うっかり、つかまっちゃいました。
ピアノの先生のところからの帰り道。
ばったり、なみさんに会った。
ばったり会うって、こういうことを言うんだなってくらい、ばったりだった。
「さよならっ!」
と、はっきりと言い捨てる男の声が聞こえた。乗換駅の通路でだ。
進行方向ですぐ近く、言ったらしい男はこちらに向きを変えながら言っていて、そのまま早足で脇を通り過ぎて行く。男の前にいたらしい女が、俺の進む方に方向転換しようとしたのだろう、その男の背中から視線を反らした先に、俺が、たまたま通りかかったのだ。
俺はなみさんだと気づいたし、あっちも俺だと気づいた。
けど、俺はそのままテンポを変えずに進んだ。
だって、なみさんは、もう、全然関係ない人だ。同居人であるユキさんの、元婚約者。
婚約解消してユキさんとの縁が切れたのだから、俺からしてももう、顔見知り解消だ。
なのに、後ろから腕をつかまれた。
振り切ろうと思う間もなく、そのまま通路沿いにあった居酒屋に引っ張り込まれる。はい?
「二名です」
はい?
店員は、元気に二名様お越しでーすっと大声を上げ、いらっしゃいませーっというほかの店員の声がいくつも重なって届く。
そうして、暖簾で通路と仕切られた四人席に案内された。
「ウーロン茶でいい?」
確認されたけど、黙ってた。なみさんは、案内の店員にウーロン茶と生ビールと焼き鳥を頼んだ。
「ユキさん、元気?」
「・・・・・・元気ですよ」
そもそも、ユキさんは病気知らずだ。それくらい知っているだろうに。
「そうだよね」
別れて二か月ちょっとくらいかな。まあ、覚えてはいたらしい。
「受験生だっけ。忙しいのにごめんなさい」
「いえ」
まったくだ。共通テストが終わって、次は個別テストに向けて勉強と、ひたすらピアノを弾き込んでいるところなのだ。まあ、共通テストが終わったから、一段落っちゃ一段落だけど。
そういえば、杞冬は今日はこの乗り換え駅そばのレコーディングスタジオにいるはずだ。俺はスマホを出して杞冬に状況を伝える。ユキさんには、伝えない方がいいだろう。
すぐに、飲み物が届いた。乾杯は不要だろう、と視線で確認すると、なみさんはグラスを手にすると、がばーっと、一気飲みした。
まあ、ジョッキよりも量が少なめの、おしゃれなグラスだったけどね。
一気飲みは、いろいろ、ダメじゃないかなあ。
エンジンがかかったのか、なみさんはスマホから注文をいくつか出している。唐揚げとポテト頼むから、食べてね、と言いながら。
「え、っと。さっきのは?」
一気飲みでユキさんの敵的な気を削がれたので、聞いてみる。
「別れた」
ほんの二か月ほど前に、ユキさんから聞いたセリフと同じだ。
あの男のせいで、ユキさんと別れたはずだが。
「あれ、ユキさんと別れた、原因の奴じゃないの?」
「そうね。三ヵ月ももたなかったわ。友達の期間は、長かったのにね」
なみさんは、ユキさんとのつきあいの話をしだした。
ユキさんとは、三年つきあって婚約して、更に二年つきあった。
ユキさんは、婚約前の三年のうち、間の二年分の記憶がない。
記憶を失った期間は、殺人事件に巻き込まれて大ケガをしたところから、火事に巻き込まれて死にかけたところまで。
火事のケガから意識を取り戻したとき、殺人事件の直後に意識を取り戻したと思ったらしい。杞冬も巻き込まれた事件だったので、意識を取り戻したと聞いて駆け付けた杞冬の元気な姿を見て、記憶喪失の事実が判明したと聞いている。
なみさんと、月一回くらい、お茶したり映画観たりというつきあいを始めたのが、なみさんが大学二年の時。再会したのは前年のクリスマスイブだったのだそうだ。
つきあい始めた夏、殺人事件に遭った。
大ケガから回復して、つきあいを再開したのは、もう冬になるころだったという。
ユキさんは事件の責任を感じて、結構、鬱々としていたらしい。
大ケガの後遺症で、今でもときどきちょっとした拍子に激痛に見舞われるのだけれど、その時のことを思い出して痛むということも、その二年間の間は、結構あったのだそうだ。
俺は、記憶をなくすちょっと前から同居していた。殺人事件からは、二年近く経っていた。だからなのか、俺にはそういった鬱々した様子を見せたことはなかった。
火事のあと記憶をなくし、なんだかんだ入院が長引き、家に戻ったのは三ヵ月以上経ってから。早速できることから、家事を再開していた。
ただ、リハビリが進んでも力がうまく入らないらしく、重い物は持てない。
以前は食材を毎週配達で届くようにしていたけど、不在の間は止めていたので、しばらくは三人で買い物に行ったりしていた。肩の調子は入院が長かったおかげで前よりはちょっといい、くらいまではよくなったけど、非力には違いないので、食材配達も再開した。
まあ、話を戻すと、俺たちの前では淡々と日常に戻って行っていたけど、なみさんのところでは殺人事件が起きたばかりの感覚が復活して鬱々としていたこともあったらしい。火事でいろいろ解決したらしいけど、その記憶もないしね。
「私はねえ、一家心中の生き残りなのよ」
なみさんは、おかわりに一気に生ビールを二杯頼んだ。一杯を再び一気飲みして、三杯目からはゆっくりと飲んでいる。生き残りだという話は、杞冬に聞いたことはあるが詳しくは知らない。
そこに、杞冬からメッセージが届いた。駅に着いたらしい。乗り換え通路沿いの店なので、構内に入れと書いて店名と座っている位置を教えた。
「もうすぐ中学って頃にね。うちは、村じゃなくて街の方に家があったの、父の仕事の関係でね。母は仕事の関係で知り合った人だったそうよ。その母が、変な宗教にはまっちゃったの。父は村の神社の役もやってたってのにね。うちのお金つぎ込んで、父の仕事の信用もなくなっていって、父が母と兄と姉を二階で殺して、火をつけた。私はのんきに、一階で深夜のアニメ番組を観ていたのよ」
気づいたときには、燃える廊下を背景に、父親が包丁を持って立っていたのだそうだ。
「私は逃げて無事。父も焼け死んだ。うちは二屋の本家だったけど、商売にかかわってた親戚もいなくてね、商売と一緒に、光井の家で私を引き取って育ててくれた。ユキさんとは顔見知りだったけど、中学に入ったら部活が同じで、話をするようになった。天文部でね、帰りが遅くなって、暗い中、私の家があったところを通ったの」
なみさんは、そこを通るたび、父親の最期の声を聞いていたのだそうだ。「助けてくれ」と。
その話をその時にして、ユキさんがなみさんの誤解を解いてくれたのだという。
父親は「『自分を』助けてくれ」となみさんに言ったのではなく、神様に「『娘を』助けてくれ」と祈ったのだと。
「それで、生きるのが楽になったのよ。生きてていいんだって、思えるようになった」
更に、なみさんは言った。
「それで、先輩のことが、好きになったのよ」
それで、て。それで、なのか?
