11 元婚約者さまのお話ですか
こんこん
ゲルタがそろそろ眠ろうかと思っていた時、部屋に扉をノックする音が響いた。
「ゲルタさま、今よろしいですか?」
次いで聞こえてきたのは、女性の声。
「どうぞ、入って」
「では失礼します!」
許可を得ると、甲冑姿の少女、リタが元気いっぱいに入室してくる。
彼女はクラウスが「歳の近い同性の方が気を張らなくていいだろう」、とゲルタの護衛と雑務を任せた近衛兵だ。外出時には侍女と共に付き添ってくれる他、ちょっとした雑用を請け負ってくれる。
例えば――
「森で回収した火山灰、お持ちしました!」
ゲルタが足を踏み入れるには危険な箇所に分布した、火山灰の回収。
「ありがとうございます」
「いえいえ! この程度のおつかい、お茶の子さいさいです!」
リタは火山灰が詰まった袋を差し出しながら、元気な笑顔を見せてくれた。
「それでも助かります。大したお礼はできないのですか、お菓子はどうでしょう?」
「お礼なんていりませんよ! 仕事ですから!」
「私にはできないことをして頂いているのです。お礼をするのは当然でしょう?」
そう言うとゲルタはリタを半ば強引に椅子へ座らせ、マカロンが乗った皿をテーブルへ運んだ。
「い、いいんですか?」
「遠慮なくどうぞ」
「あっ、ありがとうございます!」
まだあどけなさが残る顔をぱあっと明るくし、リタはマカロンをひとつ手に取ると頬張り始める。
「美味しいです、ゲルタさま! まさか勤務中にお菓子を食べられるなんて……っ!」
「ふふ。他の方には内緒ですよ?」
「本当、以前では考えられない……。あっ」
しまった、という表情を浮かべ、リタは顔をうつむかせる。
「以前?」
「す、すみません! 何でも……」
「前の、婚約者の話でしょうか?」
ゲルタの指摘に、リタは肩をびくりと揺らした。
図星らしい。
「たまに比べられますから。詳しいことは聞いていないのだけれど」
「わっ、私も、詳しいことは把握していません。ただあの人がお城にいた頃、クラウスさまはいつも険しい顔をなされていて……それが騎士たちの緊張に繋がって……」
酷く重苦しい空気が城を包んでいたと、リタは話し出す。
◆
クラウスの元婚約者。
コリーナ・バルヒェット侯爵令嬢。
王令によりクラウス・ノメンゼンとの婚約を命じられ、辺境の地に送り込まれた令嬢。
彼女は何よりも美しいドレスを愛した。
着飾ることが生き甲斐で、王都では新しい流行を生み出すトレンドセッターとして名を馳せていたという。
そんな彼女が、まともなブティック一つない田舎へ嫁ぐことを強制された。
その結果、コリーナは不満と苛立ちを募らせ、手が付けられないほどの癇癪を起こした。
口を開けば怒声が響き、近くの調度品が倒れ、時には壁に打ち付けられた跡が残る。使用人たちは怯え、城内の空気は重く、凍り付いた。
リタは直接、コリーナと会ったことはないが、城から聞こえてきた彼女の金切り声は、今も耳に残っている。
コリーナが問題を起こす度にクラウスは眉を寄せ、肩を落とし、冷静に諌めようとした。
机に伏せて長い手紙を書き続け、国王に婚約見直しを懇願したこともあった。
しかしノメンゼン領は国防の要。
守りを磐石にしたかった国王は、上流貴族同士の婚姻を押し進めることを望んだ。
城内の緊張は日増しに増し、騎士たちの表情も固く、息をするのもためらうほどだった。
そして、ある日。
何かが、起きた。
それ以降、コリーナは城から姿を消した。
破談となったそうだが、経緯は不明だ。
リタが知っているのは、あの日見たクラウスの顔。
深く刻まれた疲労、唇を固く結び、視線を落としたまま何も言わずに歩く姿。
それだけだ。
◆
「……不確かなことしか話せず、すみません」
「いいえ。聞かせてくれてありがとう」
自分の知っていることを話してくれたリタに、ゲルタは丁寧に頭を下げて礼を述べた。
城内でも領地でも、元婚約者の話題は避けられていた。箝口令が敷かれた訳でもないのに、誰も過去に触れようとしない。
けれど今、リタを介して小さな欠片が語られた。
それだけで、ずっと閉ざされていた扉の隙間から、冷たい風が吹き込んだような気がした。
(クラウス、大変でしたのね)
そう思うと胸が痛んだ。
彼がなぜゲルタとの結婚を求めたのか――その理由が少しだけ、見えた気がした。
愛ではなく、安らぎを。
情熱ではなく、平穏を。
彼はそれを願っていたのかもしれない。
「しかしゲルタさまが来られてから、クラウスさまの笑顔が増えたんですよ!」
「……まぁ、そうなのですか?」
「はいっ! お陰で城も明るくなって、ゲルタさまのお陰ですね!」
無邪気に笑うリタの声が、夜の静けさの中でよく響いた。
気を遣ってくれているのだろうか――けれど、心の奥がじんわりと温かくなる。
この土地で自分が何かの役に立てているのなら、それだけで十分だと思えた。
「そうそう、火山灰のことですが! 明日は東の湖のほとりを見てみますね!」
「明日ですか? そう急がなくとも大丈夫ですよ?」
「少しでもゲルタさまのお役に立ちたいので! それじゃ、おやすみなさい!」
勢いよく頭を下げ、ぱたぱたと軽い足音を響かせて、リタは去っていった。
残された部屋には夜の冷気と、マカロンの甘い香りだけが漂っている。
(あれほど張り切らなくっても……。彼女が体を壊さないことを願いましょう)
呟きながら、ゲルタは窓辺に目を向けた。
遠くの空には、輝く月が火山と並ぶように浮かんでいる。
クラウスも今、同じ空を見ているだろうか――
ゲルタがそんなことをぼんやりと思い浮かべているうちに、夜は更けていった。




