修羅場は勘弁してください。
暖簾の向こうには、ダッフルコートを着た女の子。
噂の、神谷未冬、だ。
え? これ、もしかして、修羅場始まる?
彼女は、ちょっとむくれた顔をしたまま口を引き結んで、俺たちを見る。それから、なみさんを見た。
そうして、とん、とテーブルの上に何かを置く。
五千円札だった。
「これ、預かってきた。おつりが気になるなら募金箱に入れて。帰るよ」
みゆちゃんは、俺たちに言う。俺は杞冬を振り返るが、杞冬は視線で否定する。どちらも、ユキさんにはこの状況を教えていない。
ユキさんは、時々こういうことがある。なんでもお見通し、という感じ。
ちょっと怖いんだけど、とユキさんに言ったら、俺もそう思う、と言われた。
こういう時は、近くに何故かいるようになっているのだそうだ。
お見通しではなく、お導きだ、とのことだった。
杞冬の誘拐事件の時なども同様で、会社から脅迫メールの連絡が来て気配を探ったら、すぐ近くだったのだという。気配を探る、ということはできるらしいが、常に追っているわけではないそうだ。
「みゆちゃん、教えて」
通路にいるみゆちゃんに、酔っ払って肘をついたまま、なみさんが尋ねた。
「神様の、しわざ、なの?」
神様の、しわざ?
ざわっとした。
俺は霊感なんてものはない。けど、みゆちゃんと、杞冬。両方の気配が荒れた感じがした。
「私は認められた。それだけ」
みゆちゃんはそれだけを言う。そうして、暖簾を降ろして出口に戻って行く。杞冬がすぐに動いたので、奥にいた俺も続いて出ようとした。
「やっぱり、そうなんだ」
なみさんの声が聞こえたけど、振り返った時には暖簾が垂れて視界を隠した。同じように聞こえたはずの杞冬がそのまま立ち去るので、俺はその後にすぐついて行った。
とりあえず、修羅場にならなくてよかった。
ユキさんは、十メートルくらい先で待っていた。俺たちが近づくと、先に動き出す。小走りに、みゆちゃんがユキさんのすぐ後ろにつく。
「俺、戻らないといけないから」
そう言って、杞冬は逆方向に歩いて行った。
俺は、迷いつつもこれ以上時間を無駄にしたくなかったので、二人の後を追った。だって、進行方向だから。今日は、みゆちゃんの受験日だった。彼女は新居用に借りた部屋に泊まって、試験を受けた帰りなのだろう。ユキさんは仕事帰りに合流したのかもしれない。
電車に乗ると、ユキさんは奥のドアの前に立った。その前にみゆちゃんが立って、俺に視線を寄こす。俺も、二人のそばに立った。
ユキさんは、足元を見ているだけだった。左手で、ドア脇の棒につかまっている。あとは、どこにも触れていない。みゆちゃんと、俺でガードしてるみたいな感じになった。
いや、実際に、ガードしているんだ、これは。
ユキさんの体に、誰も触れないように。
顔色も悪い。表情につらい様子はないけど、ユキさんはそういうのは顔に出さない。ただ、表情が無くなる。
駅三つで電車を降りる。幸い、下車駅はさほど混んでいなかった。
改札前で、ユキさんは人波から外れる。改札を出るのに、交通系ICカードを手にするためだ。左肩から斜めがけしたバッグにぶら下げられているのに、流れに乗ったままでは手にできなかったらしい。ユキさんは、俺とみゆちゃんの間に挟まれて改札を通過した。
ユキさんは、スマホアプリはほぼ使っていない。壊れたら終わり、だからだそうだ。仕事上、壊しかねないそうで、実際に仕事用に支給されているスマホはたびたび壊している。個人用は安全のためにカバンに入れっぱなしなので、メッセージにすぐ気づいてもらえないこともある。
「うちの方が近いよ?」
みゆちゃんが言うのに、ユキさんが迷うようにまばたきをする。
「私は滑り止め含めて受験終わりだから。しょーちゃんはまだあるんでしょ?」
言って、みゆちゃんは俺の方を見る。
「ユキさんはうちの方に泊めるよ」
ユキさんは、否定も肯定もせずに立っている。ちょっと困ってるのかもしれないが。
「大丈夫?」
一応、みゆちゃんに訊いてみる。
「大丈夫じゃなかったら、休み休みそっちに行くよ」
「わかった。じゃあ悪いけど」
ユキさんはゆっくりなら歩けるようだったので、俺は先に家に戻ることにした。
まあ、部屋を借りてからも、ユキさんはずっとうちにいるけど。夫婦だし。
多分、ユキさんは、自分の内側を抑えている。
ユキさんの中には、神様が入っているという。更に、そこからもっと大きな、神社の中に閉じ込められている神様にもつながっているらしい。
なみさんは、言ってはいけないことを言ったんだ。
なみさんは、考えてはいけないことを考えたんだ。
だから、抑えている。
日本の神様は、怖い。
杞冬が言っていた。
神様の理屈は、人間にはわからない。と。
その晩、ユキさんは帰ってこなかった。




