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第185話 秘密の関係

 窓の隙間から差し込む眩しい朝日で、祐希は目を覚ました。

 隣には、一糸まとわぬ姿の亜由美が白いシーツに包まれ静かな寝息を立てていた。

 その艶やかな寝顔を見た瞬間、冷水を浴びせられたような現実感が祐希を襲った。


(やってしまった……)


 最愛の恋人を裏切ってしまったという後悔が、鋭い(やいば)のように胸を抉った。

 さくらの切実な願いを拒絶しておきながら、自分は本能のままに亜由美を抱いてしまったのだ。


 やがて、亜由美がゆっくりと目を開けた。

 祐希と視線が絡む。

 その瞬間、亜由美の脳裏に、昨夜の記憶が鮮やかに蘇った。


 (……すごかった)


 20年間、男性とは無縁に生きてきた自分の身体が、昨夜、初めて知った悦び。

 ひとりで自分を慰めて積み上げてきた快感など、比べ物にならなかった。

 祐希の腕の中で何度も果てた、あの感覚。

 彼の温もりも、息遣いも、体重も——すべてが、亜由美の身体の奥深くに刻み込まれている。


 (もっと、欲しい)


 看護師として、シェアハウスの住人として自分を律してきた生真面目な彼女の奥底から、性の悦びと快感に貪欲な『もう一人の自分』が、昨夜の経験を経て完全に目を覚ましていた。


 祐希を独占したいわけではない。

 さくらと彼の関係はよく知っている。

 彼女が祐希にとって何より大切な人であることも分かっている。


 だが、それとは別に——この身体が知ってしまったあの悦びが、もう二度と訪れないと思うと、底知れない喪失感が胸の奥に広がっていった。


 (これっきりだなんて……耐えられない……)


 気まずい沈黙が、ベッドの上に重くのしかかった。

 交わす言葉が見つからない祐希に対し、亜由美はシーツを胸元で引き寄せながら、ぽつりと口を開いた。


「……祐希さん」


「……あ、亜由美さん。ごめん——」


「謝らないでください」


 亜由美の声は、いつもの控えめな響きとは違って、奇妙に落ち着いていた。


「わがままを聞いてくれて……私、嬉しかったんです」


 祐希は、亜由美の言葉の続きを待った。


「昨夜のことは、私と祐希さんだけの秘密です。

 さくらさんには、絶対に内緒にします」


「……ありがとう。

 そうしてもらえると助かるよ」


 祐希が重い声で頷いた、その時だった。


「だけど……ひとつだけお願いがあります」


 亜由美の声が、少し震えた。


「お願い?」


「私……祐希さんの彼女になりたいなんて、思っていません。

 さくらさんから祐希さんを奪う気もありません。

 でも……祐希さんと、これっきりは、いやなんです」


「亜由美さん……?」


 祐希は、彼女の言葉の意味を測りかねていた。

 亜由美はシーツを握りしめながら、視線を落としたまま続けた。


「祐希さんに抱いてもらって、私……自分の中の知らない自分に気づいてしまいました。

 昨夜の感覚が、頭からも、身体からも離れないんです」


 亜由美はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は涙で潤んでいたが、奇妙な決意の光が宿っていた。


