいいから」
「・・・・・・うん。でも、塗るだけでも痛いんだよね?」
「まあ、痛いけど。塗らないともっと痛いから、お願い」
「そうだった。うん、わかった」
薬を指にたっぷりとって、ユキさんの肌に載せる。塗り広げていると、体が硬くなっていくのがわかる。痛みに耐えているんだろう。それでもかまわず塗り進めていくと、たまにビクッと動く。
「ごめん、大丈夫だから続けて」
「うん」
俺は割り切って、作業を続けた。
ユキさんの背中は、はっきり言って、人によってはふた目と見られない有様だ。
傷だらけ。四百針くらい縫われたというが、縫うにも隙間がなかったんだろうってくらいな有様。
鉈で殴られたのだそうで、俺も何度か数えてみようとしたんだけど、傷痕は五十を越えている。削れた痕とか一応治ったらしい痕跡なんかもあるから、そういうのも入れたら、いったいいくつあるんだろう。
俺は、ユキさんの甥の甥なので、俺とユキさんは血縁も何もない。俺はピアニスト志望だから薬塗りが得意なわけでもない。なのになんで間に挟まる杞冬じゃなくて俺が頼まれるのかと言えば、このケガが、杞冬をかばってできたものだからだ。
ユキさんがベランダから落とされた杞冬を掴まえて、両手で必死につかんでいる脇で、杞冬を落とした犯人は、ユキさんを鉈で打ちのめしてきたという話だ。
右肩の骨は砕けたそうで、そこには、荒く縫い痕の残るさぞ深かっただろう傷痕がある。そこは首から肩までのラインも歪んでいる。ユキさんは右利きで包丁も持てるしハサミも使えるし筆文字も達筆だけど、右手は一リットルのペットボトルも持てない。右手を使う作業は長時間はできない。左手は右よりはマシだけど、全体的に上半身は非力で、十キロの米袋を左手中心でかろうじて持てるくらい。かばんは肩掛けカバンで、左肩から斜めがけするのが基本だ。
なので、お祓いに使うものは、ほぼお札だけ。紙と筆と墨。まあ、どれも何種類か入っているらしいけどね。
肩の可動域が制限されるし痛みもあるから、ユキさんは運動らしい運動はしない。下半身は問題がないのでたまに身軽なまま昔修行した山に行くことはあるけど、慣れたところならともかく、体のバランスを取るのもうまくないということで『近場は歩く』という程度の運動量だ。夜の仕事も多い。だからか、ほぼ日焼けもしないので、肌は白い。骨が浮いて見えるほど痩せていて、更にこの傷痕だ。
薬を塗り込むと、更に皮膚のひきつれ具合もわかる。綺麗な肌なのに、痛々し過ぎる。
「ありがと」
手が届きにくいところを塗ったら、ユキさんが薬の入れ物をとりあげる。
「塗りにくいとこまだあるんじゃないの?」
「あとは自分でも届くよ。助かった、ありがとう。明日試験なのに悪いね」
「うん」
「お弁当にカツ入れるからね」
「はは。ありがと」
俺は、ユキさんの部屋を出た。
明日は、第二希望の大学の併願の総合型の試験日だ。第一希望は推薦も総合型もないうえに、共通テストも受けないといけないので、これに受かっておくと気分が楽だ。まあ、彼女がいるのは第二希望の大学なんだけどね。なんか、最近、どうでもよくなってきた。すでに自然消滅済判定かもなあ。
それにしても、ゲン担ぎのカツ弁当って、どこのおばちゃんだよ、と思いつつも、応援してくれる気持ちはやっぱり嬉しい。
洗面所に手を洗いに行こうとしたら、杞冬が廊下に顔を出した。
「ユキちゃん、薬塗り?」
「ああ、そう。別に、いつもどおりだったよ」
肌自体が弱っているので、ユキさんは乾燥する冬などは血まみれになることもある。実際、ケガをした後の最初の冬に、服が血まみれになっているのに行き会って事情を知って以来、塗り薬係を買って出ているのだ。あの時は、普通に台所で作業しているのに後ろ襟が血まみれになってて、杞冬と二人でびっくりした。痛いのは標準で、切れるのもよくあることだから、その時は切れたなあと感じたものの、料理が途中だったからうっかり放置してしまったらしい。思っていた以上の出血だったようで、本人もびっくりしていた。
そんなことがあったから、杞冬も俺が薬塗りをしていることは知っている。
まだ秋口、今年は薬塗り自体がまだ初だ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
杞冬は、ひと言、礼だけ言って部屋に引っ込んだ。
本当は、杞冬が塗ってやりたいのだろうけれど。
ユキさんは、あの傷痕を決して、杞冬には見せない。
夏でもせいぜい七分袖だし、後ろ首が見えないようにしている。首の後ろから後頭部にかけても傷があるそうで、襟足の髪は少しだけ長めにしている。肌が透けるような服も着ない。
婚約者はいるけど、薬塗りを頼んでいる様子はない。俺がしばらく頼まれないと、次に頼まれる時には傷痕が傷んでいたりする。まあ、俺だって慣れたからだいぶ平気になったけど、最初のうちは加減がわからないし痛々しいしで、途方に暮れた。やっぱいいよと言われつつも、意地張ってやり続けて、ようやくお互いに慣れたのだ。
婚約者だからって、あの傷痕では、できないこともあるだろう。
とはいえ。
ユキさんは、出張も多い。だから、俺達には出張だと言っておいて、実は婚約者と旅行に行っていることもあるんじゃないかと思っていた。
でも、そんな様子はない。
大丈夫なのかな? あの二人。
なんだか、急に気になりだしてしまった。




