第115話 祐希の退院
退院を明日に控えた祐希は、成瀬医師の診察室にいた。
そこには、祐希の両親と妹の月、義姉の明日奈が顔を揃えていた。
「退院前検査の結果ですが、おおむね良好です。
今日、これから抜糸を行いましょう」
「よかったな、祐希」
「お兄ちゃん、よかったね」
成瀬医師の声に、家族の間に安堵の吐息が漏れた。
祐希が処置室へ移動し、ベッドの上へ横になると、成瀬医師はピンセットで1ヶ月近く祐希を縛っていた糸を抜いた。
疼きに似たチクリとした痛みは、退院の最終関門のように思えた。
左腕を覆っていたギプスも外され、代わりに着脱可能なプラスチック製の補助保護具が装着された。
「これで風呂にも入れるし、普通に生活できますよ。
順調に行けば、完治は12月中旬でしょうね。
ですが、骨を固定しているプレートは、1年後に手術で除去するまでこのままにしておきます」
その後、看護師から1週間分の薬(痛み止め、消炎鎮痛剤、胃薬)を処方された。
「リハビリを兼ねた通院は、毎週木曜の午後でよろしいですか?
それと、篠宮さん、お酒は完治まで厳禁ですよ」
「は、はい、わかりました」
成瀬医師の親身な指導に、祐希は苦笑いしながらうなずいた。
入院費精算の際に、明日奈が差額ベッド代を支払った。
差額ベッド代は1日10万円と五つ星ホテル並みに高額であった。
しかし、星城大学の女子学生を暴漢から救った勇気ある行動が評価され、理事会決議により「特別減免措置」が適用となり、差額ベッド代は半額の5万円に減額された。
それでも特別個室に入っていた期間が36日間にも及び、明日奈の支払総額は180万円と想像以上の負担だった。
父は通常の入院費と手術代などを支払った。
高額療養費制度の対象であるため、父の金銭的な不安が少しだけ和らいだのが祐希には分かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、祐希は約1ヶ月を過ごした特別個室に別れを告げ、両親と共にナースステーションへ向かった。
菓子折を手に、ナースステーションの前で、父が深々と頭を下げた。
「息子が大変お世話になりました。
これ、皆様で召し上がってください」
しばらく間があいて、看護師長がそれを受け取った。
「……本来はお断りするのが決まりなのですが、篠宮さんのせっかくのお気持ちですから……
今回は特例として、スタッフ全員でいただくことにしますね……
篠宮さん、退院おめでとうございます」
ナースステーションにいた引き継ぎミーティング中の看護師全員が祐希に手を振って見送ってくれた。
その後方で、担当看護師だった三島亜由美が少し寂しそうな表情で祐希を見送っていた。
病院正面玄関の自動ドアを抜けると、11月の清々しい空気が鼻腔をくすぐった。
ロータリーには、明日奈の高級ミニバンが停まっていた。
明日奈が運転席に乗り、祐希は後部座席に座る。
走り出した車から見える病院の建物が、バックミラーの中で次第に小さくなっていく。
帰り道、もう少しでお昼という時間帯だったので、近場で昼食を取ろうと父が提案した。
「少し早いが、この辺で昼食にするか……
明日奈さん、美味い飯が食べられる店に案内してほしい」
「分かりました。
では、近くにあるホテルのレストランにご案内しますね」
「うん、頼んだよ」
明日奈の車は、横浜市内の高層ホテルの地下駐車場に吸い込まれていった。
車を駐車すると、高速エレベーターで最上階にあるスカイレストランへ向かった。
その店は有名な和食レストランだった。
時間はまだ11時を少し過ぎたところで、店内は空いていた。
「いらっしゃいませ。5名様ですね。こちらへどうぞ」
ウェイトレスが奥の窓際の席へと案内してくれた。
眼下には冬の気配を帯びた横浜の青い海が広がっていた。
「明日奈さん、祐希、月。
今日はごちそうするから、何でも好きなものを注文してくれ」
父・幸希の弾んだ声に、祐希たちはメニューを開いた。
祐希と明日奈が選んだのは、寿司に天ぷらと茶碗蒸しにお吸い物がセットになった豪華な『寿司御膳』だった。
月は和風ハンバーグ定食を、両親は彩り豊かな和食御膳を注文した。
「うわ~、彩りが綺麗ね」
運ばれてきた寿司御膳の、宝石のように輝くネタに歓声が上がった。
祐希は早速、好物のホタテを口に運ぶ。
「うん、うまい……」
病院食に飽き飽きしていただけに、祐希は格別においしく感じた。
「明日奈さん、祐希が入院してから今日まで、本当にありがとう。
祐希も月も、よく頑張ったな、偉いぞ」
父が3人を褒めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食事後、両親を宿泊先のホテルまで送り、3人はシェアハウスへ戻った。
高級ミニバンが「ヴィーナス・ラウンジ」の前でゆっくりと停車した。
すると玄関のドアが開き、祐希の帰りを待っていた住人たちが玄関前で出迎えた。
「祐希さん!おかえりなさい!」
代表して祐希を迎えたのは、さくらだった。
その手には、大きな花束が抱えられていた。
「みんなからのメッセージカードも入ってます。
退院、おめでとうございます」
さくらの少し潤んだ瞳を見た瞬間、祐希の中で抑えていたものが解放された。
気がつくと、祐希はさくらを抱きしめていた。
「さくら……ありがとう。ただいま」
さくらの華奢な身体は温かかった。
住人たちから歓声と冷やかしの声が上がる。
みんなに祝福されながら約1ヶ月ぶりにシェアハウスのラウンジに入った。
もう何ヶ月も離れていたような錯覚に陥った。
月が荷物を持ってくれて、祐希はそのまま自分の部屋に入った。
ドアを開けると、部屋はきれいに清掃されており、その清潔さに祐希は驚いた。
「え、前よりキレイになってる……もしかして……月がやってくれたのか?」
「へへ~、お兄ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、掃除しておいたんだ。
洗濯も全部済ませてあるよ!」
月が自慢げに胸を張る。
「偉いぞ月、ありがとな」
妹の頭を撫でてやると、月は、子猫のように喉を鳴らし、祐希に甘えた。




