第151話 明日奈の選択(1)
2月14日の午後。
祐希とさくらが幸せいっぱいのバレンタインデートへ出かけて不在のシェアハウスで、明日奈は重大な決断を下していた。
オーナー室のベッドで上半身を起こし、明日奈は口元を押さえて小さく呻いた。
日増しに激しくなる『つわり』の吐き気と倦怠感。
今の体調では、1週間後に迫った沖縄旅行への参加は不可能だと判断せざるを得なかった。
祐希との間に宿った新しい命。
その事実を隠し通すため、明日奈は「急性胃炎」という口実で旅行の不参加を決断した。
胃の奥から込み上げる不快感をやり過ごし、明日奈はスマートフォンを手に取った。
電話帳に登録されている『三島亜由美』の番号をタップする。
数コール後、亜由美が爽やかな声で電話に出た。
「はい、三島でございます」
「ヴィーナス・ラウンジの篠宮明日奈です、こんにちは」
「あ、明日奈さん、こんにちは。
今日はどうされましたか? 何か入居の書類に不備でもありましたか?」
「いえ、そうじゃなくて。
今日は三島さんに、折り入ってお願いがあって電話したの。今、少し時間いいかしら」
「はい、大丈夫ですよ。
お願いって、どんなことでしょう?」
電話越しに伝わってくる亜由美の誠実な対応に、明日奈はホッと胸を撫で下ろした。
「実はね、来週の連休あるでしょ。
2月21日(土)から23日(月)なんだけど、シェアハウスのイベントがあって、今年はみんなで沖縄旅行に行く予定なの」
「えっ、沖縄に旅行ですか……すごいですね」
「まあ、毎年の恒例行事なんだけど。
来年は亜由美さんも行けるわよ」
「そうなんですか、今から楽しみです」
「それでね、私もその旅行に行く予定だったんだけど……
胃の調子が悪くて、今回の旅行は参加を見送ることにしたの」
「明日奈さん、胃の調子大丈夫なんですか?」
看護師である亜由美の声に、職業柄、心配の色がにじんだ。
明日奈は努めて明るい声で嘘をついた。
「お医者様にも診てもらって、胃の検査もしてもらったから。
漢方薬を処方されて、それを飲んでいれば治るって言われたんだけど……
旅行の間は、私1人になっちゃうから。
ちょっと寂しいし、不安だなぁって思ったの。
だから、もし三島さんがその期間、泊まりに来てくれたら嬉しいなと思って電話してみたんだけど……」
「分かりました。21日から23日ですね。
私もちょうどお休みで、予定も入ってなかったので大丈夫ですよ」
「え、本当にいいの?
ダメ元で聞いてみたんだけど、助かるわぁ」
「私も、入居前にシェアハウスにお試しで泊まれて嬉しいです」
「ありがとう。じゃあ、何かご馳走しないとね」
「え、そんな、気を遣わないでください。
お休みの日に明日奈さんとご一緒できるだけでも嬉しいんですから」
「ふふふ、分かったわ。
でも何かしらのお礼はさせてもらうわね」
こうして、旅行期間中に三島亜由美が泊まりに来てくれることが決まった。
現役の看護師である彼女が泊まりがけで来てくれるのだから、つわりで一番苦しい時期の明日奈にとって、それはまさに『地獄に仏』だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
電話を切り、明日奈は深呼吸してから、もうひとつの連絡先を呼び出した。
それは、札幌に住む義妹の月への電話だ。
「月ちゃん、明日奈です。
今、少し時間いいかしら?」
「明日奈さん、こんにちは。
はい、大丈夫ですよ」
「ありがとう。ところで、受験の方はどうだった?」
「はい、バッチリです。自己採点でも合格ラインは軽く突破してましたから」
「そう、それは良かったわね。
じゃあ、月ちゃんに、ご褒美あげないとね」
「え、嬉しい……ご褒美ってなんですか?」
「月ちゃんを、沖縄旅行に招待します」
「えっ、それってシェアハウスの沖縄旅行のことですか?」
電話の向こうで、月の声がパッと華やぐのが分かった。
「そう。実はね、私、少し前から胃炎で体調が悪くて、みんなに迷惑かけそうだから今回の旅行に行くのはやめることにしたの。
だから、合格祝いとして私の代わりに沖縄旅行に行ってほしいのよ。
もちろん、札幌から羽田までの飛行機代も含めて、費用は私が全額負担するから」
「でも、明日奈さん、胃炎って大丈夫なんですか?」
「ええ、お医者様にも診てもらったし、胃の検査もしてもらって漢方薬を服用していれば治るって言われたから心配ないわ。
だから安心して旅行楽しんできて」
「やった~! 嬉しいな! 明日奈さん、ありがとう!」
月は、電話の向こうで歓喜の声を上げていた。
しかし、ふと我に返ったように尋ねる。
「でも、明日奈さん、旅行中1人で大丈夫なんですか?」
「実はね、3月に三島亜由美さんが入居する予定なの。
月ちゃんも知ってるでしょ、ほら、星城大学病院で祐希くんを担当してくれた看護師さんよ」
「えっ、確か、真面目そうで可愛い看護師さんですよね」
「そうなの。偶然だけど彼女がこの辺で部屋を探してるって聞いて、シェアハウスに住まないかって聞いたら、トントン拍子に入居が決まったのよ」
「そうなんですか、それってすごい奇遇ですね」
「そうなの。だから三島さんに電話して、2月21日から23日の間、シェアハウスに泊まって、私の傍にいてくれないかって頼んだら、快く引き受けてくれたの」
「へ~、三島さんっていい人なんですね」
「だから、私のことは心配しないで、みんなと沖縄旅行楽しんできてね」
「はい! そういうことでしたら、沖縄旅行に行かせてもらいます。
わ~、嬉しいなぁ、水着持ってかなきゃ!」
「祐希くんは今、さくらちゃんとデートに出かけてて不在なの……
だから、月ちゃんが旅行に行くことは、彼が帰ってきたら伝えておくからね。
旅行スケジュールとか詳細はお兄さんから聞いてちょうだい。
あ、それとお義父さんとお義母さんには、私からそういう話があったって伝えておいてね……」
「分かりました、伝えておきますね。
じゃあ明日奈さん、お大事にして下さいね」
「ありがとう、月ちゃん」
スマホを置いた明日奈は、大きなため息をついた。
そして、下腹部をそっと撫でる。
この『胃炎』という口実でいつまで誤魔化せるのかと考えると、明日奈は気が遠くなりそうだった。
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