第84話 頑固親父(1)
午後6時過ぎの早乙女家。
大きな屋根の下に、美しいピアノの旋律が響き渡っていた。
玄関を入ってすぐ左手にある20畳ほどのピアノレッスン室。
2階までの吹き抜けの天井が、さくらの奏でる音色を豊かに反響させていた。
重厚な玄関ドアが開くと、父・賢吾の太い声がした。
「ただいま! さくら、帰ってるか!」
愛娘の帰省に、賢吾の声はいつになく弾んでいた。
さくらは指を止め、あわてて椅子から立ち上がった。
「お父さん!」
さくらはレッスン室の重い防音ドアを開け、小走りで父を出迎えた。
愛娘の帰省に、賢吾はいつになく上機嫌だった。
夜になり、食卓にはさくらの好物である特上寿司が並んだ。
久しぶりに家族4人全員が揃い、ささやかな帰省祝いが行われた。
賢吾は「今日は特別な日だ」と言って、大事にしまってあった青森の銘酒を開けた。
「ほら、さくら。もっと食え。東京じゃこんな美味い寿司は食えんだろう」
「ありがとう、お父さん」
「うちの高校、秋田県吹奏楽コンクールで金賞とったんだぞ!
東北大会への出場も決まったし、今年のメンバーは質もバランスも最高だ。
俺が厳しく指導した甲斐があったというもんだ」
「ふふ、お父さん、またスパルタ指導してるんじゃないの?」
「バカ言え。音楽への愛があるから厳しくするんだ」
賢吾は高校の音楽教師であり、吹奏楽部の顧問として、県内でも名の知れた指導者だ。
今は東北大会に向けた強化練習の最中だが、念願の金賞を取れたことと、何より愛娘が久しぶりに帰省したことで、特別に機嫌が良かった。
「さくら、前期試験はどうだった?」
「うん、ピアノの実技も筆記も良かったから、たぶん『優』は間違いないかな」
「さすが俺の娘だ、鼻が高いぞ! 前期の単位はフルで取れるんだろうな?」
「もちろんよ。無遅刻無欠席だから、大丈夫」
父は日本酒を飲みながら、ほろ酔い加減で上機嫌だ。
「この頃のさくらは『パパと結婚する』って言ってたのになぁ」
賢吾は部屋から昔のアルバムを持ち出してきて目尻を下げていた。
その場の空気は最高に和やかで、幸福感に包まれている。
幸せな家族の団欒を、自分の告白で壊してしまうことが、さくらには何よりも怖かった。
しかし、母と祖母が、「今よ」と言わんばかりに目配せしてくる。
さくらは箸を置き、居住まいを正した。
「あのね……
お父さんに話したいことがあるの」
「ん? なんだ、改まって。小遣いでも足りないか?」
「ううん、違うの。
……実は私、お付き合いしたい人がいるの……」
その瞬間、賢吾の動きが止まった。
「……相手は、誰だ!」
「相手は……篠宮祐希さん。シェアハウスのオーナーの義理の弟さんで、管理人をしている人よ」
「なっ……!?」
その名前を聞いた瞬間、賢吾の顔色が変わった。
忘れるはずがない。
東京出張の際に、こっそり様子を見に行った柏琳台で、賢吾はストーカーと間違われ、巡回中の警察官に連行された。
その時、さくらと一緒に交番まで来てくれたのが祐希だ。
帰り際、『娘のボディガードをよろしく頼みます』と頭を下げた、あの好青年が……まさか。
(あの男と、交際したいだと……!?)
賢吾は驚きのあまり言葉を失い、まばたきも忘れてさくらを見つめた。
さくらもまた、真っ直ぐに父を見つめ返している。
その瞳は雄弁に語っていた。
『お父さんなら、彼がどれだけ誠実で頼りになる人か、知ってるでしょ?』と。
だが、ここで「あの時の青年か」と言うわけにはいかない。
隣には、何も知らない妻の晴子と母の吉乃がいるのだ。
「……か、管理人だと? おい、待て。
お前が住んでいるのは『女性専用住宅』のはずじゃないか……」
賢吾は動揺を隠すように、あえて「管理人」という立場を攻撃材料にした。
内心では、裏切られたという思いが渦巻いていた。
『娘を守ってくれ』と頼んだのに、その立場を利用して娘の心を奪うとは……!
「そのシェアハウスに、なぜ男がいる?」
「最初は女性だけだったんだけど、やむを得ない理由があって……」
さくらは、祐希のアパートが火事で全焼し、行き場を失った彼をオーナーが受け入れた経緯を説明した。
賢吾はその話を知っていたが、妻の前で知っている素ぶりは見せられない。
「……事情は分かった。だが、結果として『女性専用住宅』という条件は崩れているじゃないか!」
「祐希さんは管理人として、ちゃんと私たちを守ってくれてるわ!」
「守る? 娘に言い寄るのが守ることか! 不純異性交遊の温床になるような場所に、これ以上住ませるわけにはいかん。もっと管理のしっかりした、別の『女性専用マンション』を探して引っ越せ!」
父の激昂に、さくらは唇を噛み締め、毅然と顔を上げた。
「嫌よ! 私はあそこから引っ越しません!」
「なんだと!?」
「お父さん……私に言った『5つの条件』、覚えてる?」
さくらは指を折りながら、かつて父と交わした約束を一つずつ確認した。
①女子寮または女性専用住宅に住むこと。
②ピアノの練習が可能な防音室があること。
③勉学に励み、必ず大学を卒業すること。
④年3回(正月・GW・夏休み)は帰省すること。
⑤週に一度は実家に電話すること。
それは、箱入り娘が東京で一人暮らしをするために課せられた、絶対的なルールだった。
「……この中に、『恋愛禁止』なんて条件は入ってなかったはずよ!」
さくらの反論に、賢吾は言葉を詰まらせた。
確かに、恋愛禁止という条件は入っていなかった。
「へ、屁理屈を言うな! 条件3の『勉学に励むこと』。これが全てだ!学生の本分は勉強だ。
男にうつつを抜かしている暇があるなら、ピアノの練習でもしろ!」
「お父さん、私はちゃんと全部守ってるよ! 成績だって落としてない!」
「口答えするな!」
ダンッ! と賢吾がテーブルを叩く音に、さくらの肩が震えた。
けれど、もうあとには引けなかった。
胸の奥にずっと押し込めていた想いが、堰を切ったように溢れ出した。
「……私は、お父さんの人形じゃない!」
「なに!?」
「私、小さい頃からずっとお父さんの言いつけ、守ってきたよ!
学校が終わったらすぐバレエ教室に行って、帰ったらピアノの練習して……。
中高一貫の女子校に通って、寄り道もしないで真っ直ぐ家に帰って!
私の青春、ピアノとバレエと勉強だけだったじゃない!」
さくらの目から大粒の涙が溢れ出した。
純粋培養された箱入り娘。
それは父の愛であると同時に、呪縛でもあった。
「そんな私が、生まれて初めて自分から好きになった人よ……。
お父さん、どうして認めてくれないの!
私に一生、独身でいろっていうの!?」
娘の悲痛な叫びに、賢吾がたじろいだ。
自分が娘を籠の中に閉じ込めて育ててきたことへの、かすかな後ろめたさが胸をよぎる。
早乙女家のリビングに重い沈黙が流れた。
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