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第136話 明日奈と祐希のけじめ

 1月2日午前11時。

 ロビーでチェックアウトの手続きを済ませた明日奈は、涼しい顔でプラチナカードを財布にしまった。

 恐る恐る明細を覗き込んだ沙織が、震える声で尋ねる。


「あ、あの……結局、全部でおいくらだったんですか?」


「3泊4日で、飲食代とエステも含めて総額109万8千円。単純計算で一人36万6千円ってところかしら」


「ひゃ、ひゃくきゅうまん……ッ!?」


 その金額を聞いた瞬間、沙織はその場で卒倒しそうになった。


「1人36万って、私の半年分の部屋代じゃないですか!

 む、無理です! 逆立ちしても払えません!」


 パニックになり白目を剥く沙織に、明日奈は悪戯っぽく微笑んだ。


「だから、言ったでしょ?

 これはオーナーからの特別ボーナス。沙織ちゃんは1円も払わなくていいの」


 その言葉に、沙織はハッとして姿勢を正し、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、明日奈さん。

 こんな贅沢をさせてもらって……本当に、ご馳走様でした」


「ふふ、いいのよ」


 明日奈は優しく微笑み、正面玄関に横付けされた高級ミニバンのドアを開けた。

 3人は夢のような時間に別れを告げ、車へ乗り込んだ。


 帰りも明日奈がハンドルを握った。

 助手席に祐希、2列目シートには沙織が座った。


「それじゃあ、出発するわね」


 重厚なドアが閉まると、車内は外界の音から遮断され、静寂に包まれた。

 ハイブリッド特有の静かで滑らかな動きで、車はゆっくりと走り出した。

 遠ざかる旅館、見慣れた河口湖の景色。その奥には、冬空に白くそびえる富士山。

 それは、夢から覚めていく過程のようだった。


 東名高速に入って、しばらくすると、後部座席から規則正しい寝息が聞こえてきた。

 深夜遅くまでの激しい情事と、旅の疲れが出たのだろう。

 沙織は毛布にくるまり、幸せそうな寝顔で熟睡していた。

 バックミラーでその様子を確認すると、明日奈はカーステレオのボリュームを少しだけ下げた。


 車内に流れる静かなジャズピアノ。

 流れる冬枯れの景色。

 明日奈はハンドルを握りながら、前を向いたまま口を開いた。


「……祐希」


「ん?」


「今回の旅行……楽しかった?」


「うん。……一生の思い出になったよ。

 明日奈、本当にありがとう」


 祐希が素直に感謝を伝えると、明日奈はサングラスの奥で優しく目を細めた。

 だが、すぐに真剣な表情に戻り、はっきりとした口調で言った。


「……なら、よかった。

 これで、もう思い残すことはないわね……」


「ん?」


 祐希が問い返すより早く、明日奈は言葉を続けた。


「祐希……あなたとの男女の関係は、これで最後にしましょ」


 その言葉に祐希の心臓が跳ねた。

 明日奈の声は落ち着いていたが、拒絶の色ではなかった。

 ただ、揺るぎない「けじめ」の響きがあった。


「……実は僕も、明日奈に同じことを言おうと思っていたんだ」


「ふふっ……やっぱり、そうだったのね。

 さくらちゃんのお父様に会う前に、私との関係に『けじめ』をつけようと思ったんでしょ?」


「そう……中途半端な気持ちのまま、さくらのお父さんと面談するわけにはいかないから……」


「その通りね。さくらちゃんのお父様との面談は、2人の未来を賭けた大事な戦いなのよ。

 そこに臨むのに、私との曖昧な関係を残しておいちゃダメ」


「明日奈……」


「それに……沙織ちゃんの気持ちも、無視できないし……」


 明日奈はバックミラー越しに、眠る沙織を一瞥した。


「あの子の涙と、昨夜の真っ直ぐな想いを見て……痛感したの。

 あの子は本気よ。ただの遊びじゃない。

 だからこそ、私たちがこれ以上中途半端に彼女を巻き込んじゃいけないの」


 明日奈の言葉は、正論だった。

 未亡人という立場、オーナーと住人という関係、そして祐希とさくらの未来。

 全てを飲み込んだ上で、彼女はこの旅を「卒業旅行」にしたのだ。


「シェアハウスに戻ったら、私は『オーナー』で、あなたは『管理人兼住人』。

 そして、あなたの優しい『お義姉(ねえ)さん』に戻るわ……いいわね!」


 それは確認ではなく、明日奈なりの愛情を込めた最後通告だった。

 祐希は喉の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じながら、深く息を吸い込んだ。

 明日奈との大人の関係が終わるのに、未練がないと言えば嘘になる。

 だが、今さらもう後戻りはできない。

 せっかくの明日奈の決意を無駄にするし、さくらの想いを裏切ることにもなる。


「……分かった。

 明日奈、決断してくれてありがとう」


「ふふ、お礼を言うのは私の方よ。

 だって、元を正せば、あなたを半ば強引に大人の関係に引き込んだのは私なんだから」


「明日奈……」


「月に一度の抑えきれない私の衝動と、祐希の男の子としての欲求……

 お互いの利害が一致した関係とはいえ、結果的にあなたを振り回しちゃってごめんなさい。

 ……でも、この半年間、本当にありがとう。

 久しぶりに女の悦びを感じさせてもらったわ」


 それは、自責の念と深い慈愛が入り混じった、すべてを包み込むような大人の女性の微笑みだった。


「最後に一つ、義姉(あね)として忠告させてもらうわ」


「忠告?」


「さくらちゃんのお父様から交際許可をもらえたら、ラウンジで全員に堂々と『交際宣言』をすること。

 ……いいわね?」


「え……みんなの前で?」


「そうよ。交際宣言すれば、沙織ちゃんや未来(みく)ちゃんへの強い牽制になるし、他の住人もあなたのことを『さくらちゃんの彼氏』として、きっちり(わきま)えるようになるわ」


 明日奈の的確な助言に、祐希は深くうなずいた。


「……分かった。交際許可をもらえたら、ちゃんとみんなの前で宣言するよ」


「約束よ。さくらちゃんを、祐希の『絶対的な彼女』にしてあげなさい」


 明日奈は少し悪戯っぽく微笑み、そして前を向き直した。

 その横顔は、吹っ切れたように清々しく、凛として美しかった。


 車は都心へと近づき、ビルの影が長くなっていく。

 沙織はまだ夢の中だ。

 何も知らずにあどけない寝顔を晒す、無防備な少女と、現実を見据えて大人の決断を下した女性の横顔。

 祐希はシートに深く身を沈め、過ぎゆく街の景色を眺めていた。


 シェアハウス『ヴィーナス・ラウンジ』に到着した時、彼らの「秘密の休暇」は終わりを告げた。

 車を降りた瞬間から、彼らはまた、ただの義姉と義弟の関係に戻るのだ。

※創作活動の励みになりますので、作品が気に入ったら「ブックマーク」と「☆」をよろしくお願いします。

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