14 湖底の火口は恐ろしいです
「……書物に、載っておりました。何百年も前に一度だけ、湖の水が噴き上がったことがある、と……。そして間もなく、湖の周辺に暮らしていた人々が、家畜ごと——まるで眠るように亡くなったと……」
ゲルタは冷え切ったリタの手を両手で包み込み、震える声で続ける。
彼女が読んだノメンゼン領の古記録には、当時の出来事が淡々と記されていた。
奇病が流行ったのか、呪いや黒魔術、果ては禁術が使われたのか。などという憶測が書かれていたものの、結局、原因の特定には至らなかった。
しかし遺体には外傷ひとつなく、腹を裂いても臓腑は驚くほど綺麗だった——そう書かれていた。
その記述と、今目の前にいるリタたちの症状を重ね合わせるなら、導かれる答えはひとつだった。
「東の湖は、それそのものが火口……。つまり、火口湖なのでしょう。そして、湖底には溶岩が眠っている」
領地の真ん中に高く聳え立つ黒い火山とは別に、湖水に満たされた火口がある。
ゲルタはそう推測した。
「リタは溶岩から出たガスを、吸い込んでしまったのかもしれません」
火口の底、溶岩から出るガスは空気よりも重い物が多い。
リタは湖畔で火山灰を拾おうと身をかがめ——その濃い層を吸い込んでしまった。そう考えると辻褄が合う。
ぽとりと、ゲルタの目尻から涙が落ちた。
「……私、私の、所為です。彼女を、彼女たちを危険な目に合わせてしまったのは……。考えなしに、お願いして……」
「ゲルタ!」
自分を責めるゲルタの肩を、クラウスが力強く掴む。
「東の湖は元々、巡回ルートに入っている場所だ! 地元の領民も訪れる! ……いつかは、こうなっていた。お前の所為じゃない」
「しかし、クラウス……」
「今は彼女たちの対処を考えよう! ガスが原因だとすれば、治療の方法は……っ!」
「ないな」
短く、冷たい声が空気を裂いた。
発したのはヘルムートだ。
その声音は、情を一切排した医師のように冷静で、広いエントランスに重く響く。
「そこの騎士、お前も湖に行ったんだよな?」
「えっ? あぁ、そうだが?」
「臭いはしなかったか? くっさい臭い」
「……いいや、特には……」
「なら治療する術はない。あのガスに、特効薬なんてないんだからな。風通しのいいところで安静にさせるぐらいか」
「ヘルムート! 何を雑なことを言って……!」
あまりに淡白な物言いに、クラウスの声に怒気が帯びる。
「いいえ、彼の言うことは正しいです」
だが静かな声が、その怒気を押しとどめた。
ゲルタだ。
顔を上げた彼女の頬には、涙の跡が残っている。しかし瞳には曇りがない。
「リタたちが吸ってしまったのは、恐らく『炭酸ガス』でしょう」
「炭酸ガス?」
「炭を燃やすと発生するガスのことです。暖炉で温まっていたら、空気の入れ替えが不十分で亡くなる方が出る事故、クラウスも聞いたことがあるのでは?」
「あの煙か! だが暖炉の事故は部屋が閉め切っていた場合に起きるだろう? リタたちは外にいたんだぞ!?」
「煙も見当たりませんでしたよ、お嬢さま」
騎士が補足すると、ヘルムートが鼻で笑った。
「はん。体に悪いものなら何でも、都合よく目に見えると思ったら大間違いだ。炭酸ガスは本来、透明で臭いもなければ味もしない。空気に普通に混じっているやつだ、魔道具なしに認識できねぇよ」
だからこそ、王令に伴いリタとヘルムートは魔道具のルーペを開発したのだ。
脅威を可視化する為に。
「湖から出てきた炭酸ガスは長い時間をかけて、湖畔に溜まってたんだろ。暖炉の事故で体に害が及ぶように、ガスは濃さで危険性が変わる。……死ぬ時は、一瞬だ。けどこいつらは気絶ですんでる。ならこれ以上、悪くなることはないんじゃねぇか?」
ヘルムートがそう結論づけたところで、沈黙が落ちた。
炭酸ガスによる死因は、主に酸欠。必要な酸素を取り込めなかった生物の死はあっけないもので、刹那の内に、ろくな抵抗もできずに亡くなってしまう。
しかし彼女たちは意識を失い、呼吸が浅くなりながらも、酸素は取り込めている。最悪の事態は回避できたと見ていいだろう。あとは時間経過による回復を待つしかない。
後遺症が残るのかどうか、いつ目覚めるのかどうかは……本人の体力に、左右される。
クラウスは拳を握りしめたまま、リタを含む騎士たちの顔を見つめた。
生きている。それだけが救いだった。
その時、ゲルタはそっとリタの手を離し、静かに立ち上がる。
「皆さんを風通しのいい部屋に。それから、体が冷えないようお願いします。……私は今から、湖に行きます」
「ゲルタ!? 何を言っている!?」
彼女の想定外の発言に、クラウスの声が鋭く跳ねた。
「リタたちが倒れたんだ! 危険だとわかっているだろう!? あそこは封鎖する! 火山と同じように! 絶対に行くな!!」
「湖の底に溜まっているガスが、またいつ噴き出すかわかりません! その範囲は広大です! これは湖に近寄らなければいいという話ではないのです! 対策を、考えなければ……!!」
譲らない。
ゲルタの強い意志に、周囲の騎士たちでさえ言葉を失う。
「だが、どうやって! 無策で飛び込むのは蛮勇たぞ、ゲルタ!」
クラウスが叫ぶ。
それは怒鳴り声というより、懇願に近かった。
「ノメンゼン領って、ガラス細工が盛んなんだって?」
張り詰めた空気の中、唐突に投げ込まれた言葉に、二人の視線が同時に動く。
ヘルムートだ。
彼は面倒臭そうな表情を浮かべ、後頭部を乱雑にかきながらも、その眼差しは真剣であった。
「……特別に、僕が手を貸してやるよ」




