第107話 天使の口づけ
術後3日が経過し、担当医から容態が安定したと判断が下された。
祐希は一般病棟に移ることになったが、そこは何と最上階の『特別個室』だった。
広々とした室内には、バス・トイレはもちろん、応接セットやミニキッチンまで完備されている。
ホテルの客室と見紛うような豪華な部屋だ。
「す、すごい部屋だな……
明日奈さん、ここ高いんじゃないのか?」
「大丈夫です、差額ベッド代は私が負担しますから……
祐希くんが守ってくれたのは、私のシェアハウスの住人ですし……
これくらいさせてもらわないと、私の気が済みません」
「いや、しかし……。それは親である私が払うのが筋だ」
幸希は申し出を断ろうとしたが、明日奈は頑として一歩も引かなかった。
「お義父様、今は祐希くんの回復を第一に考えさせてください。
それに、お医者様とも相談して、付き添いの許可を頂きました」
明日奈の真剣な眼差しに、幸希は気圧された。
義父は彼女の並々ならぬ覚悟を感じ、潔く頭を下げた。
「分かった……今回は明日奈さんの気持ちに、甘えさせてもらうよ。
本当にありがとう」
「認めていただき、ありがとうございます。
実は、この部屋を選んだのは、24時間『付き添い』ができるからなんです」
「付き添い……? この部屋に泊まれるのかい?」
「はい。祐希くんが目覚めた時、知らない場所に1人で寝ていたらパニックになるかもしれません。
ですから、24時間付き添いできる体制を作ろうと思っています」
明日奈の瞳に迷いはなかった。
「日中の8時から20時までは、お義父様、お義母様と月ちゃんにお願いします。
それとシェアハウスのメンバーが交代でサポートします」
「えっ、それじゃ夜は誰が付き添うの?」
義母が心配そうに明日奈に尋ねた。
「夜20時から翌朝8時までは、私たち4人が交代で付き添います」
明日奈はシェアハウスのメンバーを集めて作成した『看護シフト表』を提示した。
彼女が提案したのは、負担を分散させつつ安全を確保する、4人体制のローテーションだった。
1日目: 沙織 & さくら
2日目: さくら & 明日奈
3日目: 明日奈 & 未来
4日目: 未来 & 沙織
(以降、繰り返し)
「防犯上の理由から、2人体制で泊まり込むことにします。
簡易ベッドをもう一台入れてもらいました」
1人が2晩連続で担当することになるが、状況の伝達もスムーズで精神的な負担も軽減できる。
その提案に、月が反応した。
「私がずっとお兄ちゃんのそばにいる!」
「月、気持ちは分かる。
だが、昼間の12時間を支えるのは、家族の大事な役目だ。
夜まで無理をして、肝心の昼間に倒れでもしたら元も子もない」
「なんで!? お兄ちゃんのためなら何だってできるもん!」
「ダメだ。夜はしっかり休んで、お前は朝一番で元気な顔を祐希に見せてやりなさい。
それが今の祐希にとって一番だ。だから夜はホテルへ帰るぞ」
月をなだめ、幸希と祐子は、彼女たちの申し出に深く頭を下げた。
「さくらさん、沙織さん、明日奈さん、未来ちゃん……。
本当にありがとう。祐希は幸せ者だ。どうか、あいつをよろしく頼みます」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
事件から1週間経った10月1日の夜。
時刻は21時を回っていた。
今夜の担当は、さくらと沙織の2人だ。
静寂の中、さくらはベッドサイドで1人、椅子に座っていた。
沙織は自販機に飲み物を買いに行くと言って、席を外していた。
さくらは祈るように手を組み、祐希の寝顔を見つめた。
入院してからすでに1週間が経った。
医師は「脳波に異常はない」と言っていたが、いつ目覚めるのか何の保証もない。
(もし、このまま目覚めなかったら……)
さくらは不安で胸が押しつぶされそうだった。
彼女は、祐希の右手に自分の手を重ねた。
「……私のせいで、祐希さんの時間を止めてしまったのなら……
私は一生、自分を許せません……」
さくらの瞳から溢れ出した大粒の涙が、祐希の頬に落ちて一筋の光る跡を描いた。
「起きてください、祐希さん。お願い……
私を、1人にしないで……」
さくらは祈るようにつぶやくと、祐希の顔の近くに身を乗り出した。
彼女の長い黒髪が祐希の肩にかかり、震える吐息が彼の前髪をかすかに揺らした。
さくらは目を閉じ、彼女の熱い想いを託して、祐希の乾いた唇に自分の唇をそっと重ねた。
それは汚れない『天使』の、愛する者の魂を呼び戻す切実な儀式だった。
(祐希さん、お願い……帰ってきて……! 私を、一人にしないで……!)
さくらは、祐希の肩をそっと抱き寄せ、2度、3度と、縋り付くように祐希の唇を求めた。
閉じられた彼女の瞼から、こらえきれない涙がこぼれ、祐希の頬を濡らしていく。
さくらは、ありったけの愛と願いを込めて、情熱的な口づけを繰り返した。
深い闇の底にいた祐希の意識に、花の香りのような温もりと、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「……ん……」
その瞬間、さくらが重ねた唇に微かな反応が伝わってきた。
祐希の喉が小さく鳴り、さくらが弾かれたように顔を上げると、彼の眉がピクリと動いた。
そして、固く閉じられていた瞼が、ゆっくりと、確かな意思を持って持ち上がった。
「……え……」
祐希の瞳に灯った光を見た瞬間、さくらの胸の中にあった霧が、一気に晴れた。
「……祐希さん……祐希さん……!」
さくらは、震える声で何度も祐希の名を呼んだ。
堰を切ったように溢れ出した涙が視界を滲ませ、言葉にならない安堵と喜びが、その呼び声に重なる。
祐希の瞳が、天井を彷徨い、さくらの顔で止まった。
「……さくら……」
掠れた、乾いた声。
しかし、それは間違いなく祐希の声だった。
「ゆ、祐希さん……!?」
さくらは、祐希の右手を握りしめた。
「気がついた……! ああ、よかった……!」
その時、ドアが開き、沙織が入ってきた。
そして目覚めたばかりの祐希と目が合った。
「せ、先輩!?」
沙織がベッド際へ駆け寄ると、その目からは瞬く間に涙が溢れた。
祐希はぼんやりとした頭で、泣きじゃくる美少女を見た。
「沙織……ここは……?」
「病院です……! 先輩、1週間も眠っていたんですよ!」
「1週間……?」
祐希は、無意識に起き上がろうとしたが、体中が鉛のように重い。
記憶にあるのは、スタン警棒やサバイバルナイフ、それにメリケンサックによる激しい痛みの記憶だ。
「そうか……助かったんだ……」
自分が生きていて、こうして2人が無事であることに、祐希は安堵のため息を漏らした。
「沙織さん、ナースコール、押して下さい」
「うん」
沙織がナースコールを何度も押し、看護師を呼んだ。
さくらは祐希の額に自分の額を寄せ、泣き笑いの表情で言った。
「祐希さん……帰ってきてくれて、ありがとう……」
それからまもなく当直医が駆けつけ、意識レベルの確認が行われた。
名前、生年月日、握力などのチェックが行われ、医師は満足げにうなずいた。
「完璧です。意識障害も見られません。もう大丈夫」
その言葉に、恋のライバル関係にある2人は手を取り合って喜び合った。
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