第88話 初デート(月編)
翌朝、篠宮家の食卓には、卵焼きと焼き魚、味噌汁、そして炊きたての北海道米「ななつぼし」が並んでいた。
久しぶりの実家の朝食に、祐希は箸を進めていたが、その心中は穏やかでなかった。
向かいの席に座る妹の月が、昨夜の背徳的な行為などなかったかのように、爽やかな笑顔でご飯を食べているからだ。
(昨日のあれは、夢だったのか……?)
祐希が現実逃避しかけたその時、月が箸を置いて満面の笑みを浮かべた。
「ねえお父さん、お母さん。今日ね、お兄ちゃんとデートしてくる!」
「ん?デート?」
父の幸希が新聞から顔を上げる。
「うん!エスコンフィールドのファイターズ戦のチケット取れたから、お兄ちゃんと行きたいの」
「ほう、エスコンか。
あそこはいいぞ、最新型のボールパークだからな」
「久しぶりの兄妹水入らずだもの、楽しんでらっしゃい」
両親は二つ返事でOKした。
兄妹仲が良いことを喜んでいる様子だ。
だが、祐希は昨夜の記憶が鮮明すぎて、素直にうなずけなかった。
これ以上、2人きりになるのは危険だというアラートが頭の中で鳴っていた。
「いや、ちょっと疲れてるし、今日は家でゆっくりしたいんだけど……」
「お兄ちゃん、可愛い妹の誘いを断るの?
このチケット取るの、大変だったんだよ!
それにチケット代だって、高かったんだからね。
お父さん……何とか言ってよぉ~」
月は、甘えた声で父親に助けを求めた。
「祐希、行ってやりなさい。
家でゴロゴロしてるより、ずっと健康的だぞ!」
娘に甘い父親が祐希に命じた。
外堀を埋められ、既に祐希に拒否権はなかった。
「わ、分かったよ、行けばいいんだろ……
まあ、新しい球場見てみたかったから、ちょうどいい機会かな……」
「やったあ!お兄ちゃん、大好き!」
月は無邪気に祐希の腕に抱きついたが、その腕に押し付けられる柔らかい感触さえも、今の祐希にとっては罠にしか思えなかった。
午前11時過ぎ。
札幌駅からJR千歳線に揺られ、2人は北広島駅へ降り立った。
そこからシャトルバスに乗り、目指すは『北海道ボールパークFビレッジ』だ。
バスを降りると、目の前には巨大な建造物がそびえ立っていた。
『エスコンフィールドHOKKAIDO』。
重さ100トンの開閉式切り妻屋根に、正面の巨大ガラス壁を持つそのスタジアムは、メジャーリーグのボールパークのようだった。
「うわ~、すごいな……。
やっぱり実物は迫力が違う」
祐希は感嘆の声を上げた。
スタジアム内に入ると、コンコースは開放的で、どこからでもグラウンドが見渡せる構造になっている。
天然芝の鮮やかな緑と、土の茶色のコントラストが美しい。
祐希は珍しそうに場内を見学して歩いた。
壁画アートや充実した飲食店、有名メジャーリーガーの壁画など、見どころは尽きない。
13時、プレイボールのアナウンスが鳴り響いた。
今日の対戦は、北海道日本ハムファイターズ対千葉ロッテマリーンズだった。
お盆休み期間ということもあり、スタンドは満席だ。
祐希たちが座ったのは、一塁側の内野席だった。
「さあ、応援するよお兄ちゃん!」
月はグッズショップで買ったツインスティックを祐希に手渡すと、自分は祐希の隣にぴたりと体を寄せた。
「おい、ちょっと近くないか?」
「え~!デートなんだからこれくらい普通でしょ?」
月はそう言うと、祐希の左腕を自分の両腕で抱え込み、胸の膨らみを意図的に押し付けてきた。
「ほら、周り見てよ。カップル多いんだから、私たちも恋人同士に見えるようにしなきゃ」
「しなきゃって、誰に対してだよ……」
祐希が困惑している間にも、試合は進んでいく。
ファイターズの選手がヒットを打つたびに、球場全体が大きな歓声に包まれる。
だが、祐希は試合に集中できなかった。
腕に伝わる妹の体温と、柔らかい弾力。
そして時折、上目遣いでこちらを見てくる月の視線。
(頼むから試合に集中させてくれ……)
祐希の願いも虚しく、月は得点が入るたびに「やった~!」と抱きついてくる。
その都度、周囲の温かい視線が注がれるのが、祐希には苦痛だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファイターズの勝利に沸くエスコンフィールドを早々に後にし、2人はJR札幌駅に戻った。
そこから地下鉄で大通へ向かう頃には、すでに夕暮れが近づいていた。
月のリクエストで次に向かったのは、複合商業施設『moyukSAPPORO』内にある都市型水族館、『AOAO SAPPORO』だった。
館内は照明が落とされ、幻想的な雰囲気に包まれていた。
「へえ、今の水族館ってこんなにお洒落なのか」
祐希が感心したようにつぶやいた。
巨大な水槽はなく、アートのように展示された水槽や、手の届きそうな距離で観察できるペンギンがこの水族館の特徴だ。
だが、月の興味は、魚やペンギンには向いていなかった。
「見てお兄ちゃん、あの水槽のガラス、鏡みたい」
月が指差したのは、青白い光を湛えた水槽だ。
暗い館内と明るい水槽のコントラストで、ガラス面には2人の姿が映り込んでいた。
月は祐希の腕にぴったり寄り添い、その映り込んだ姿にうっとりしていた。
「うん、いい感じ。
私たち、誰が見てもカップルだよね?」
「……兄妹だろ」
祐希が小声で訂正するが、月は聞く耳を持たなかった。
「お兄ちゃんもちゃんと見てよ。お似合いでしょ?」
彼女は展示されている美しいクラゲを見るよりも、ガラス越しに並ぶ「男女としての2人」に陶酔しているようだった。
水族館を出ると、外はすっかり日が暮れていた。
「お兄ちゃん、今度は観覧車に乗ろ!」
ススキノのネオンが輝き始める中、2人は複合商業施設『ノルベサ』へ向かった。
屋上にある観覧車に乗るためだ。
「夜景、綺麗かなあ」
祐希は、はしゃぐ月と共に観覧車のゴンドラに乗り込んだ。
扉が閉まると、そこは地上数十メートルの密室となった。
ゴンドラがゆっくりと上昇するにつれ、札幌の街並みが煌めく光の海へと変わっていった。
札幌テレビ塔のライトアップや、繁華街の賑やかな明かり。
頂上付近に差し掛かったところで、祐希は窓の外の景色に見入っていた。
「うわ、すごいな……。
やっぱり高いところから見ると、札幌の夜景って綺麗だな」
祐希はガラスに張り付くようにして外を見ていた。
「月、見てみろよ。あそこの――」
祐希が振り返ると、そこには月の顔があった。
振り返った祐希の唇と月の唇が、ちょうど重なり合った。
月は、そのタイミングで唇を押し付け、柔らかく温かい感触が、祐希の唇を塞いだ。
祐希にとっては、最悪のタイミングだった。
向かいの席に座っていた月は、祐希が夜景を見ている隙に、背後から忍び寄り、祐希の斜め後ろで振り返るのを待ち構えていたのだ。
恐らくこれは月の計画的犯行であろう。




