第145話 明日奈の苦悩
1月19日(月曜日)午前9時過ぎのヴィーナス・ラウンジ。
朝から慌ただしく数人の工事業者が入り、2階奥にあるリビングの改装工事が始まった。
3月から入居する祐希の妹、月の部屋として使用する予定で、今日から5日間の日程で工事が行われるのだ。
住人たちは既に職場や学校へ出かけ、シェアハウスに残っているのは明日奈ひとりだけ。
1階のラウンジで、書類を広げて工程を確認しているのは、明日奈の親友、金澤美玲だ。
彼女は明日奈の高校の同級生であり、このシェアハウスの設計を手掛けた新進気鋭の建築デザイナーだ。
明日奈は、淹れたてのコーヒーを2つ持って現れ、美玲の隣に座った。
「悪いわね、売れっ子建築デザイナーに工事丸投げしちゃって」
「いいのいいの……私が精魂込めて設計した『ヴィーナス・ラウンジ』だもの……他の人には任せられないわ」
「ありがとね……とても助かるわ」
「ほら、よく言うじゃない……餅は餅屋に任せろって……
友達のコネクションは最大限に使うべきよ……」
美玲はコーヒーを飲みながら、明日奈の顔をマジマジと見た。
「……ところで明日奈……あなた、もしかして……恋でもしてるの?
肌の艶もいいし……前より綺麗になった気がするんだけど……」
美玲の言葉に明日奈はドキリとした。
「し、してるわけないでしょ、私は未亡人よ……」
「勿体ないなぁ……こんなにいい女がいるのに……
私が男だったら絶対に放っとかないんだけど……」
「美玲、それはこっちのセリフよ!
こんなに素敵な美女に男の影ひとつないんだから……
でも……美玲、なんで結婚しないの?
言い寄ってくる男なんて、いくらでもいるでしょ?」
「そんなの決まってるでしょ……
私の前にいい男が現れないからよ」
「そうやって理想ばかり追ってたら、婚期逃しちゃうわよ」
「まあ、それは一理あるかな……
……そういえば、このシェアハウスに亡くなった旦那さんの弟くんも住んでるんでしょ」
美玲はコーヒーを飲みながら、明日奈に言った。
「ああ、祐希くんのことね……」
「年頃の男と1つ屋根の下なんて……
まさか……変な気起こしたりしてないでしょうね?」
「な、何言ってるのよ。
祐希くんは大事な義弟よ。
変なこと言わないでよ……」
明日奈は図星を突かれ、慌てて視線を逸らした。
親友の鋭い勘に冷や汗をかきながら、河口湖で祐希との関係を「卒業」したばかりの明日奈の心は、ちくりと痛んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
改装工事は美玲の管理のもと、順調に進んでいった。
1日目にカウンターキッチンの解体や配管の閉栓と撤去が行われた。
2日目には、新しい壁の下地組みとドア枠が取り付けられた。
3日目には、電気工事と石膏ボードの貼り付けが終わり、あっという間に個室としての骨格が出来上がった。
シェアハウスの改装工事が進む一方、明日奈の身体に重大な『変化』が起きていた。
1月21日(水曜日)の夜……
オーナー室のベッドで横になっていた明日奈は、スマートフォンのカレンダーアプリを見つめ、血の気が引いていくのを感じていた。
(……遅れてる。もう、1週間近くも……)
元々周期は不安定な方だが、今までこんなに生理が遅れたことはない。
心当たりは――ありすぎるほどにあった。
年末年始、河口湖で狂おしいほどに求め合った祐希との行為。
明日奈は、普段から低用量ピルを使って避妊していたが、それでも妊娠する確率はゼロではないと医師が言っていた。
翌、22日(木曜日)
意を決し、薬局で買ってきた市販の妊娠検査薬を試してみた。
その結果は、無慈悲なほどにはっきりと『陽性』のラインが浮かび上がっていた。
「嘘……どうしよう……
祐希になんて言えばいいの……」
明日奈は震える手で口元を覆った。
本来なら、新しい命を授かったことは喜ばしいことだ。
だが、自分と祐希は7歳差の『義理の姉弟』であり、月に1度、互いの欲求を満たすための割り切った関係に過ぎなかった。
妊娠だけは絶対避けようと、明日奈は医師に処方してもらった低用量ピルを毎日服用し、万全を期していたはずだった。
予想もしない妊娠という事態に、明日奈は一睡もできないほど心神を摩耗させていた。
しかも、タイミングが悪いことに、2月から祐希とさくらの正式交際が始まる。
ここで祐希に妊娠を告げれば、責任感の強い彼はすべてを投げ打って、自分の子として育てると言うに違いない。
それは、祐希とさくらの未来を、自分が粉々に打ち砕くことを意味している。
そのような残酷な振る舞いは到底できるはずもない。
我が子をこの手に抱くという望みが、手の届くところにあるという事実。
それが今の彼女には、あまりに残酷だった。
明日奈は出口のない葛藤に苛まれ続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1月23日(金曜日)。
2階の11号室では壁紙が貼られ、ドアの取り付けや真新しい家具の搬入が進んでいた。
現場の管理を美玲に託した明日奈は、用事を済ませてくると言い残し、一人で隣町の産婦人科を受診した。
カーテン越しに行われる超音波検査。
モニターに映し出された、小さな黒い影を指し示しながら、医師は落ち着いた声でこう告げた。
「篠宮さん、おめでとうございます。ご懐妊です」
医師の淡々とした言葉が、まだ明日奈の耳の奥でこだましていた。
帰り道、冬の冷たい風に吹かれながら、明日奈はコートの上からそっと自分の下腹部に手を当てた。
(祐希くん……私、あなたとの子を授かったわ……)
彼との関係を絶ち、自分は「理解のある優しい義姉」に戻ると決心したばかりなのに。
今が一番大事な時期の祐希に、この事実をしばらく隠し続けようと明日奈は心に誓った。
だが、ふと来月の予定を思い出し、明日奈は大きな溜め息をついた。
(来月は、シェアハウスの沖縄旅行があるのに……この身体で、一体どうすればいいの……?)
誰にも言えない重すぎる秘密を抱え、明日奈の足取りは鉛のように重かった。
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