表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

『北川古書店』【2】幻想の夜

三月の静かな夜。古書店の棚から語りかけてくるような気配と、人との新たな出会いが始まります。

  【2】幻想の夜

三月二日、朝九時。私はMINIに乗って北川古書店に向かった。

店に入ると、叔父が掃除をしていた。

「おはようございます」

「新店長、おはようございます」

笑顔で迎えてくれた。

午前中は、ノートに書かれた本棚の分類について説明を受けた。目的の本の場所も一応わかったが、す ぐに覚えられるものではない。時間だけが過ぎていった。

その間にも来客は続き、忙しい午前となった。

十二時少し前、「飯にしよう」と叔父は上野商店に弁当を買いに出かけた。ノートには、惣菜店の弁当のランキングまで書かれていた。

食後、コーヒーを飲みながらノートを眺めていると、五時すぎ、学生風の女性が入ってきた。

目鼻立ちの整った涼しげな顔立ちで、書棚をじっと見つめている。

十五分ほど探してから、私たちのいる机に近づいてきた。

「『一葉日記』はありますか?」

「在庫はありません。復刻版は八万円以上だったと記憶していますが、入手は可能です。古書会館の交換会で探せますが、いかがなさいますか? 新刊でもよろしければ、すぐに入荷できます。二冊組で二万円ほどかかると思います」

しばらく考えた後、

「新刊でお願いします。入ったら連絡をください」

と、連絡帳に電話番号と名前を記してくれた。

“前沢綾乃”とあった。彼女の顔と名前、そして本の題名を私はしっかりと覚えた。

「ありがとうございました」

叔父が丁寧に送り出したが、私はすぐに声が出なかった。

「どこに発注すればいいの?」

「新刊でも、すぐに入らない場合もある。そのときは同業者に頼むんだ」

叔父は電話帳の『大沢書房・神田店』を指さした。

「蓼科の病院に入院している間、何か相談があったらメールで連絡して。返事はするから」

「明日は朝八時には蓼科に向けて出発する。雅人君、私の古書店を頼んだよ。無理を言ってごめん。で も、きっと楽しいこともあるよ」

そう笑ったが、どこか寂しそうにも見えた。

その夜、北川古書店には「空気のざわめき」とでも形容すべき気配が感じられた。

閉店後の静けさに包まれた店内で、勇叔父と私は、まだ分類しきれていない本棚を眺めていた。

棚に並んだ様々な時代の本が、まるで時代を超えて、

『手に取って見てほしい』

と語りかけてくるようだった。

私は本を手に取り、ページをめくった。その文字は、脳裏にじわりと染み込んできた。

「……なんか、今夜はやけに感じるものがありますね」

私の言葉に、叔父は軽く頷いた。

「ここの本は、ときどき『自分を見てほしい』って言ってくる。静かにしていれば、向こうから話しかけてくるよ」

叔父は目を細めて本棚を眺めていた。

「『古書を有意義に使ってほしい』と訴えてるみたいだ」

「ここには、別の世界がある」

私がつぶやくと、叔父は何も言わず、ただ静かに笑った。

視線が隣の棚に移る。背表紙は沈黙を保っているが、語りかけてくるようだった。

叔父は、本の声を聞いているようだった。

「さ、今夜はここまでにしようか。全部を一日で確認は無理だよ」

私は頷いた。

帰り際、私はもう一度、本の並ぶ棚を見やった。

北川古書店。その奥には、まだ見ぬ「物語」が待ち構えているような気がした。

三月三日、九時半には店に着き、掃除を始めた。狭い店内に、よくこれだけ多くの本が並んでいるものだと感心した。

昨夜の続きを確認する。

一通り本棚を見て展示方法も理解したが、自分の読んでいない本があまりにも多いことに驚かされた。

大正・昭和の作家の初版本も多く並ぶ、立派な古書店だ。

文学部を卒業して何になりたいのか。出版社に勤めて本づくりに関わりたいと思っていた私は、この本 の山を眺めながら、自分でも何か書いてみたいという思いが湧いてきた。

ここ北川古書店は、勉強の場としては最高の場所だと感じた。

電話が鳴った。

「はい、北川古書店です」

「大沢書房の楠木です。本日、『樋口一葉日記』が入荷しましたので、郵送しますね。仕切りは一万六千円です」

「ありがとうございます。店主はただいま留守にしておりますので、北川雅人が担当いたします。よろしくお願いします」

翌日、『一葉日記』が届いた。

まず、ショートメールを入れた。

『前沢様 一葉日記、入荷しました』

昼には返信があった。

『本日は訪問できません。明日六時ごろ、受け取りに伺います』

『価格は一万九千円です』と返信した。

本日は九人のお客様が来店し、売り上げは三万一千円となった。

五時半、黄色のセーターを着た和美さんが来店した。

「こんにちは」

愛くるしい目でじっと見つめて微笑んだ。

「和美さん、ここに座って」

と、事務机の向かいに椅子を置いた。

「先生、わからない問題を持ってきました。教えてください」

「先生はやめて、雅人でいいですよ」

「数学の問題集を持ってきたの。教えて?」

問題集を開くと、“相加平均と相乗平均の等号成立条件”と書かれていた。

「どの問題?」

「これがわからない」

第3問を指さした。

丁寧に説明すると、理解できた様子だった。それに関連する問題を選び、十問ほど解いていった。

三十分ほどの勉強が終わった。

「雅人先生、理解できました」

「次もわからない問題があったら持ってきて。一緒に解こう」

と言うと、彼女は頷いた。

文学の話もした。

「日本の作家で誰が好き?」

「一葉」

「どんなところが好きなの?」

「苦労して、努力していた」

その返事に驚かされた。十七歳の女子高生の瞳は、キラキラと輝いていた。


本と人との出会いが、静かに始まっていく夜。

北川古書店の灯りは、これから多くの「物語」を照らしていきます。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