「だから……お願いです。

 1か月に1度、いいえ2か月に1度でいいから……

 私を抱いてくれませんか」


 その言葉に祐希は息を呑んだ。

 亜由美の言葉は止まらなかった。


「祐希さんに抱いてもらえると思えば、私、看護師のお仕事も、もっと頑張れる気がするんです。

 夜勤も、辛いシフトも、その日を励みに乗り越えていけます。

 だから……どうか、私に『生きる喜び』を、与えてください」


 その言葉に祐希の頭は真っ白になった。

 予想もしない申し出だった。

 いつも控えめで、おっとりして、清楚な笑顔を絶やさない彼女から、こんな言葉が出てこようとは。


「私、約束します。

 昨夜のことも、これからのことも、絶対に誰にも漏らしません。

 お墓まで持っていきます。

 さくらさんとの関係を壊すようなことも、絶対にしません。

 ただ……ただ、2ヶ月に1度でいいので、私を抱いてください」


 亜由美の真っ直ぐな瞳が、祐希の理性を揺さぶった。

 彼女の言っていることを受け入れることは、間違いなく裏切りだ。

 さくらに知れたら、すべてが終わる。

 断らなければならない。今すぐ、はっきりと。

 そう頭では分かっているのに——口から出てきたのは、別の言葉だった。


「……どうして、そこまで」


「今、ここで縋らなければ、もう二度とこんな機会はないと思ったからです。

 ……それだけ昨夜のあなたが忘れられないんです」


 亜由美は自分の内なる心を解放し、素直な気持ちを伝えた。


「さくらさんから奪いたいわけじゃないんです。

 ただ……祐希さんの時間をほんの少しだけ、私に分けてほしいんです。

 無理なお願いということは重々承知しています。

 でも、もし——許していただけるなら……」


 そこで亜由美は自分の身勝手な言い分に気づき、慌てて前言を翻した。


「ご、ごめんなさい、私……なんて勝手なこと言ってるんでしょう。

 祐希さん、今の言葉は忘れて下さい……」


 そう言いながら亜由美の目から、ひとすじの涙がこぼれた。

 その滴の重さに、祐希は何も言えなくなった。


 (これが、亜由美さんの本心なのか?)


 祐希の知っている亜由美は、おっとりとした笑顔で誰とでも明るく接する控えめで優しい看護師だ。

 しかし今、目の前にいるのは、抑えきれない欲望と自己嫌悪の間で引き裂かれ、涙をこぼすひとりの女だった。

 その二つが同じ人間の中に同居している事実が、祐希の頭を混乱させた。


 しかし——同時に、祐希は否定できなかった。

 昨夜抱いた亜由美の身体の、あの魅力的で忘れがたい感触。

 看護師の仮面の下にあった、彼女の本当の表情。

 あの貪欲な情熱をもう二度と味わえないと思うと、「忘れてほしい」という言葉に安堵するどころか、自分の中にも彼女と同じ未練が残っていることに気づいてしまった。


 (……僕は、最低な男だ)


 さくらへの罪悪感の上に、さらに新しい罪悪感が積み重なっていく。

 それでも祐希は、罪悪感に泣き濡れる彼女を突き放すことはできず、自分の理性を裏切る言葉を止められなかった。


「分かった……亜由美さん、また2人だけで会おう」


「え……本当ですか?!」


「今回限りじゃ、僕ももう終われない」


 祐希は、自分の弱さを亜由美に素直に認めた。


「2ヶ月に1度——またこうして、2人だけの時間を作ろう。

 ただ、約束してほしい。この事は絶対に誰にも秘密だ。

 さくらはもちろん、シェアハウスの誰にも。

 ……もし誰かに知られたら、その時点で僕らの関係は終わりだ」


「はい……絶対に秘密にすると約束します」


 亜由美の顔に、涙と微笑みが同時に浮かんだ。


「ありがとうございます、祐希さん」


 そして、彼女は再び祐希の胸に顔を埋めた。

 それは、彼女なりの贖罪であり、同時に「2人だけの新しい絆」を確かに刻み込むための儀式だった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 身支度を整え、ホテルをチェックアウトした2人の頭上には、昨夜の嵐が嘘のような晴天が広がっていた。

 2人は並んで東京テレポート駅へと向かい、シェアハウスへ帰る始発電車に乗り込んだ。


 早朝の空いた車内で座席に腰を下ろした祐希は、スマートフォンを取り出した。

 画面には、昨夜さくらから届いていたメッセージが表示されている。


『関東で春の嵐と地震があったみたいだけど、大丈夫?』


 その気遣いに満ちた言葉が、祐希の罪悪感をさらに鋭く抉った。

 祐希は隣に座る亜由美と視線を交わす。

 彼女は小さく頷いた。

 ホテルを出る前、2人はすでにただの住人として振る舞うための「仮面」を被っていた。


 震える指で、祐希は偽りの弁明を打ち込んだ。


『心配かけてごめん。地震でエレベーターに閉じ込められて、その後に嵐で帰れなくなったんだ。

 仕方なく近くのホテルに避難したけど、亜由美さんとは別々の部屋に泊まったから大丈夫だよ』


 送信ボタンを押した瞬間、祐希は取り返しのつかない重い十字架を背負ったことを自覚した。

 ガタン、と電車が揺れる。

 窓の外を流れる眩しい朝の景色とは裏腹に、2人が向かうシェアハウスへの道のりは、どこまでも重く、息苦しかった。

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