なんとなく好きになっていったとかじゃなくて、原因と結果みたいな感じだ。
暖簾の向こうに人が立ったので、開けてみたら杞冬がいた。俺が奥に詰めて、杞冬を座らせる。
「ウーロン茶でいい?」
「オレンジジュースとかある?」
「あるよ」
なみさんが、オレンジジュースとハイボールを頼む。俺のウーロン茶はまだ半分以上残っていた。
腹が減っていたのか、杞冬は遠慮なく唐揚げとポテトを食べ始めた。
「どういう話になってるの?」
「えーと、なみさんがユキさんを好きになったとこ?」
そうとしかいえないんだが。
「ユキさんが転校する直前ね。そのあとすぐ、学校に来なくなって。転校したって聞いたわ」
「夏の祭りのあとから、すぐに修行に行っちゃったけどね」
その辺の状況は複雑らしい。同じ修行に出るにしても、ユキさんが村を出てから行く、というのは、大きな問題だったらしい。まあ、結果的に、今では村とのつながりが保たれているんだけど。
その時に村を出てから火事に遭うまでの間は、ユキさんは、祭りの時と大ケガで療養した時にしか、村に戻らなかった。
「結局、吊り橋効果ってやつ、なのよ」
吊り橋効果。あの、ぐらぐら揺れる吊り橋で出会うと、恋に落ちたと錯覚するとかいう。有名なところでは、タイタニックの映画みたいなやつだ。
「ユキさんも、そういう時期だったから。再会してからも事件があったし。あの人はね、自分で自覚してたわよ、吊り橋効果。だから、いつも、私が本当に好きなのかって、心配してたわ。私は、ユキさんがどう思っていようと、正直気にしてなかったわ。私が好きで、それで一緒にいてくれるなら、それでよかった」
だから、なみちゃんの心が離れたら、あっさり終わりになったのだ、という。
「ユキちゃんは、ちゃんと、好きだったと思うよ」
杞冬が、オレンジジュースを飲みながら言った。
「うん。私が悪い。ユキさん、みゆちゃんと結婚したんだってね」
「うん。あいつはある意味鈍感だから、ちょうどいいんじゃないかな」
鈍感? なのか? あの子。
ユキさんと婚姻届けを出したという、俺たちと同じ年の子とは、一度会った。
東京の大学を受けるので、部屋探しに来たのだ。
部屋は結局、ユキさんの職場と大学とも近い、うちの近所になったのだが。
ごはんはここに食べに来るわ! と言っていた。うん、まあ、鈍感かも。
「こーちゃんは知ってる? 七縛りの配偶者の話」
なみさんは、下からにらむように、杞冬に訊いた。七縛り、というのは、ユキさんの実家の神社の神様を体に棲ませることができる親族を言うらしく、ユキさんと杞冬がそれに該当するらしい。
「聞いた」
杞冬はそう返事をするが、具体的なことは言わない。
「そう。結局、それも原因よ。私は、七縛りの配偶者、失格だったの」
「…………」
杞冬は、ただ、沈黙した。信じられない、と驚いているのがわかる。
「失格、て。何? 何あんの?」
俺は訳が分からず訊いた。訊くんじゃなかったと、なみさんの回答を得てから思った。俺の馬鹿。
「早い話、一緒に『寝よう』とすると、意識が飛んじゃうのよ。始まりもしないうちにね」
生々しい話に、俺もフリーズした。
「ちょっと濃い目のキスが限界。愛情表現としてのキスはたくさんしてくれたけどね。その気のキスはこっちがダメになっちゃう。ユキさんは、それでもいいって、言ってくれてたけどね」
二人のつきあいは長い。杞冬の沈黙の意味がわかった。婚約してから二年。キスだけだったのか、ということだ。
なみさんは、下を向いた。
「女にだって、性欲あんのよ」
ユキさんはそれを、理解していなかったらしい。自分が我慢すればいいと、思っていたのだろう。
納得したところで、脇の暖簾が開いた。




