第106話 星城大学病院の長い夜(2)
手術開始から3時間が経過し、時計の針は午前3時15分を指していた。
窓の外はまだ深い闇に包まれ、待合室は息の詰まるような沈黙に包まれていた。
ふいに、手術室の赤いランプが消えた。
その直後、手術室の自動ドアが開き、手術着の上から白衣を羽織った医師が姿を現した。
「篠宮祐希さんのご家族はいらっしゃいますか?」
その声に明日奈がすぐに立ち上がった。
「はい、私は義理の姉です。
他のみんなは、シェアハウスの同居人です」
医師は明日奈と、後ろで固唾をのんで見守る女性たちの顔を見渡し、小さくうなずいた。
「……私は祐希くんの執刀を担当した成瀬です。
手術は無事終了しました。
出血も止まり、バイタルも安定しています」
その一言に、待合室の空気が一気に緩んだ。
琴葉や朱音から安堵の声が漏れた。
「よかった……本当によかった……」
成瀬医師はカルテを見ながら説明を続けた。
「まず、左上腕骨ですが、完全に折れていました。
こちらは金属プレートで固定する処置を行っています。
リハビリは必要ですが、機能障害が残ることはないでしょう」
まずは一つ、最悪の事態は免れた。
だが、成瀬医師は真剣な表情のまま先を続けた。
「次に左腹部の刺し傷ですが、これが最も危険でした。
あと1~2センチ深ければ内臓を損傷していましたが、幸いにも筋肉の層で止まっていました。
ただ出血が多かったので、現在は輸血を行っています」
「……頭の怪我は、どうなんでしょうか?」
明日奈がおそるおそる尋ねる。
「頭部に裂傷がありましたが、既に縫合処置を終えています。
幸い、CT検査の結果、脳内出血や骨折は見られませんでした。
今は脳震盪を起こしている状態で、鎮静剤で眠らせています。
意識が戻るまで、もしかすると数日かかるかもしれません」
医師の話を要約すると、重傷ではあるが、致命的な事態は回避できたということだ。
それを聞いたさくらは、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き崩れた。
「……祐希さん……助かって良かった」
沙織も明日奈の背中にしがみつき、声を殺して泣いている。
祐希が一命を取り留めたことに、住人たちは胸を撫で下ろした。
成瀬医師は、さらに言葉を続けた。
「現在、彼はICUにいます。
今晩は私が責任を持ってICUで容態を注視します。
面会は、深夜ですので、ご家族の方1名のみ、短時間でお願いします」
医師の言葉に、全員の視線が明日奈に集まった。
明日奈は一瞬さくらを見たが、すぐに視線を戻した。
「私が代表して彼に面会し、そのまま病院に残ります。
数時間後には、彼の家族もこちらへ到着するはずですから……」
さくらや沙織を祐希に会わせてあげたいが、今の憔悴しきった様子では、あの痛々しい姿を直視するのは酷だろう。
まずは彼女たちをシェアハウスへ帰し、休ませるのが責任者としての務めだ。
「みんな、今日はもう遅いから、一度帰ってゆっくり休んで……
祐希くんのことは私が見てるから」
明日奈の言葉に、異論を唱える者はいなかった。
怜奈は明日奈の意図を汲み取るように深く頷き、口を開いた。
「分かったわ。明日奈さん、祐希くんのこと、お願いね。
さくらちゃんと沙織ちゃんは、私が責任を持って連れて帰るから」
シェアハウスの住人たちは、後ろ髪を引かれる思いで、ICUの扉を見つめた。
その先で今、祐希が一人で戦っている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
9月25日午前10時30分を過ぎた頃。
『星城大学医学部附属病院』の正面ロビーに、大きなスーツケースを引いた3人の男女が駆け込んできた。
新千歳空港からの始発便で駆けつけた、祐希の両親と妹だ。
「明日奈さん!」
ロビーで待っていた明日奈を見つけるなり、父・幸希と母・祐子が歩み寄った。
明日奈は徹夜明けの憔悴した顔で、深々と頭を下げた。
「お義父さん、お義母さん。申し訳ありません。
私が傍にいながら、こんなことに……」
明日奈の目の下には隈ができ、声は涸れていた。
幸希は首を横に振ると、明日奈に向かってうなずいた。
「顔を上げて……明日奈さんのせいじゃない。
むしろ、ずっと付き添ってくれて感謝しているんだ」
「そうよ。一番辛いのは祐希本人と、襲われたお嬢さんたちでしょう。
貴女が謝ることなんて、何もないわ」
義母も優しく労いの言葉をかける。
その時、妹の月が、泣き腫らした目で明日奈に聞いた。
「明日奈さん……お兄ちゃんは、どこ!?」
「こっちよ、私が案内するから、ついてきて」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
祐希の痛々しい姿を見た瞬間、月は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
震える手で、母親の袖を無意識に強く握りしめている。
「……うそ……あそこにいるの……本当にお兄ちゃんなの……?」
月は、かすれた声でつぶやき、ガラスの向こうで眠っている祐希から目を逸らすことができなかった。
「……この前電話で話した時は、あんなに元気そうだったのに……」
月は、言葉を続けることができず、涙をぬぐうことも忘れ、兄の姿を見つめていた。
その後の医師の説明によれば、命に別状はないものの、脳の腫れが引くまでは予断を許さない状況だという。
その日から祐希はICUの管理下に置かれた。
家族とシェアハウスのメンバーは、交代で病院の待合室に詰めることとなり、祈るような時間を過ごした。
重苦しい空気が漂う待合室の壁掛けテレビから、ニュースが聞こえてきた。
『――次のニュースです。
昨夜9時過ぎ、柏琳台駅近くの路上で、男子大学生が男4人のグループに襲われ、意識不明の重体となる事件がありました』
その言葉に、幸希と祐子は弾かれたように顔を上げた。
画面には規制線が張られ、ブルーシートで覆われた現場付近の映像が映し出されていた。
『警察の調べによりますと、被害に遭ったのは星城大学2年の篠宮祐希さん(20歳)です。
篠宮さんは、一緒にいた女性2人をストーカーグループからかばおうとして、腹部をナイフで刺され、金属製の鈍器で殴られ、左腕を骨折するなどの重傷を負いました』
「お兄ちゃん……」
月が口元を押さえ、食い入るように画面を見つめる。
『警察は、現場にいた自称・会社員を含む4人の男を殺人未遂の現行犯で逮捕しました。
調べに対し容疑者らは「聖女の天使を騙す男から天使を救おうとした」などと意味不明なことを供述しており、ストーカー行為がエスカレートした末の凶行とみて、犯行に至る具体的な経緯の解明を急いでいます』
画面が切り替わり、現場から押収された凶器――金属製の棒と、血の付着したサバイバルナイフの映像が映し出された。
それは、祐希がどれほどの暴力に晒されたかを、残酷なまでに物語っていた。
「……あいつは、こんな連中を相手に、1人で立ち向かったのか……」
幸希は拳を握りしめ、震える声でつぶやいた。
息子が直面した恐怖と、それを乗り越えて誰かを守り抜いた勇気を、父は無言で称えた。
「勇気ある行動に称賛の声が寄せられていますが、あまりに代償の大きな事件となりました」
ニュースキャスターが、締めくくるその言葉が、家族の胸に重く突き刺さった。
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